明日の呼び声ー江戸棒手振り物語
popurinn
第1話
雨は勢いを増してきた。
新之助は転がるように土手道を走った。
先の大地震で崩れ落ちた武家屋敷の土蔵が、そこかしこでいまだ無残な姿をさらしている。
稲妻が光った。瞬間、家々の屋根瓦が白く浮き上がる。
ようやく一軒のあばら家を見つけ、新之助は軒先に体を寄せた。
中に入り、肩から天秤棒を下ろした。すぐさま、二つの籠の中身を確かめた。今朝、半助の畑からもぎ取った菜が,びっしょりと水をかぶっている。
新之助は被っていた手ぬぐいを絞って、野菜を拭きはじめた。
有難いことにどれも、すぐにいい色艶を取戻す。
そして新之助は、思い出したように腰を下ろして、今度は自分の濡れた月代を拭った。
雨が上がった。
いつのまにか眠っていたらしい。
辺りは嘘のように光り輝いている。夏の匂いに満ち溢れ、小鳥たちのさえずりが響く。
大きく伸びをしてから天秤棒を担ぎ小屋を出た新之助は、日に輝く田んぼのあぜ道に向かった。泥を蹴りながら進む先は、海辺町にある、煮売酒屋五郎八のところである。
えっさ、ほらさ。
自然と口から掛け声が出た。棒手振りをはじめてから、我知らず口にしている掛け声だ。
田んぼが切れて、鬱蒼とした林になった。
先に小さな寺があるが、そこまでは昼間でも薄暗い人気のない道だ。今は木々の合間から木漏れ日が注いでいる。
林の半ばあたりまですすんだ頃だろうか。
新之助は道の先を狸が通り過ぎたのを、認めた。
だがこの狸、妙な走り方をしていた。体を横に揺らすようにしている。びっこをひいているらしい。
新之助はそのまま足をすすめていった。頭の中は、五郎八のところで売る荷のことでいっぱいである。このところ客が増えた五郎八の店では、新之助の上がりも増えている。
おそらく荷は全部さばけるな。
と、さっきよりも小さな影が、道の先に飛び出してきた。狸の子供だった。人間の気配に驚いてこちらを見た目が、人の赤ん坊と同じようにあどけない。
おそらくはじめに見かけたのが親狸で、それを追って来たのだろう。子狸は瞬間動きを止めたが、すぐに道を渡った。
新之助は笑顔になって、脚捌きを緩めた。
えっさ、ほらさ。
掛け声はそのままだが、あまり急いで通り過ぎると子狸が恐がるかもしれない。
そして狸の親子が消えたあたりを通り過ぎようとしたときだった。新之助は地面に顔を埋めた子狸を認めて、思わず足を止めた。
子狸は、何かを懸命に探すように、うろうろと顔を地面にこすりつけている。いや、そう思ったのは瞬間で、すぐに目の前の水面を覗き込んでいることが知れた。
黒い水面が、子狸の前にべったりと広がっていた。さっきの雨で地面が崩れ、水が溜まったのだろう。いや、水面の広がりはその程度ではなかった。どうやらここには隠れ沼があったのだ。それが半年前の大地震で姿を現したにちがいない。
あの地震では、武家屋敷も町家も、この深川では大層な被害が出た。橋は崩れ、潰れ家も多くあった。大きな地震だった。地震のあとしばらく、江戸の町は死んだ人々を焼く煙の絶えることはなかった。そんな大きな地震だったから、この林に沼が出来上がっても不思議ではない。
新之助は子狸の方へ近づいていった。沼に落ちたら、いくら獣でも這い上がることはできないのではないか。まして子狸だ。
故郷で可愛がっていた甥の
