藤色の目の人

九十九

藤色の目の人

 私は、彼の事が好きだった。私とただ一人同じ食卓を囲んでくれる彼、勉強を教えてくれる彼、褒めてくれる彼。二回り近く歳が離れた彼が、私は好きだった。

 私は、彼の目が好きだった。こちらを見つめる綺麗な藤色が好きだった。本を読む時にだけ掛ける眼鏡の下で、文字を追うその目が好きだった。

 彼が好きだった。そう、好きだったのだ。

 

 居候の男と未だ子供から抜けきらない少女が出会ったのは、雨の降る季節だった。その日は土砂降りの雨で、風で飛んできた枝が雨と一緒に窓に当たる音が、家の中に響いていた。

 玄関に少女の父と共に現れた背の高い男は草臥れたスーツを着ていて、傘を差していただろうに肩も足元も酷く濡れていたのを、少女は覚えている。

 最初に交わした言葉は挨拶ではなく、ハンカチを差し出した少女の、どうぞと、一瞬躊躇した後に受け取った男の、有り難うの言葉であった。

 少女の父は男を、仕事仲間だと言った。ここに居候させるとも。

 母は既に男のことを知っていたのか、大して間も置かず頷いて、家の中へと案内した。男が不器用に笑って母の後に続けば、少女も男の後ろに付いて行く。

 男が案内されたのは、少女の部屋の隣の部屋だった。隣と言っても、間に幾分か距離があって、人二人は並べそうな分厚い壁で区切られた部屋だ。この部屋は、音が響かない部屋だった。中で何か動いても音がしない部屋。少女の家の中では、奇妙な作りの部屋である。

 部屋の中には布団と、机と座布団、あとは本棚があった。本棚には本が並んでいて、どうやらそれは遠目に見るに小説のようだ。

 男が部屋に荷物をーーと言っても片手に下げた鞄しか無かったのだがーー置けば、すぐに男は出てきて、部屋の扉は閉められた。

 母は、男へと風呂の場所を教えると、タオルや着替えを持ってくる、と言ってその場を離れる。離れ際、少女も呼ばれたので、母に付いて行こうとすれば、男に小さな声で呼び止められた。

 振り向けば、唇に人差し指を当てた男がいる。

 これ、と差し出されたのは瓶に入った金平糖だった。お父さんとお母さんには内緒ね、と掌の上に乗せられる。その時初めて、明かりの下、間近に男の目を見た。藤色だ。光によって色を変える藤色。

 少女がじっと男を見つめていれば、男はへらりと笑い、良かったら食べてね、と言い残して風呂場に向かっていった。

 母にもう一度呼ばれるその時まで、少女は男の後ろ姿を見つめていた。


 母は少女に、あまりあの男の人に迷惑をかけてはいけないよ、と言った。それは、あまり男には深く関わって欲しくなさそうな、そんな様子だった。

 けれども少女は、そんな母の目を盗んでーーと言っても、母は仕事に忙しい人であまり家には居なかったのだがーー男の元へとよく遊びに行った。ご飯だって、忙しい父と母は一緒に食べくれなかったが、男がやって来てから、食卓は二人になった。

 男も最初は遠慮と言うか、どこか少女を遠ざけるようにしていたが、ずっと家で一人ぼっちで居た少女を哀れに思ったのだろう。食卓も囲んでくれるようになったし、勉強を教えて欲しいと強請れば、机を挟んで教えてくれた。よく出来たと少女をしょっちゅう褒めてくれたし、内緒と言って甘味を与えてもくれていた。

 けれども、男は、いつまで経っても彼の部屋には入れてはくれなかった。少女は強請る事はしなかったが、きっとお願いしても入れてはくれなかっただろう。

 男は少女と関わるようになってから、よく部屋の本棚に立て掛けられた小説を縁側で読んでいた。その時だけ、男は眼鏡を掛ける。小さな字ばかりは眼鏡を掛けてないと集中できないのだ、と言って、男は笑っていた。

