黒眼鏡幻視譚~Shady spectacles~

元とろろ

黒眼鏡幻視譚~Shady spectacles~

 世界の形状を決定するのは観測だ。

 世界の意味を規定するのは認識だ。


 かつて神と呼ばれた太陽と月と星々は高次レンズ工学の発展によりただの天体であることが証明された。


 レンズ越しの世界では全てが明瞭だ。

 世界を照らす光とはもはや太陽の輝きではなく、人類の英知が影と謎と神秘の全てを暴くと思われた。


 しかし、今はまだ。

 白い光が黒い影を駆逐するまで暫しの時が必要だ。


 見よ。

 霧立ち込める彼の都市を。

 人間を食らう怪奇都市を。


 英知が指し示す理想世界は未だ来たらず。


 世界の色は未だ灰色。



 灰色の都なのだと誰かが言っていた。

 実際にここまで辿り着いて自分の目で見てみれば、煤けた建物が目について黒の印象がよほど強い。

 高さのある建築物が入り組んで暗がりに沈む小路が多いようにも思う。

 目的地の住所を調べて街路図も手に入れたけれど、どうにも迷いそうだった。


「よう、そこの兄ちゃん。何を探してるんだい?」


 不意に声をかけられた。路地裏から聞こえたその声は、掠れて濁っているけれど不思議と子供らしくも聞こえた。

 影に目を凝らせば、背の低い人影が一つ。服も顔も煤だらけだが本当に子供だ。

 喉を傷めているのかもしれない。


「私のことかな」

「ああ、兄ちゃん……姉ちゃんか? どっちでもいいけどな。あんた余所者だろ。行きたいところがあるなら1ペニーで案内してやるよ」

「ふむ」


 少し考える。この子はストリート・チルドレンというやつだろう。

 案内は助かるが信用できるのかわからない。

 しかし疑ってかかるのならば、ここで私が彼の提案を呑もうが断ろうが、荷物をひったくられたり財布をすられてそのまま路地裏に消えてしまうということも考えられる。

 そうなったら土地勘のない私では手に負えない。

 少なくとも背中を見せない方がましだろうか。


「それじゃあ1ペニー」

「へへっ毎度あり!」


 偉大な女王の刻印がされた銅貨を差し出す。

 受け取った子供の笑顔は屈託のないように思えた。

 警戒しすぎだったのかもしれない。


「それじゃあどこに行きたいんだい?」


 路地裏から出たその子は私の前に立ってそう尋ねる。


「ここなんだけれど……」


 と、地図上の目的地を指し示してみれば。


「ああ! 旦那の客だったのか! それならすぐ近くだぜ」


 と、すぐ隣の建物を指差して見せた。

 よくよく見れば煤で染まった看板には確かに探していた探偵社の名前が彫られているようだった。

 とても分かりづらい。


「こんなに近くだったの……うん、ありがとう」

「どういたしまして。案内があって良かっただろ?」

「うん、一人じゃ気づかなかった」


 改めてお辞儀をすると子供はかえって戸惑った様子だった。


「あんた、なんつーか……悪い奴に騙されないようにな」


 心外な。


「でも残念だったな。旦那は今ロンドンにいないんだよ」

「え、留守なの?」


 念のため、ドアノッカーを鳴らしてみる。反応はない。


「な?」


 ほら見ろ、と子供は肩をすくめる。

 不在は考えていなかった。

 どうしたものか。

 宿を取って帰ってくるのを待つにしても、それまでにできる限りのことはしておきたい。

 とはいえ当てもほとんどない。


「なあ、旦那に何の用だったんだ? この街での探し物だったら俺達でも結構できるんだぜ?」

「ふむ」


 この際、頼って悪いこともないか。

 懐から一枚の写真を取り出す。


「探し物って、人探しでもいいの?」

「1日10ペンス払えるならな!」



 油断していたのかもしれない。

 この国に来てから一週間、なんとかこの地に慣れ始めていた。

 空気と水の汚さには辟易するけれど、宿の女将さんや路地裏の子供達とは上手くやっていけている。

 手がかりの掴めない探し人のことは気にかかるものの、何もかもが物珍しいここでの日々を楽しいと感じていた。


 今はちょっと、そういう余裕もないけれど。


 息が切れるほど走る。淀んだ空気を吸いこんで泣きそうになる。

 この国の夜はひどく暗い。

 霧の中では月明かりも街灯の光もおぼろげで、私を追いかけてくる何かの姿もはっきりとはわからなかった。

 路地に反響する足音は二つ。

 狙われているのが私だけ、他人を巻き込んではいないらしいのは不幸中の幸いか。

 足音に加えて恐怖を煽る音が一つ。

 背後から迫る、がりがりと石畳を削る音。

 追跡者は何か固く重い物を引きずっているらしかった。

 そんな大荷物を持つ相手を引き離すことができない。

 手の届く距離ではないけれど、その距離をこれ以上広げることができない。

 あるいは、わざとか?

