眼鏡が結ぶ本音の像

一式鍵

眼鏡とは仮面の如きものなり

 マスクを着けることが習慣化してきている人も少なからずいる現在。勿論、病気の予防のためにつけているという人は少なくはないだろう。だが、確実に、マスク人口の何割かは「だから」という理由で着用している――僕はそう考えている。


 特に僕のようなコミュ障マンにとって、マスクはいまや必需品だった。そもそも僕は、不特定多数の他人に顔を見られることがまず耐えられなかったのだ。そして限られた友人や同僚にでさえ、僕は素顔を見られたくないと思っていた。


 僕にとって素顔を見られるというのは、世間一般の皆様が自分の裸を見られるのと同じくらい恥ずかしい――そう思っていただいて差し支えないのだ。


 だがしかし。


 そこに来てマスク着用の波がきた。


 その背景は笑って済まされるようなものではないのだけど、こと僕のエゴに限った話をするなら、願ったり叶ったりといえるものだった。だって合法的にマスクで顔を隠せるのだから。


 そしてそんな僕は実は眼鏡めがねをかけている。社会人でもある手前、前髪はそこまで長くできないが、とにかく今はマスクがあった。マスクと眼鏡が合わさり最強だ。ぶっちゃけしか世間に見せなくてよいのだ。


 そのおでこも前髪で隠してしまえば鉄壁の防御の出来上がり。眼鏡で視線はごまかせるし、喋る時にボソボソっとなってしまっても「マスクだから」で万事オーケーだ。マスクは実に素晴らしい。


 というようなことを熱弁しながら、僕は向かいの席に座ってサラダを取り分けている同僚の女性社員、川端カワバタさんを(眼鏡でカムフラージュしながら)見ていた。


 川端さんは僕と同い年、つまり二十四歳だ。僕と同じソフトウェア研究開発部に所属している。まだまだ女性の少ない部署だが、彼女は天性のプログラマだった。というより、プライベートの趣味がシステム構築なのだから、もはや誰もかなわない。趣味より強いものはない。小学生の頃からそうだったというのだから、そんじょそこらの中堅社員でも太刀打ちできない。


 そんな彼女と僕は、入社以来、常に比較されてきた。同期は五人いたが、二年少々の間に三人辞めた。つまり僕と彼女しか残っていない。辞めた動機? そりゃ労働時間の問題ですよ。


 ちなみに今日は貴重な休日だ。土曜日である。時間は午後六時を少し過ぎたくらいだ。休日といえば、僕はもう何年も自宅でダラダラゲームをしたり漫画を読んだりして過ごしてきた。僕は天性の引きこもりであるから致し方ない。


 昨日の昼頃だ。僕はたまたま会社近くのコンビニに行った。いつもは朝のうちに昼ご飯を仕入れていくんだけど、昨日は時間の関係でそんなことになった。そこに川端さんがいたのだ。並んで会社に帰る途上で、川端さんは突然「明日ご飯食べに行かない?」と誘ってきたのである。


 なぜ「今日」ではないのかと思った諸君は、きっとホワイト企業に勤めているのだろう。なぜ「明日」なのか。それは「今日は終わらない」からだよ。だから確実に時間を確保できるであろう「明日」になったわけだ。


 これが同僚の男社員だったら僕はあっさり断っていただろう。だが、川端さんは……正直可愛かった。唯一生き残った同僚ということもあって、仲間意識もあった。そんな彼女に誘われて嬉しくない人間なんてそうはいない――たとえ僕のようなコミュ障引きこもりであったとしても。


 困ったのは服装だ。あれだ、「服を買いに行こうにも、しま●らに着ていく服がない」状態だったのだ。結果、僕は会社に着ていくのと同じオフィスカジュアルな服装をチョイスした。ちなみにこのチョイスも、服屋さんのおすすめをそのまま買ってそのまま着ているだけだ。服屋さんの店員に声を掛けたのは、後にも先にもその一度きりだ。


「もっと砕けた格好でもよかったのに」

「いや、その」

「居酒屋じゃもったいなかったかな」


 く言う川端さんも服装はかなり気合を入れているように見えた。仕事着とはぜんぜん違う……くらいは僕にだってわかる。


 僕らは実はふたりともマスクと眼鏡という完全武装の出で立ちだった。勿論、居酒屋だから食事のときはマスクを外すことになるのだけど。


 ……。


 そういえば、川端さんってどんな顔だったっけ。


 マスクを外している川端さんの記憶がない。川端さんも同様だろう。僕は会社では意固地にマスクを着け続けていたからだ。食事のときもこっそりだ。


 サラダを取り分けた川端さんはおもむろにマスクを外す。僕はその素顔を見ることができなかった。自分が見られるのもアレなら、他人のを見ることにも罪悪感が生まれるというものだ。


