夜明けの晩

 あの石のことですか。勿論存じておりますよ。そこの立札にある由来の通りつる石と呼ばれ、この辺りでは知らぬ者はおりませんでしょう。……しかしね、お嬢さん、あまり大きな声では言いづらいのですが、触れたら気が狂う、なんてまことしやかな噂もあったのですよ。誰が言ったか、昔、この石に触れた男が自分の子供を殺して気が狂って死んだとか、石を動かそうとした者がその日のうちに首を吊ったとか、なんとか。なんとも物騒な噂です。あの石の上部についていた模様、灰赤色や赤銅色というのですかね、深く渋い落ち着いた赤色です、それが、雨に濡れるとそれは鮮やかな赤になるものですから、まるで血液が溢れ出たようだ、なんて馬鹿なことを言う者もおりました。いやはや妄想も過ぎれば自分の首を絞めるものです。ああいや、こんな話、お嬢さんにお聞かせするものではありませんでしたね。……え? いえ、特に珍しい石というわけではないと思いますがね。川に行けば似たような石がごろごろと転がっておりますから、ハハハ。いやしかし、昔からここにあるだけの、四、五十センチほどの高さの石とはいえ、注連縄が巻かれているとやはり何やら畏れ多いような気分になります。噂を信じるわけではないですが、やはり、見えぬ世界はあるでしょう。マア今やこの四つ辻の角の駐車場と民家に挟まれておりましたし、わざわざ近づいて触れることもあるまいと遠巻きにされながらも、ただそこにあったのです。

 ところで私はこの石に奇妙な思い出があるのですがね。あれはもう四十年以上前になるでしょうか、私がまだ酒の限度も分からぬころ、スーツに着られた若造が、ついつい吞みすぎて独り酩酊した千鳥足の帰り道、ホォーホォーと梟の鳴き声が山の中から聞こえてくる、煌々とした満月の晩でした。私の家はこの四つ辻を左に曲がって坂を下ったところにあるのですが、夜にこの辺りを通る人なぞまずおりません。今は街灯や民家の明かりで闇のほうが隅に追いやられているくらいですが、あの頃はたったひとつぽつんとあった街灯もジイーという音を鳴らしながら頼りなく明滅しており、ほとんど月明かりだけが頼りでしたし、まだ駐車場なぞ無く、石は今よりも近くあったものですから、ふらふらと近づいて足がもつれでもして不意に触れてしまったら、なんて思っていたのです。幸い月が明るかったので進む道に惑うことはありませんでしたが、それでもなにやら背筋が震えるような気がして、なんとなく下を向きながら足早に歩を進めていると、ちょうど石の真ん前――つまり今立っているここですがね、声をかけられたのですよ。



「君、鶴の夫婦は互いの骨まで愛すると知っているか?」

「いやなにこの石、いつのころからかつる石なんて呼ばれだしたが、なるほど下は白くて頭が赤い、まるで鶴のようだ。俺が待つ場所としてはぴったりの名前じゃあないか、そうだろう、ハハハハハ」

 声も出ぬほど驚きました。人の気配などなかったというのに突如として声が聞こえたのですから。それどころか、どうやら私に向かって話しかけているらしいのです。

 ぎょっとしながらそちらを向くと、突然話しかけてきたのはそのころには珍しく着流しを纏った若い男で、畏れ多くも、その石に腰かけていたのです。

 私は噂が頭をよぎって、男に今すぐその石から降りたほうが良いとそれとなく伝えましたが、男は面白がってなぜだどうしてだと理由を聞いてきたのです。あまりにしつこく鬱陶しいので、もしやこの男も酔いどれか、声をかけるんじゃなかったと自分の善意を少々悔いましたが後の祭り、私は渋々――迷信を信じていると馬鹿にされるのが嫌だったので――教えてやりました。

「これに触れると狂う? ホオ、そりゃあ面白いな。どうだい、君には俺の気が触れているように見えるか?」と聞いてきたものですから、私は大きく頷いてやろうかとも思いましたが、また絡まれても面倒だとうんともすんとも動かずにおりました。

「そうさな、この石に触れると狂うのか、狂ったやつがこの石に触れたのか、そのどちらでもあってどちらでもないのだろうよ。……なあ君、話し相手になってくれたから、お礼にいいことを教えてやろう」