「危ないぞ、あっちへ行きなさい」
声をかけて新之助が近寄ると、子狸は弾かれたように沼から離れ逃げ出したが、そう遠くない松の木のところで立ち止まると、名残惜しそうにこちらを振り返った。
「どうした」
そして沼に近づいた新之助は、合点がいった。沼のちょうど真ん中あたりに、もう一匹狸を見つけたのである。
狸は細い枯れ枝に寄りかかって、今にも溺れそうに喘いでいた。脚をうまく使うことができないせいで、泳ぐことがままならないようだ。
「そうか。お前の親か」
新之助は子狸を振り返って呟くと、天秤棒を肩から下ろした。
そして、新之助は天秤棒から籠を外すと、長い棒の先を沼の中へ入れた。
「ほら、これに捕まれ」
差し出された棒に、はじめ狸は戸惑っていたが、こちらの意図がわかったのかどうなのか、やがてひょいと足を延ばしてきた。
「その調子だ。もう少し」
同じことを何度も繰り返し、ようやくいい具合に狸の前足が棒を掴んだとき、新之助は勢いよく棒を振り上げた。すると狸も棒といっしょに、空に舞い上がった。
ばさりと音がして、狸が土の上に落ちた。びっこのほうの脚をかばうようにして転んだが、すぐさま立ち上がった。
「次からは気をつけろよ」
子狸の方へ走り去る親狸に声をかけると、新之助は天秤棒を籠につなげた。
もうすっかり日が傾いている。
「おやまあ、そんなことがあったんですか」
青菜を切る手を止めて、なかは新之助に丸い目を向けた。
煮売酒屋五郎八の料理場である。店へ来るのが遅くなった理由を亭主の五郎八に明かすと、話好きの女房のなかが声をあげたのだった。
五郎八の店は、深川の海辺町に、古道具屋と飛脚宿にはさまれてひっそりと虎耳草を吊るした小さな煮売酒屋だ。ここも先の地震で跡形もなく潰されたが、五郎八は地震前よりも甲斐甲斐しく働き、あっという間に商売を再開した。
あの恐ろしい夜から半年あまり。草木が伸びるとうに、江戸の町も蘇ってくる。
料理場の土間の薄暗い隅に坐って、新之助は
残っていた茄子を全部買ってくれたあと、帰ろうとした新之助は店の亭主の五郎八に引き止められた。蒟蒻がうまく煮えたから食べていけと言われたのである。つるりと四角い蒟蒻を飲み込んで、新之助は言った。
「びっくりしましたよ。この間の地震で、地形が変わってしまった場所があるとは聞いてましたが、あんなところに沼ができたとは」
八右衛門新田から隣の明地へ向かう途中、沼での出来事を新之助はしゃべっている。
「でも良かったわ。狸の母親が助かったんだもの。その狸、きっと新さんに恩返しをするでしょうね」
「狸の恩返しですか? なんかあんまり期待できそうもないですね」
「あら、そんなことありません」
なかはむきになったように、言った。
「獣たちは人間なんかよりずっと恩を忘れないものだっていいます。犬や猫だって、人に聞いた話なんですけど――」
すると店先に打ち水をするために濡らした手拭いを掴んだ五郎八が、振り向いて声をあげた。
「なか、つまらねえことを言うんじゃないぞ」
顔は笑っていたが、五郎八はそれ以上女房のおしゃべりを続けさせるつもりはないようだった。
なかは口が動くと、手が止まってしまう。そろそろ今日の口開けの客が来はじめる頃だというのに、青菜は半分も切れていなかった。
そのとき、この店の常連客である又蔵が入ってきた。
狸がどうしたって?