 代わりに僕もマスクを外した。


「わぁ、栗林くんってそんな顔だったんだね」

「あ、え、えっと」


 安定のコミュ力である。


 そして勇気を出して顔を上げ、僕は真正面に座る川端さんの顔を見た。赤茶のハーフリムタイプの眼鏡がまず僕の目を引いた。いや、いつも見ている眼鏡だけど、マスクと組み合わされていないのは、恐らく初見と言っていい。それだけで斬新だった。


 そして小さめの鼻と、口紅の引かれた形の良い唇。肌の色は健康的……とは言い難いくらい白かった。日焼けとは無縁、という感じは僕と同じでなんだか親近感が湧いた。


「今日はおつきあいありがとう」

「い、い、いえ、そんな」


 安定のコミュ力を遺憾なく発揮する僕。


「で、でも、どうして?」

「栗林くんとはだし、たまにはこういう機会もいいなって」


 その言葉に僕はちょっとだけがっかりした。訂正、かなりがっかりした。


「私も休日にメイクして外に出るなんてないんだけど、今日はちょっと頑張っちゃった」

「う、うん、マスクしてたらわからなかった」

「でしょ。でも会社ではちゃんとしてるんだよ。休日は一日ノーメイクでジャージだったりするけど」

「そうなんだ。僕も休日は何もしない」

「ゲームとかは?」

「そういうのはするけど、ダラダラしてる」

「おなじ!」


 川端さんはそう言ってから、不意に両手を合わせて「いただきます」と言った。僕もつられて同じようにする。川端さんはにっこりと微笑んだ。


「栗林くんは空気読むよね」

「え、そんなことないよ。空気を読んでるというより、空気になりたいとは思ってるけど」

「面白いこと言うね~。私も空気になりたい」

「それは無理だよ。川端さんは優秀だし、どうやったって目立つでしょ」

「趣味の延長だからなぁ。優秀って言われてもピンと来ないけど」


 川端さんはサラダを一口食べた。


 そうしているうちに注文していた焼き鳥串の盛り合わせが届く。デートとしては最悪の部類のチョイスだが、これはデートではないから多分セーフだ。


「川端さんは家でどんなシステム作ってるの?」

「一番元気に動いているのは為替取引用アプリケーションかなぁ」

「か、為替!? FXとかいうやつ?」

「そうそう」


 川端さんは「よく知ってるね」と頷いた。


「為替相場の変動データは勿論、リアルタイムのニュースをスクレイピングして解析させて予測させて、それで自動で売買するの」

「へ、へぇ。すごいね。言語は何使っているの? C#?」

「ううん、手軽にいじくりたいっていう理由でPythonパイソン。フレームワークはFastAPI」

「ドキュメントも作れるやつだ」

「そうそう。簡単簡単」

「すごいな」


 技術の話になると、僕のコミュ障は少し解消される。ゲームの話になると更に饒舌に――いわばオタクのかがみのごとし人材、それが僕。


「成果は結構でてるの?」

「AIがへっぽこだった時期はあんまりだったけど、最近だと結構いい感じに刺してくれる」

「すごい。ニュースを収集して判断するとか、ハードウェアも相当なんじゃないの?」

「ううん、ハードはうちにはほとんどないよ。AWSアマゾン・ウェブ・サービスを使ってるから、スケーラビリティも事実上無限だしね」

「すごいお金かかってそう」

「為替で取り返してるから問題ないよ。純利益は微妙だけど、給料以上には出てるかな」

「へええええ……」


 僕は金額云々というよりは、川端さんのその技術への飽くなき探究心に強くかれた。


「もともとお金儲けが目的で技術の勉強始めたんだ、私」

「小学校の頃からって噂を聞いたけど」

「そそそ。うちさ、母子家庭なんだよ。私が小学校上る前にお父さん死んじゃって。保険金も大したことなかったって最近聞いたんだけど、とにかくお金が無くて困ってた。だから私、小学校の頃からそういうお金に目がなかった。ないなら作ればいいじゃない、的な? それでAIとかも勉強したんだ」