 この石の下にはな、それはそれは美しいひとが眠っているんだ。……秘密だぜ。

 男は腰かけたままの石を壊れ物のようにすうっと親指の腹で柔らかく撫で上げました。どこか優艶にも感じられたそれになんというか、言葉にしがたい胸騒ぎを覚えつつ、訝しげに見ていたのですが、男は構わずこう続けます。この世のものとは思えぬほどの美しいひとだ、内面の美しさが表れていたと言ってもいいだろう、涼やかな目元、聡明な光を帯びる射干玉の瞳、柔肌は白魚のようで、紅唇は果実のように瑞々しく、緑の黒髪は夜よりも深くつややかなのさ。男が切なげに掠れた声と、憂いを帯びた眼差しで思い出すようにそう語るのを見て、私は俄かに好奇心が疼くのを感じました。それに目ざとく気づいたのでしょう。

「君、俺の話を聞いてくれないか。興味あるだろう」

 君の目にきらりと星が入ったのを見逃さなかったぞ。と言って、男はからりと笑いました。


「あれはどれほど前になるだろうか。もう夜を数えることをやめてからずいぶん経つ。彼女はとある屋敷に住んでいてな、足を怪我していた俺を手当てしてくれたのだが、その優しさとどこか寂しげな目に俺は惚れ込んでしまった。それから俺は夜な夜な屋敷に忍び込んでは庭に降り立ち、彼女の話し相手となったのだ。

 おおい、と一声鳴けば、はいはい、と言って彼女が顔を出す。今宵も来てくれたのね、とその緑の黒髪を揺らし、ちょうど先程の君のように目にきらきらと星を輝かせては俺とたわいもない戯れをしたのさ。彼女は籠の鳥だった。病弱な彼女を酷く心配した父親から、決して外に出るなと、それどころか父親以外の人間とは、誰とも口をきくなとまで言いつけられていたのだ。愛情も一線を越え、我欲に囚われ蛇のように絡みつく執着となっては醜いものさ。琵琶を鳴らすか簾越しに外を見るか、そんなことばかりでは余計に気も滅入るだろうに。自由の身の俺を羨むような顔をすることがあって、気を揉んだよ。どうにかして彼女をここから連れ出すことはできないものか、とな。だが彼女と俺では生きる世界が違うから、口に出すのは憚られたのだ。

 しかしな、そんなことを思いながらも俺が通う間、新月が膨らんでいくのとは裏腹に、彼女の肌は日を重ねるごとに青白く窶れていった。しかし彼女の美貌は損なわれるどころかむしろ研ぎ澄まされていくようだった。

 ある夜、俺が通い始めてから半月ほど経ったころだ。彼女は横たわったまま「お前、長寿なんでしょう。私が死んだら墓のそばで待っていて頂戴。そうしたらきっと逢いに来るわ」と青白い顔で静かに言った。声も気配も闇に溶けて消えてしまいそうで、もはやその命は風前の灯であったから俺は彼女を哀れに思った。しかし同時に、胸が高鳴り血が沸き立ったのを今でもはっきり覚えている。今にも止まりそうな小さな鼓動を嘲笑うかのように喧しく騒ぎ立てるなんて、なんて非道いやつなのだろうな。

 いつまでも待つさ、君が迎えに来てくれるまで、と俺は答えた。「ほんとうかしら。例えば百年、お前、待てますか」とくすくす喉を震わせながら彼女が問うので、俺は「百年なんて朝飯前さ、君と再びまみえたのちに、共に夕餉が楽しめる」と笑って、物憂げな目をした彼女の頬を安心させるように撫でてやった。すると彼女がそろりと腕を伸ばし、同じように俺の頬を撫ぜるものだから、俺は、アア、俺は! 俺は愛しいひとを待つために、このか弱い手の柔らかさと、少しひやりとした温度さえ覚えていられればそれで充分だと思ったのだ。

 ……マアしかし亀の年を鶴が羨むとはいうもので、俺の欲が顔を出した。もっともっとと烏滸がましくも欲しがった。どうせ俺と共にあるのなら、なにも墓に入ってからでなくとも、今すぐ拐かしてしまえばいいじゃあないか、とな。籠の鳥で終わるのはつまらんだろう。しかしもはや一刻の猶予もないと彼女も俺も分かっていた。だから俺は彼女に向けて、「なあ君、家も親も土地も過去も一切合切何もかも捨て去って、俺と共にここを出ないか? 俺が君の墓標だ、いつまでだって君との再びの逢瀬を待ち続けるが、景色を選んだって罰は当たるまいよ」と彼女の手を握って問うた。あまりに細く、少しでも力を込めたら折れてしまいそうで肝を冷やしたよ。しかしそこで突然、彼女の父親が近づいてくる気配がしてな、やむなく俺は屋敷から去ったのさ。明晩迎えに来よう、と言い残して。

