急:ヤバい気づき

 造花の咲いた胸を張って昇降口を出る。在校生が校門までの裸木の前にずらりと並び、吹奏楽部のファンファーレが寒空に鳴り出した。俺達はクラス順にその花道を男女二人組で歩く。


「アイドルやめたの?」


 そう尋ねながら、一列前の女子生徒が肩越しに振り返る。俺は笑った。


「やめないよ」


 俺は進学することにした。偏差値の高いところではないけれど、既に合格は掴んでおり、この件で親を泣かせることはないだろう。しかし夢を諦めたわけではない。むしろ、前よりも本気になった。

 校門の向こうでクラスメイトに手を振って別れ、タクシーで駅に向かい、電車とバスを乗り継ぎ、とある場所に向かう。それから数時間後──……天を穿つ摩天楼から出てきた俺は、腹の奥から噴き出すような堪え切れない感情のままに、雄叫びを上げた。


「──ッよっしゃあああ!!」


 俺は懲りなかった。けれど、省みはした。俺は客観視というものが足りなかったのだ。容姿が可愛くないことをわかっているのに、それを補ってあまりある長所があるわけでもないのに、何か譲れない確固たる理由も持たず、わざわざ荊道を進んでいた。俺はそれをやめることにした。自分の持ち味を活かせるのは、何も三次元のアイドルだけではない。咲く場所は選べるのだ。

 俺は方向転換することにした。レッスンは変わらずやっている。でもそれだけでは足りないから、加えて、様々な媒体での覆面配信活動、SNSの運用の練習、そしてオーディション。一つ二つ季節が過ぎて、ひとつだけ一次審査に合格する会社があった。奇しくもそれはあの日出会った女神のような女の人と同じところだった。卒業式の後、俺は本社ビルで二次審査を受け、それにも合格した……ような感触を受けた。審査員の目がこれまでのものと全然違っていたのだ。それからまたいくつかの季節が過ぎた。そして半年後、俺はついに、最終審査の合格通知メールを受け取った。


 あれから二年近く、色々あった。合格した事務所のタレント育成というものに大学と同時並行で参加し、新たな夢を叶えるための方法を教わったり、アバターを借りて試験的な配信を行ったり。それが落ち着いてきた今日、ようやく幼馴染と都合を合わせることが出来た。

 雪解けの水溜りをゲーム感覚で避けながら歩き、少し寂れた雰囲気の居酒屋に着く。外側のドアの脇、申し訳程度に置かれた花瓶には、星のような白い花が赤い大輪に添えられるように咲いている。それを眺めながら鼻歌を歌っていると、車が一台目の前に停まり──鮮やかな並列駐車──、運転席からヒイロが降りてきた。「おー」と手を挙げるとこちらにやってきて、二人で店に入る。


「今日はオレの奢りにしてやろう」


 ヒイロはにこにこしている。俺は思わず唇を尖らせた。誘った段階ではまだ確定ではなかったので、電話先では“良いことがあった”としか言っていないのに、こんなに浮かれられるとこっちが恥ずかしくなってしまうではないか。


「初めからそういう話だろうが、約束忘れたのか?」

「はあー!? 誰もが認める下戸で一滴でも飲むとゲロゲロ吐いて記憶失くすクソザコナメクジたるこのオレが酒の席で奢ってやるって言ってんのになんだその態度は!」


 「お前マジそういうとこ」とヒイロが店員にピースサインを見せながら言う。俺は店員の案内に続いて席につき、一も二もなくメニューを開く。


「よーし! 頼むぞー!!」


 うきうきで写真と文字を追っていると、対面のヒイロが溜息を吐きながら頬杖をついた。


「……その顔に免じて許してやるよ」

「よくわかんないけどあんがと!」


 最初は生として、焼き鳥は外せない……唐揚げも良い……でもゲソ天も頼みたいから脂っこいものが被るときついかもしれない……。掘り炬燵の座敷で足をふらふらさせ、よくよく吟味し、注文を入れた。

 ビールを飲み交わしながらくだらない話をする。あのクラスメイトは今どうしてるとか、担任が教頭になったらしいとか、校舎が改築されるのはいつ頃になりそうだとか。二杯目の生を頼む頃になっても話題は尽きなかった。ねぎまを齧り、もう一皿食べたいなぁなんて考えていると、不意にヒイロがこちらを見て目を細める。


