第2話

 林の中で、なかが恐ろしいものを見たと言い出したのは、新之助が狸を助けてから三日後のことである。

 その日、いつものように五郎八の店へ行くと、店先で新之助は血相を変えたなかに袖を掴まれた。


「見ちゃったんですよ、昨日」

 なかは膨らんだ胸を上下させて、言った。

「いったい、どうしたんです」

 新之助は天秤棒を下に置いて、なかにというよりも、なかの後ろにいる五郎八に視線を向けた。すると、いや、すみませんと五郎八がなかの背中を突っついた。

「どうぞ聞き流してください。こいつがまた妙なことを言い出して」

「妙なことって。――見ちゃったんだからしょうがないじゃないの」

「まあ、まあ。どこでどんなものを見たのか、落ち着いて話してください」

 新之助はなかと五郎八をとりなすように、言った。五郎八となかは仲のいい夫婦だが、気性は正反対といってもいいような二人だ。生真面目でおとなしい気質の亭主に比べて、なかは明るく屈託ない性質だが、少々気分屋のところがある。

 そんななかを五郎八が可愛くて仕方ないのを知っている新之助は、五郎八に目配せすると、なかを長床机に坐らせて、その前に天秤棒を降ろした。


「それで、どこで何を見たんです?」

 坐って気分が落ち着いたのか、なかは深く息を吐くと言った。

「林の中ですよ。ほら、新之助さんが狸を助けたっていう沼のあるところ。あそこで昨日の晩、人殺しを見たんです」

「ずいぶん物騒な話ですね」

「真面目な話なんですよ。昨晩大島町で葬式がありましてね。昔世話になった人だったもんですからどうしても行かなくちゃならなくて。葬式が終ってからも片付けやら何やら手伝っていたらすっかり遅くなってしまって。大きな松の木のあるたりでした。きぇって短い叫び声がして顔を上げると、男が女に追いすがっているところで」

 なかは今目の前にその光景を見ているかのように、唇を震わせている。

「きっと殺されたんだわ。男が逃げる女の髪を引っ張って、それから、こうやって」

なかは包丁を持った手を振り上げた。

「こうやって、えいっと女に向かって――」

 もう何度も聞かされているらしく、亭主の五郎八は二人にそっぽを向けて、芋の皮を剥いている。


「顔も見えたんですか?」

 これが本当の話なら、えらいことである。

「顔は、顔は暗くて見えなかったんです。着物の柄も女の髷の形もよくわかりません」

 そう言って、なかは両手で顔を覆った。

「あたし腰が抜けそうになってしまって。それでもどうにか走って逃げてきたんです。もし男に気付かれていて追いかけられたらどうしようって。家に帰ってからも眠れなくって」

「本当になかさんが人殺し見たのなら、番屋に届けなきゃなりません」

「そこなんですよ」

 五郎八が、皮を剥く手を止めて新之助に顔を向けた。


「こいつがあんまり騒ぐもんですから、今朝あっしが見に行ってきたんです。そしたら倒れた女なんか、どこにも見当たりませんでした」

「――埋められたのかもしれないじゃないか」

 恨めしそうになかが言ったが、五郎八は取り合わなかった。

「そういうこともあるだろうと思って、あっしは植木職人をしている金次を連れて行ったんでさ。あいつなら地面のことは見ればわかる。でも新しく掘り返したり盛り土をした場所なんかありゃしなかった」

 そして五郎八の顔は、照れくさいような苦笑いになった。馬鹿馬鹿しいことで騒ぎ立ててすみませんと、その顔は謝っているようである。


「とにかく何もなかったことで、この件は落着したんだ。ほかのお客さんにまで妙な話をするんじゃないぞ」

 だがなかは、おもしろくなさそうに横を向いて返事をしなかった。


 

 なかが騒ぎ立ててから十日ほどがたち、五郎八の店でその話が話題に上ることはなくなっていた。恐がっていたなかも、どうせ狸にでも化かされたんだろうと店の客たちに言われて、しぶしぶ納得したようである。新之助が狸を助けたという話が出たすぐあとだったので、事を狸に結び付け易かったのかもしれない。

 新之助も、いつのまにかなかの騒ぎを忘れてしまった。あれからも何度となく林の中を通ったが、特に変わったことはなかったし、天秤棒を担いでいるときは、商いのことで頭がいっぱいだからだ。

 そして何より新之助がなかの騒ぎを忘れてしまったのは、新たに回った木場町で、新規の得意先を手に入れたからだった。それは老舗の料理屋松金屋で、江戸では知られた店だった。

 新之助がそんな店に食い込めたのは、店の主人が代替わりしたからだった。新しく店をまかされた若旦那の藤吾郎は、それまでの取引先を見直すという大胆なことをはじめた。新しい料理を出し、新しい客を呼び込むためには、まず仕入先から見直さなくては駄目だ。その方針が、ちょうど挨拶回りに寄った新之助に運をもたらしたのである。