 さて翌晩、あれは厚い雲に覆われた満月の、光が届かぬ暗澹たる闇夜であったか。俺は柄にもなくほんのわずか緊張しつつ、いつものように彼女に声をかけるが、待てど暮らせど返事がない。「おおい、君、迎えに来たぞ、俺だ。入れてくれないか」と声を張るが、返ってきたのは彼女の父親の、今夜は帰れという震えた声だった。なにごとかあったのかと驚いたが、しかし俺はそのときフと気がついたのさ。彼女は一夜ですでにこの、石の下に眠っていると」


 ぽかんと口を半分開けて聞いていた私を見て、男はからかうように目を細めました。

「だから俺はそれから、彼女が迎えに来てくれるのをここで鶴首して待ちわびているのさ」

 まさか、とは思いましたが、私は「そんなことがほんとうにあったのですか?」と聞きました。つまり、この男は、もはや石しかないこの地に屋敷があったころからここで待ち続けていると、そう言うのですから。作り話だろうと笑い飛ばせばよかったのでしょうが、私にはなぜかそれができませんでした。思えばこの男の話術に呑まれていたのでしょうね。そんな純朴な私に、しかし男は「あったとか、なかったとか」とはぐらかすものですから、ついつい半目でじとりとした視線を送ってしまいます。

 ところがそんな私をにやにやと見ていた男が、急に真面目な顔をしたのです。

「……なあ君、もしかして君があの子なのか? かなり変わっていて、俺としたことが気づかなかった……。ナア、ようやく、ようやく迎えに来てくれたんだな」

 男はぬらりと光る眼に私を映しました。とはいえ私にはまるで身に覚えがありません。またこれも与太話の続きの戯れなのだろうと頭では理解しているのですが、その眼の奥で燃える、情念というやつなんでしょうか――生憎私には今でも分かりかねますが――それに無意識に後退りしながらもどうにか、人違いです……と答えましたところ、男は下を向き、ジッと黙ったかと思うと、こらえきれず肩をふるふると震わせました。

「ハハハハハ、冗談だよ」

「どこからどこまでがです」

「どこからどこまでがだろうなあ」

 揶揄われるばかりでなんだか体から力が抜けるような思いでしたが、ここまできたらと思い、私は聞いてやったのです。

「いつまで待つおつもりなんです」

 すると男は、そうさなあ、と月を見上げて目を細めました。

「百年なんて朝飯前だと思ったが、待つとなると酷く淋しいものだった。夜がこんなに暗いものだとは知らなかったよ。しかしな、それでも、千年でも万年でも、たとえ俺が朽ち果て骨になったとしても」

 彼女が来てくれるまで、俺はここで待つと決めているのさ。



 ところで今朝、なにやら日の出と同時にふっと目が覚めたかと思いますと、小さな揺れを感じましてね。おや、お嬢さんもですか。いえね、家内や知人に聞いても気づかなかったというものですから、何やら不可思議なこともあると思っていたのですよ。ああ、それで、後からこの石が割れたと知りまして、先程ここに見に来てみたというわけです。私はこれを見てね、彼がいったい何年待ったのか知りませんが――ようやく待ち人が来たのだろうなと思ったのです。ハハハ、どうぞお笑いになってください。酔っぱらいの見た幻か、あの男の与太話に踊らされているだけか、はたまた実は私の気が触れているだけなのか、なんて私も思うのです。

 あの夜そんな出来事が、あったとか、なかったとか。

 ……おや、夕方の鐘が鳴りましたね。昔語りを長々とお聞かせして申し訳ありません。向こうからこちらを見ている青年は、お連れの方ですか? 彼のこともお待たせしてしまいましたね。


「かわいらしい男でございましょう。待つのが上手なの」

 透き通るような白い肌に緑の黒髪が艶やかな、目の覚めるような美貌の女は、それはそれは美しく微笑んだ。

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