 本の文字を追う視線、眼鏡越しのその藤色が、自分を真っ直ぐ見てくれている藤色と同じくらい少女は好きだった。穏やかな目をしていたのだ。少女にはいつだって優しく穏やかな性格だった男だったけれど、本を読んでいる時は、まるで寝顔を見ているような、そんな錯覚をした。


 父は、少女に男が仕事仲間だと言ったけれど、あれは訳ありなのではないか、と少女は思っている。もしくは嘘。

 だって、男はずっと少女の家にいる。夜は分からないけれど、日中は大体家にいて、少女の相手をしてくれていた。時折出かける事があるくらいで、毎日、朝から晩まで仕事に出ている父とは同一の仕事をしているようには思えないのだ。

 それでも同僚と言っていたわけでは無かったし、仕事の事なんて少女には分からないのだけれど、でも、仕事仲間と言っていたにも関わらず、父は男と顔を合わせても何の会話もしなかった。むしろ遠ざけていたようにすら思う。少女が父と男が顔を合わせた所を見たのは一回だけだけれど、そこには妙な違和感があったのを覚えている。

 

 夜、急に意識が浮上した。

 一度眠れば、朝まで一度も起きた事のない少女には珍しい事だった。

 胸騒ぎがした。胸がざわざわと騒めき、眠れない。何度か寝返りを打てば、外でこつりと音がした。

 扉に近づいて、耳を当てれば、廊下に人の気配があった。何か重いものを運んでいるような、引き摺る音は、隣の部屋の方からだった。

 そっと扉を開ける。けして開けきらないように、僅かな隙間から少女が廊下を覗けば、そこには父と母が居た。

 暗闇の中、何かを隣の部屋から運び出している。

 父母の足元には白い布が掛けられた何かがあった。長い何かが横たわるように置かれている。棚のような形はしていない、もっと丸くて柔らかい。

 何か、嫌な予感がする。

 父が何かの半分、太い方を抱えるように持った。母は細い方を持つ。何かはぴんと突っ張らずに、真ん中辺りで柔らかくくの字に折れた。あれは。

 自然と呼吸が早くなる。それでもばれないように、少女は必死に息を潜めた。

 ぬるり、と何かが床に広がっている。黒いそれは、白い布で包まれた何かから溢れていた。

 夜の中、父と母は何かをどこかへと引きずっていった。

 何も居なくなった廊下、けれども床には黒色が滲んでいる。

 そっと部屋を抜けて、黒色を踏まないように、開けっぱなしの隣の部屋を覗き見た。黒色は部屋の中まで続いている。

 部屋の中には誰もいない。空っぽだった。

 空っぽの部屋、黒が滲んだ床、運び出された柔らかい何か。嫌な考えが頭を過って、少女は両手で顔を覆った。

 そこから先は、よく覚えていない。気づけば少女は布団の中で眠っていた。

 朝、目が覚めれば、廊下の黒色は消えていた。気になって隣の部屋をノックする。けれど返事がない。いつもであれば直ぐに出て来てくれるのに。

 そっと扉を開ければ、そこはいつもの部屋だった。けれども、誰も居ない。

 男の荷物は無く、本棚の所に、眼鏡が一つと金平糖の入った瓶があるだけだった。

 本棚の一番端、その題名は一昨日読み終えたと言っていた本で、男はここにある全部の小説を読み終えたのだな、と少女はぼんやりと思った。

 その日の朝は珍しく母が居て、男の事を尋ねれば、彼は夜に家に帰ったのだと、どこか震える声で言った。


 少女は男が好きだった。優しい男が、一緒にいてくれる男が、大きく無骨な手で撫でてくれる男が、好きだった。

 少女は男の目が好きだった。藤色の目が、己を見てくれる藤色が、本を読んでいる藤色が好きだった。

 少女はあの日から、金平糖と共にそっと部屋から持ち出した男の眼鏡を持っている。

 そうしてそう、大人になって、小さな字に集中出来なくなった時、本を読む時になったら、あの眼鏡を掛けようと思うのだ。そうすれば、あの藤色をきっと思い出す。

 今はまだ、金平糖であの藤色を思い出そう、と、少女は一粒金平糖を口の中に放り込んだ。

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