「でもま、元気そうで良かった」


 「何が?」と串を口から引き抜きながら首を傾げた。ヒイロはゲソ天と格闘するのをやめ、箸を置いた。


「お前、モチベーション何もないのに突っ走ってやがったからさあ」

「モチベならあるよ。男を転がして女の子とイチャイチャ──」

「それは夢を叶えた後のことだろ。将来に向かって頑張る過程の話をしてんだよ、オレは」


 口を噤む。串を皿に置き、俺は遠くを見つめる。その通りだった。小目標も何もないまま闇雲にやっていた。確かに、あのままじゃどっち道長く続かなかっただろう。


「……だからかも、叶ったの」

「は?」

「俺、受かった。アイドルの養成所」


 俺はお手拭きで甘じょっぱくなった手を拭い、スマートフォンを操作した。指先がつるつるとして掴みにくい。パ、と出した画面をヒイロの方に突き出す。大手Vidolの事務所のホームページだ。


「ここの会社。推しもここに所属してるんだ。やっとデビューも決まってさ──」


 それから合格メールを見せようと思ってスマートフォンを手元に戻しかけたとき、ヒイロが俺 両の手首をがっと掴んだ。細い骨が軋む。珍しく力加減を忘れているらしい。


「おま……は!? マジで!?」


 俺は動かなくなった手首に顎をしゃくって言外に抗議した。ヒイロはすぐに手を離し、一言謝って、また「マジなのか?」と顔を近づける。俺は高い鼻を掌で潰して「マジだっつってんだろ」と低い声を出す。とはいっても、せいぜいハスキーボイスにしかならないのだけれど。

 それにしても、とヒイロに胡乱な目を向ける。女慣れしているヒイロとは思えない動揺の仕方である。何かあるな。じーっと見つめているとヒイロは降参したようで、渋々口を開いた。


「そこ……オレの元カノが、働いてる……」

「世間て狭いんだな」

「そんでお前の推しの中の人を担当してる」


 俺は喉を鳴らして唾を飲み込み、ジョッキを一気飲みして叫んだ。


「はあ!?言えよ!!」

「馬鹿、個人情報だろうが。……まあデビューしたらおのずと気づくだろうから今言ったけど」

「はあ!? 言うなよ!!」

「どっちだっつの!!」


 ヒイロの元カノは女神で、女神は元カノだった……つまり俺は同じ相手に二度恋をしたってことになる。どんな偶然?

 衝撃さめやらぬまま店員さんに「生もうひとつ!」と手を挙げて頼み、俺はテーブルに半ば頭をぶつけるように突っ伏した。そして少し頬を緩める。


「デビュー出来るって思ってくれてるんだな」

「あ? 聞こえねー、顔上げて喋れよ」


 俺は顔を上げた。


「今度こそ栞ちゃんを落としてやるからな」

「負け犬の遠吠えか?」

「うるっせ!」


 店員の持ってきたジョッキを「あざす」と受け取り、また一気飲みする。


「怖いくらいの飲みっぷりだな……」


 ヒイロはドン引きしつつ、ノンアルコールカクテルにちびちびと口付けた。


*

 青い簾の降りた窓の向こうは景色が見えないほど暗い。むにゃむにゃと唇を動かすイバラに溜息をつきつつ、緋色は簾の隙間をそっと覗いた。満月だった。こんな夜は盃で日本酒でも飲めたなら絵になるだろうに。そんなくだらないことを思いながら座敷に戻り、およそ五回目になるいばらの演説に耳を傾けた。


「そこでさ、枝折エダオリ──栞ちゃんがこう言ったんだよ、“世の中は顔じゃない”って! あ、でももうすぐ先輩後輩になるんだから、ちゃん付けするのやめなきゃな……ちょっと寂しいけど……」


 しゅん、と頭を垂れる。つむじからは一二本のアホ毛がとび出ており、しかも枝毛になっている。相変わらずだ。残念ながら彼はヘアケアを怠っておらず、幼少のみぎりにはヒイロ直々に指導したこともあるが、いばらの容姿は改善の兆しも見えない。もちろんやらないよりかはマシなのだけれども。

 若干の同情の視線を注がれているいばらは「あーうー」と眠たげな声を出し、またグラスに手を伸ばす。なお、周りには空のジョッキや氷だけ残ったグラスがいくつも置かれており、とても一人で飲んだとは思えない量である。


「こら。もう飲むなって」

「嫌だ! 飲む!」

「水にしとけ」

「せっかくお前と飲んでるのに水!? やだ!!」


 駄々をこねるいばらに、緋色は思わず頬を引き攣らせた。いばらの気持ちはわかる。ただでさえオーディションの合格で有頂天なのに、こうも驚くような世間話が重なったなら、酒が進むというものだろう。しかし……