 怯える私を追い回すことを楽しんでいるのかもしれない。

 嫌なやつ。

 相手が何者なのか、何故私を追いかけてくるのか、何もわからないけれど捕まってはいけないという確信があった。


 とにかく、このまま走り続ける。大通りに出ればヤードの人がいるかもしれない。

 問題はこの闇夜の霧の中でとっくに方向感覚を失っていることだが。

 私はまだ走ることができている。

 進み続ければ道はどこかに繋がるはずだ――。


「そろそろ、飽きて来たな」


 ぞっとする声。

 耳元でささやくような。

 近すぎる。

 いつの間に、と思う間もなく。


 巨大な何かが霧を裂く。

 すんでのところで身をかわす。

 振り下ろされたそれが轟音を上げて石畳を砕いた。

 一瞬、風が霧を晴らした。

 見えたのは黒鉄の巨大な十字。

 あまりにも大きすぎるという点を除けばスティレットのようだった。

 私の体などは触れただけでへし折れそうな凶器。

 だがそれ以上に恐ろしいのは。


「あなた、人間?」

「そうさ、もちろん」


 影が笑う。

 影としか言いようがない。

 人間の形状をした暗闇。

 光がさしてなお、表情などわからない。

 声の調子で私を嘲っているのはわかる。

 それが巨大なスティレットを振るう者だ。

 何者かはわからない。

 しかし、その姿は――。


「逃げるのはやめたのか?」


 向き直った私を影が再び嘲笑う。


「うん、逃げない」


 この影はきっと手がかりになる。

 私が生き残ることさえできれば。

 そしてその勝算もないわけではない。

 やれるか?

 私は、濁った空気を吸って吐き、息を整え――。


「やめておけ」


 三度目、嘲笑う声。

 

 困惑したのは私だけではない。

 影人間は周囲を探るように頭らしい部分を左右に振り、スティレットを構え直した。


「双方に言っている。ここで刃傷沙汰は許さん」


 霧の向こうから低く響く声。足音。

 ヤード?

 だとすればそう名乗るはず。

 影人間の仲間ではないとして、私にとっては敵か味方か。


「もっとも、貴様らは存在自体を許さんがな。統一国家メガ・ネイション樹立などという妄想を掲げるテロリスト」


 何かが作用したように、唐突に、一帯の霧が晴れた。

 一人の男が立っている。

 黒い男だ。だが影ではない。

 黒い髪。黒いインバネスコート。そして、黒い眼鏡。

 視線の読めないその眼鏡は影人間に向けられている。

 レンズの下の目がどのような物かはわからない。

 だが影人間は怯えているようだった。故郷の言葉を思い出した。蛇に睨まれた蛙。


「チィッ、帰ってきていたとはな! だが存在を許さんとはこちらの台詞!」


 影人間はスティレットを振り上げ吶喊した。

 正体不明の影も、巨大なスティレットも、もう恐ろしいとは思えない。

 影人間の気持ちがわかってしまう。

 避けられぬ破滅を悟って自らを鼓舞している。

 私は、その場に座り込んでしまう。

 今、この場で本当に恐ろしいものは。


「武器の『拡大』。高次レンズの使い方としては基本だな。だが帯剣の免状はないだろう」


 黒い男が嘲笑う。

 その手には、何か針のような物。

 その小さな何かが、一瞬の内に『拡大』し――。


 ぱりん、と甲高く軽い音が響いた。

 巨大な武器がぶつかったはずなのに。


 地に倒れ伏す男は影ではない。

 その手にはへし折れた小さなスティレット。

 傍らにはレンズの割れた眼鏡。

 どこにでもいるような労働者に見える。

 これが影人間の正体?

 血は流れていないようだけど。


「殺してないよね」

「眼鏡を割った。それだけだ」


 軍刀を手にした黒い男がつまらなそうに答えた。


「帯剣が許されているとはいえ不要な殺しはしない。お前、随分町の連中に好かれたな。俺のところに電報が来たぞ。『来客、東洋人』と」

「それじゃあ、あなたが」

「ああ」


 言われてみれば、思い当たる。

 噂に聞いていた探偵の姿。

 黒いインバネスコートに黒い眼鏡。

 そして女王から許されたという軍刀。

 悪と謎とを


「ピンカートン探偵社ロンドン支部のジャックだ。依頼を聞こう」


 彼は愛想笑いなどせずに、ごく事務的に軍刀と逆の手を差し伸べた。

 それが彼、ジャック・ザ・リッパーとの出会いだった。

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