「すご」


 小学生でプログラムや機械学習の技術書を読んだっていうのか。


「なんとか自分専用のPCを手に入れてからは早かったんだ。あとはまぁ、色々試行錯誤して今に至るって感じ。お金も十分稼げてるし、このまま安定してくれたらいいなーって感じ」

「でも為替だよ? 怖くはないの?」

「今の分が全部消え去ってもプラス分は確保してるから問題ないよ。ちょっと惜しいとは思うけど」

「リスク管理はできているんだね。さすがだ」


 年齢を考えるに十年くらいはキャリアがあるのだ。逆に言えば、十年間、FXの世界で生き延びてきたということでもある。ちなみに僕はこれに手を出す勇気はない。というより、十分な原資がない――ゲームに課金とか、高いPC購入とかしているからなんだけど。あと将来のための貯金に手をつける勇気も気概もない。


「ところで川端さん。それだけ稼げているなら、うちみたいなの会社にいなくてもいいんじゃ?」

「社会との繋がり。生の実感。……というのもあるけど、FXってね、画面に貼り付いていても楽しいことなんてないし、そもそも人間は判断を間違えるんだ」

「でも見てないと安心できないんじゃ」

「見てたってハラハラしたりヤキモキしたりするだけだから良いことなんてないよ」


 そ、そうなのか。


「だったら会社みたいなところで強制的にFXから隔離されてた方がまだいいし。その点、長時間拘束されるうちみたいなところは条件がいいんだ」

「そういう考え方もあるのか」


 目からウロコである。僕は興味を引かれて確認する。


「土日はお休みなんだよね、為替って」

「うん。だから普段は土日にシステムのメンテナンスをしてる。けど、今日は特にすることもなくて」

「なるほど」


 頷く僕の前で、川端さんは眼鏡を外した。運ばれてきた熱いお茶で眼鏡のレンズが曇ってしまったからだ。


 眼鏡を外すと突然の美少女が! という展開は漫画とかアニメではよく見る。だけど僕は強く主張したい。美人は眼鏡をかけていても美人だと。だが、しかし、といっても色々ある。眼鏡はいわば「味変あじへん」のための調味料なのだ。つまり、元が美味でなければ意味をさない。美人にとっての眼鏡とは、僕のそれのようなカムフラージュのための装備ではない。


 くして川端さんは、やっぱり美人だった。眼鏡もマスクも、彼女の魅力を隠すことはできなかったということか。才媛にして美人、その上コミュ力も高いし財力まで兼ね備えているとか、チートじゃね? と、僕はほのかなジェラシーすら覚える。


「でもねぇ、栗林くん」

「う、うん?」


 息を吐いた途端、僕の眼鏡も曇った。僕も熱いお茶を頼んでいたのだ。


「私が会社に居続ける理由はそれだけじゃないんだ」

「……ん?」


 ハテナを飛ばす僕の前で、川端さんは運ばれてきたばかりのつくねを頬張った。


「ここのつくねは本当に美味しいね」

「ボリュームがすごいね」

「うん」


 川端さんはまたお茶を飲む。眼鏡もマスクも外した彼女の顔がほのかに湯気で揺れる。僕はく。


「で、この会社に居続けるメリットって何?」

「meritじゃない、reasonよ。そしてそのreasonは、栗林くん」

「う、うん?」


 僕の理解が追いつかない。


「栗林くんがいるから、私は楽しく会社に行けてる」

「ぼ、僕!?」

「そんなに驚くことないじゃん」


 川端さんは笑ってから、運ばれてきたカシスオレンジを飲んだ。僕はお酒に強くないので、居酒屋特有の気の抜けたコーラだ。


「栗林くんって、地味に人気あるんだよ」

「そんなバカな」

「誰も素顔を知らないのに」


 川端さんは腰を浮かせて僕の額あたりを指鉄砲で撃つような真似をした。


「見せて」

「……ん?」

「目」

「私も見せたから」


 眼鏡を外せと言われているのだと、僕はようやく気が付いた。外さなくてもこれが僕の素顔のようなものなのに。


 でも、川端さんの眼鏡も外されている。


 烏帽子えぼしを脱がされる平安貴族の気分になりつつ、僕は渋々眼鏡を外した。


「眼鏡を外したらイケてる男子が! とはならないよね」


 川端さんはそう言って笑った。僕は自分をイケてるなんて思ったことはなかったけれど、それでも少し傷ついた。


「でも想像通り! 視線は鋭いだろうなって思ってたんだよね」

「僕、乱視だからどうしてもこうなるんだよ、眼鏡外すと」


 これはちょっとしたコンプレックスだ。


 しかし――。


「いい、実にいい」


 川端さんはカシスオレンジのグラスを持ち上げると空中で乾杯の動作をした。


「栗林くんは私のことを優良物件だと思う?」

「うん」


 なんか即答してしまった。でも。


「でも、僕には釣り合わないかな」

「私が及ばない所ってどこ?」

「そうじゃない」

 

