それなら首を長くして

 厚い雲が空を覆う、満月の晩とは思い難い暗澹とした夜半過ぎ、神経が昂って目が冴えてまんじりともせず夜明けを迎えようとしている男が、隙間なく締め切った真暗闇の離れ座敷で過ごしていた。

「おおい、きみ、迎えに来たぞ。入れてくれないか」

 するとどこからか涼やかな青年の声がした。アア、こいつこそが娘の命を蝕んだばかりか拐そうとまでしていた化生の者に違いない。察した男の躰には緊張が、背筋には怖気が走る。

「娘は病で臥せっていて動けない、帰ってくれ」

「なんだと。……ナア君の顔が見たい、心配だ。入れてくれ」

 だんだんとその声の気配は大きくなり、今や屋敷中に纏わりつくような濃い闇となっている。この部屋を満たす暗闇さえもぞわぞわと蠢いているような錯覚を起こし、思わず息を殺した。

 静寂が辺りを包む。衣擦れの音も呼吸の音も聞こえない。ただただ心音だけが騒々しく、まるで耳元で鳴っているかのようにどくどくと拍動しているのが分かる。

 しかしその男の内側から響く鼓動よりも近く、耳元で、むしろそれよりも近く、脳髄に直接吹き込まれたかのようにはっきりと明瞭に聞こえたのは。

「ナア、入れろよ」

 ゾッとするほど冷えた平坦な声だった。

 男は咄嗟に刀に手をかけ勢いで戸を開け放ち座敷を飛び出たが、そこで目にしたのは声の主の姿ではなく、この座敷の主である娘が庭で立ちすくんでいる姿だった。

 まさか。

 思わず叫びそうになったが喉が渇いて引き攣れて、かひゅ、と息だけが漏れる。幾重にも折り重なったような冥い冥い黒の中、血の気の失せた青い顔と、纏った白い単衣がぼんやり光って浮きあがって見える。

 否、そんなはずはない。娘がそこにいるはずがない。

 頭を振るって睨み据えると、娘の亡霊はすらりとした青年の姿に形を変えた。


 俺の娘。亡き妻の面影がある、ここ半月の間に急激に体調を崩してしまった、哀れなひ弱の、聡明で清らかで気品のある、年頃になり艶やかな色香を纏うようになった、時折吐く苦しげな息がなまめかしく、悲しげに伏せた目と震える睫毛が誘うような、しっとりとした青白い肌に蠱惑的な赤い唇、濡羽色の黒髪は乱してやりたくなるほどつややかな、誰の目にも触れぬよう誰にも触れられぬよう離れ座敷に閉じ込めた、俺の、俺だけの……。


 男は突如として刀を引き抜いて、猛然と青年に斬りかかった。青年は松の木の影を背にして、庭の、石の前に立って逃げず動かずこちらを見ている。躊躇などない。刀を振るう。暗くあつい飛沫。そしてあっけなく、その首を落とすことに成功した。したと思った。

「ハハハハハ、仇を取ったぞ、畜生め」

 しかし男の手が掴んでいたのは――愛しい娘の生首であった。

 ――ひいっ。

 思わず手を離すと、どちゃりと重たく湿った音がしたが、闇に呑まれて見えなくなった。

 アア、違う、こいつが。

「こいつがお前を誑かしたせいだ。お前を弄ぶ、化生の者にお前を渡すわけにはいかなかったのだ! だから」

 お前を守るためだった。

 違う。

 お前が奪われるくらいなら。

 違う。

 お前を俺のものにしたかった。

 違う。

 お前が俺のものにならないから。

 だから、近づく俺から離れるお前をとうとう床に組み敷き、暴れるお前を押さえつけ、それでもどこにそんな力があったのか俺を蹴飛ばし庭に逃げたお前の腕を掴み、俺を拒む細首をその石の前で。

 なぜ俺を裏切り言いつけを破ったのだ。俺はお前を大切にしていたのに。

 なぜあの化生の者には自らそのたおやかな指で触れたのだ。俺が触れるのは指一本ですら許さなかった癖に。

 男の目は血走り、黒目は不安定に揺れ、呼吸は浅く、だらしなく開いた口からは涎が垂れ落ちていた。しかしただジッと、瞬きもせず、下を、足元を、何かを見ている。

 そして。

 俺を惑わす芳醇な血で赤く濡れた、その石の下に、埋めたのだ。


 男の顔からは一切の表情が抜け落ちていた。腕はだらりと弛緩して、いつのまにか刀も取り落とし、糸が切れたかのようである。男の澱み濁った眼はもはや何も映さなかったが、そのまま切れたはずの糸に操られるかのように闇の先へとゆらゆら歩きだした。


 いつの間にか闇は薄くなり、おどろおどろと生ぬるい風が腥い匂いを躍らせていた。

 なにか重いものがぎし……ぎし……と揺れる音がしている。

 不意に厚い雲が切れ、その隙間から東雲の光が差し込んだ。

 そこには、血に濡れた石に腰かけ、娘の首を愛おしそうに持つ青年の姿があった。凄惨な、惨憺たる光景には異質な、優しげに目尻を下げた表情でそれを見つめている。しかし瞳だけは爛々と獣のように光を放っていた。娘の頬に飛んだ赤い血を青年が着物の袖で拭えば色を失った肌を頬紅のように彩り、まるで血色がよくなったかのようで、今にも睫毛を震わせぱちりと瞬いて射干玉の瞳に青年を映し、その形の良い唇を開くのではないかと思わせるほどだった。

 しかしぴくりとも動かない冷たい娘に向けて青年は。

 「なんだ、君。迎えを待つよりも俺を迎えに来るほうがいか」

 と言って、愉快そうに声をあげて笑った。

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夜明けの晩を待っていた 蔦田 @2ta_da

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