 侍上がりで棒手振をしている。そんなところも若旦那の興味をひいたらしい。話を聞きながらいい顔をしなかった板前を無視して、新之助との商いをまとめてくれた。 

 話の途中で、

「どうやらまだまだ商いの勉強が足りませんな」

 そんなことも言われたりしたが、新之助は食い下がった。まとまった取引額は、普段の新之助の二十日分の上がりにもなる。何を言われても食いついて離したくなかった。

 

 こうなってくると、猿江村の半助から仕入れるだけではとうてい間に合わない。新之助は思い切って、神田の多町にある市場へ行ってみるつもりだった。

 商いにまだ自信がなく、新之助は商人たちがはばをきかせる市場へ足を踏み入れたことがなかったが、大きな商いをものにするには、それなりの手順を踏む必要があるだろう。多町で仕入れるとなると、半助からよりは仕入れ値が嵩むはずである。窮窮とした日々の暮らしに、蓄えなぞあるはずがない。元手はどうするか。


 松金屋からの帰り道、踊る胸のうちを押えようもなく、新之助は足取りも軽く家路に向かっていた。朝からよく晴れ上がった空が輝き、行き交う人々の姿もどこか楽しげ見える。故郷を出て来て以来、ずっとよそよそしい顔をしていた江戸の町が、ふいにあたたかく自分を迎えてくれているように思えた。物売りや商家の店先のざわめきが、心地よく自分を取り巻いている。


 江戸で生きていこう。


 新之助は今更ながらにそう思った。国元を発った日からずっと、それは自分に誓ってきたことだった。だが今日までは、心の隅のどこかに、故郷へ帰る船をつないでいたように思う。その船が今、錨を上げ、遠のいていく。


 明日だ。

 早速明日、多町に行ってみよう。


 そう思ったとき、新之助は背後から肩を捕まれた。振り返ると、枯れ枝のように憔悴した男が立っていた。

 国元からいっしょに出てきた柴崎弥左衛門である。


「先程から何度呼んだか知れぬ。おまえは耳が悪くなったのか」

「すまん。考え事に気を取られていた」

 そう言いながら頭を掻いた新之助だったが、変わり果てた友の姿に動揺は隠し切れなかった。病がよほど深く体を蝕んでいるのか、柴崎のこちらを見る目には力がなかった。耳の周りの白髪が青い顔をさらに暗く見せ、立っているのも億劫そうに見える。新之助よりは二つ三つ年上ではあるが、まだ三十にはなっていないはずだ。


「起き上がって大丈夫なのか」

 新之助が問うと、柴崎は薄く笑った。

「こんな体でも食っていかねばならんからな。布団の中で寝てばかりもおれん」

「だが無理は禁物だぞ」

 疲労からくる風邪をひき、そのあと肺の病に冒された柴崎には、休養がいちばんの薬のはずである。労わるように背中を押した新之助に、柴崎は明るく言った。


「その後、商いはどうだ? うまくいっているか」

 そもそも新之助が棒手振りをはじめたきっかけは、柴崎がつくったのだった。同じ長屋で暮らすおかみから、柴崎は半助を知り、棒手振の仕事を思いついた。だが、体を壊した柴崎は、一、二度町を回っただけで新之助に譲ることになった。


「町人の真似事はきついのじゃないか」

 日々の暮らしに追われて、新之助が柴崎を訪ねなくなってから、もうずいぶんの月日がたっている。もちろん忙しいばかりが、顔を見せない理由ではなかった。言い訳は毎度いろいろあったが、人生という舞台の、裏側へ裏側へと引きずられていく男を、目の当たりにするのが恐かったこともある。

 柴崎の不運は明日の我が身となるのではないだろうか。その現実からは少しでも目を背けていたい。


「どうにかやっているよ。こっちもとにかく食わねばならん」

 そして、こうして生きていけるのもおまえのおかげだ。

 だが新之助は、今日まとまった商いの話を口に出すことはできなかった。言えば柴崎も喜んでくれるだろうが、自慢話になることは避けたい。


「ところでこれからどこへ行くつもりだ」

 新之助は、話を変えた。

「行くのではなくて帰るところだ。浅草で造り花屋をしている男と知り合いになってな。その男が僅かだが仕事を分けてくれている。今日は菖蒲を納めに行ってきた。そのあと天気がいいから、たまにはちょっと歩いてみようと思ってな」

「そうか。菖蒲か」

 色紙を糊で貼り付けて作る造り花なら、病身の男にもできない仕事ではないだろうが、まとまった稼ぎにはならないはずである。日々の入用にとどまらず、薬代だけでも馬鹿にならないだろう。そう思ったとき、柴崎が言った。

「おまえ、ちょっと付き合えないか」

 そして指先でぐい飲みの形を作った。柴崎は飲める口である。青い顔をほころばせて、

「相談したいことがあるんだ」

と、新之助の肩を押した。


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