 僕は慌てて首を振る。


「僕には高嶺の花みたいな」


 あれ、僕、コレコーラで酔ってるのかな。


 川端さんは笑う。


「私なんて大したものじゃないって。路傍そこらのタンポポみたいなものだよ、私」

「しっかり根を張ってるってことか」

「あはは! 栗林くん、頭の回転早い。知ってたけど」


 僕たちは眼鏡もマスクもなく、向かい合っている。


「そんなこと言ってないで、私とお付き合いしてみない?」

「でも」

「僕なんかよりいい人はいっぱいいる?」


 川端さんは目を細めた。


「かもしれないけど、出会いは一期一会。お互い駄目ならやめたらいいじゃない」


 グイグイ来るなぁ。と、僕はどこか他人事ひとごとのように思った。


「私さ、割と信じてるんだよね、出会いの力っていうか。運命っていうか。とは言っても、誰かとお付き合いなんて考えたことも無かったんだけどね、この会社に入るまでは。勉強と研究こそ全てだと思っていたし」

「この黒い会社で僕に出会ったことが運命だって思うの?」

「そうよ」


 川端さんは力強く肯定した。僕はまだ困惑から抜けきっていない。


「で、でも」

「私と付き合うのが面倒くさい?」

「僕、根が引きこもりだから、その、なんていうか」

「楽しいデートは約束できない」

「そ、そういうこと」


 僕が意を決して肯定すると、川端さんはまた笑った。


「私だってそんな感じ。栗林くんは彼女いたことあるの?」

「ないない。あるように見える?」

「じゃあお互い手探りでやっていく感じでちょうどいいじゃない」

「う、うん」

「お付き合いしてもらえる?」

「いい、けど」


 僕は頷く。


「でも」

「心配しないで」


 川端さんは胸を張る。


「私、損切りは得意なの」


 損切り――。


「だから遠慮しないでいいよ。栗林くんも遠慮なく損切りしていいから」


 そんなことは、僕にはできそうにない。


「ところで川端さん」


 僕は川端さんの裸眼を見る。店内の照明をよく反射する綺麗な黒褐色の瞳だ。


「川端さんのこの眼鏡、伊達ダテだよね」

「あ、わかる?」

「うん」


 ガチの眼鏡愛用者である僕にとっては、伊達眼鏡を見抜くのなんて造作もない。


「やっぱりファッション?」

「違うよ」


 川端さんは首を振る。そして目を細める。


を見抜かれないようにするためのクッションみたいなもの」

「なるほど」


 その意味は僕にもわかる。


「だから、素顔を見せたのは、私が栗林くんと本気で話をしているっていう証拠」

「じゃ、じゃぁさ」


 僕はお茶を飲み干した。


「いきなり恋人というよりは、様子見のお付き合いなんてどうかな」

「なるほど」


 川端さんは顎に手をって天井を見上げた。


 そして満面の笑みで僕を見る。


「リスクマネジメント的には妥当な提案ね」

「でしょ」

「でもさ、私そんなに魅力ないのかな」

「そんなことないっていうか、むしろ逆」


 僕は肩をすくめた。


 川端さんは腰を浮かせると、僕に右手を伸ばしてきた。


 僕もその意図を悟って、腰を浮かせて手を伸ばす。


 女性と握手――ことここに至って気付いたが、これは初めての経験だった。否応なしに心拍数が上がる。


「それじゃ、よろしくね、栗林くん……ちがった、悠人ユウトくん」

「あ、うん。川端さん……って下の名前は?」

憐歌リンカ

「よろしく、り、憐歌さん」


 僕はそこで慌てて眼鏡を着けた。そして川端さんの顔を凝視する。僕は乱視が酷いから、眼鏡なしだとその顔をハッキリ認識できないのだ。


 川端さん、もとい、憐歌さんは微笑んでいた。


 これがかぁ。


 僕はその表情を心に刻み込むことにした。


 ――眼鏡のない本音の顔を見るために、僕は眼鏡を必要とする。

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