又蔵はそう言ってから、犬のように鼻を上に向けて、台所からの臭いを嗅ぐ真似をしてみせた。魚を煮ている臭いが店の中にひろがっている。
又蔵は研師で、この店からはそう遠くない松井町に暮らしている。三十半ばの痩せた無口な男だ。
又蔵が酒を亭主に頼む声のあと、焼き物をのせた皿に値札を立て掛けながらしゃべるなかの声が響いた。なかのおしゃべりは狸の話からすっぽんの話にまでおよんでいる。
又蔵はただ相槌を打って応えていたが、新しく入ってきた別の二、三の客があとを引き取って、大きな笑い声が上がった。
蒟蒻をご馳走になった礼を言って、新之助は立ち上がった。
軽くなった天秤棒を担いで表に出ると、空は夕焼けが消えて蒼くなっていた。そろそろ足元があやしくなっている。
路地を進み、大工町のはずれへ出た。そして小名木川を渡れば、もう家はすぐそこである。
片側に柳の植えられた川沿いの道を急ぎながら、新之助はあたたかくなった懐に、左手をそっと当てた。
今日もまあまあの出来だったと思う。けっして楽な暮らしではないが、季節が明るくなるように、少しづつとはいえ昨日よりは今日、今日よりは明日と希望の持てる毎日が有難い。
新之助は一日、こうして天秤棒を担いで野菜を売る。朝はまだ星の光が瞬くかはたれどきに長屋の木戸を出て、丸一日足が棒になるまで歩き続ける。
松井町から林町へ。徳右衛門町から武家屋敷の並ぶ通りへ。
いくらか得意客もできて、多少不便な場所へも足を延ばすようになった。上がりはいいときで日に八百文。悪くても五百文は手にすることができる。藩からの手当があった二年前に比べれば、生活は格段に厳しいが、男ひとりなんとか食べていけている。
侍が棒手振。
時代は変わりつつあるといっても、むしろ自分には、侍の暮らしよりもこのほうがあっていると思う。まだ日の明けるか明けないかのうちに家を出て、青草の匂いを嗅ぎながら百姓といっしょに畑から菜を摘み取る。そして自分に見合った分だけを担いで、声を上げながら江戸の町を練り歩く。脚には疲れが溜まり、熱さ寒さが体にこたえるが、新之助は嫌ではなかった。
竈に湯気が立ちはじめる朝、新之助の掛け声に集まってくる裏店のおかみたち。忙しく立ち働く母親のまわりで元気よく弾ける子供たちの喚声。
米をとぎ、その水に濡れた手でうるさい子供の背を叩き、そして笑顔に戻って新之助の籠を覗く彼女たちとのやりとりは、武家として体裁を繕い窮窮と暮らしていた頃よりも、生きる喜びに満ちている。
そして何より新之助がこの生業を気に入っている理由は、己の采配ですべてが決まる点だった。
同じ棒手振同士でも、歩く場所も様々なら、上がりも様々である。工夫ひとつでその日の売上が大きく変わってくるのだ。新之助の客はほとんどが裏店のおかみたちだが、なかには独り者の職人や田舎から出てきた武家もいる。彼らのために、新之助は、もぎ取った野菜を客たちがすぐに食べられるよう、きれいに洗って食べ易い大きさに切って売った。
そんな手間が客も増やすことにつながっている。そのうえ新之助は、人と話すことが嫌いではなかった。天秤棒を肩から下ろしながら、ほんの二三事でも世間話をする。そうするうちに、どの家が何人食い扶持を抱えているか、留守の日はいつなのかがわかってくる。
客の顔はもとより、名前も覚えた。そうすれば二度目からは、ただの棒手振と客ではなくなる。
今では、得意先は、裏店の住人たちにとどまらなかった。日よけ地に並ぶ総菜を売る屋台の店や、ちょっとした料理屋にも懇意にしてくれるところがある。
自分なりの工夫と努力を惜しまなければ、僅かではあるが、上がりはのびていく。その感触が楽しかった。決まった仕事を人と同じようにこなすことよりも、どれほどやりがいに満ちていることか。
もちろん暮らしは、きつい。江戸はすべての値段が高いうえに、見知らぬ土地でのこと、助けてくれる縁者もいない。
二年前、藩政に物申したことがきっかけで浪人の身となってから、苦労は覚悟していたつもりだったが、何度故郷へ帰ろうと思ったかしれない。だが、まだ負けてはいないと思う。世の中は変わりはじめている。その熱気が溢れる江戸で、生きていきたいと思う。
顔を上げると、暮らし慣れてきた裏店の木戸が見えてきた。
明日はもっと遠くまで足を延ばしてみよう。
新之助は急ぎ足になって、そう思った。
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