「お前、絡み酒って言われねえか?」

「それで栞ちゃんがさあ……」

「聞けよ」


 テーブルを越えてこちらへ伸ばされる手を優しく押しやりながら緋色が苦笑する。対面の席でなかったらどうなっていたことか。いばらは精確的に合コンに参加したがるタイプだろうが、しばらくは自粛させる必要がありそうだ。

 「すみません水貰えますか?」と手を挙げると、やってきた女性店員は──“研修中”という札が胸に留められている──、大ジョッキいっぱいのミネラルウォーターと共に小さく可憐なメモ帳に十一桁の番号を書いて寄越した。顔を上げると、緋色の視線とやや熱を帯びたそれが交錯する。「で、では……」と女性店員は駆け足で去っていった。緋色はその丸くてハリのある臀部をやけに注意深く見つめる。


「……そろそろ次に行ってもいいよな、オレ」

「なゃにー……?」

「お前には言ってねえよ」


 アルコールで赤くなった額にデコピンをお見舞いすると、いばらは「ぐぬ〜……」と唸って頭を庇った。しかしその口元はへにゃへにゃと弛んでいる。今だ──緋色は直感的にそう思い、水のジョッキを勧めた。いばらは従順にそれに口を付ける。作戦成功である。

 きっと喉が渇いていたのだろう。いばらは水を飲み干すと、ふーっと息をついて目を開けた。ぱちぱちと瞬く。


「ん……?」


 いばらはしばらくぼんやりとしてから、はっとした。


「いま何時!?」

「夜中の十二時」

「……セーーーフ!!」


 ぐはーっと大袈裟に溜息をつくいばらに緋色が「なんか予定あったん?」と尋ねると、彼は「無ぇけどさ」と唇を尖らせた。


「せっかくお前と会ったのに、酒にかまけてちゃんと話も出来てなかったから……」


 緋色は瞠目する。


「なんかあったか? 話」

「……んー……」


 いばらは斜め下の方に目を伏せた。その表情は何か懐かしむような、けれど満たされているような、それでいて寂しげな、そういう複雑な色を灯している。


「これからはまたしばらく忙しくなるな……って」


 大人びた言葉だった。緋色はどこかアンニュイな彼に、「そうだな」と頷いた。いばらは空のジョッキを強く握る。緋色はテーブルに落ちるグラス達の透明な影を見つめている。


「でも、ずっと友達だからな」


 まるで子供みたいな言い草に、緋色は顔を上げた。そして向日葵のような黒い虹彩と目が合う。急に、胸をナイフで一突きにされたような息苦しさを感じ、手元のグラスを煽った。


「おー、良い飲みっぷりじゃん」

「ああ……」


 緋色は俯いて黙り込んでいる。くらくらする。心臓がどくりどくりと拍動し、真っ赤な血液が循環し過ぎて、頭が痛かった。いばらは緋色の異変に気づかず、テーブルの上で微睡み始めている。

 ──駄目だ。緋色は思った。いばらが語った女の子への愛を思い出させ、正気に戻ろうとする。でもやっぱり駄目だ。緋色の心臓はまるで何かが根を張って無理矢理に動かしているかのように言うことを聞かない。身体中がそうだ。いばらの呼吸ひとつできゅんとなり、ごく短い睫毛の揺らめきにごくりと喉が鳴る。緋色はもうこの気持ちを無かったことにする不可能性に気がついていた。駄目だ、ともう一度噛み締めた。

 せめて、せめて。この気持ちには蓋をしよう。いつの間にか、夢に向かって歩く幼馴染を祝福することこそ、緋色の夢になっていた。ようやく日の目を見ようとしているいばらを摘むことなど……この気持ちを知ってしまったからこそ、それは絶対に出来ない。

 緋色は手元のグラスを持ち上げた。「お?」といばらは腕に顎を乗せながら、片方の手で空のジョッキを手に取る。


「かんぱ〜い!」


 かちん。二度目の祈りが店内の喧騒に溶けていけ。イバラはまた新しい注文をして、緋色はゲソ天を噛み千切った。夜はまだ長い。頬を赤らめたヒイロの側で、カシオレの氷がからんと音を立てた。




 知らない天井だ。


 つんと鼻につく匂いで目を覚ましたいばらは、むかむかとする腹を押さえ、身を捩る。二日酔いにしてはあまり気分が悪くない。むしろ身体が羽根のように軽く、すっきりとした感覚さえある。それに、何か温かいものが側にあった。なんとなく落ち着く感じがしたので、いばらはそのことに意識を向けない。けれど代わりに周囲の様子が気になった。今はまだ眩しくて見えないが、光の差す方からはちゅんちゅんと鳥の声がする。鼻につく匂いはおそらく嘔吐物ゲロだ。その中に混じっている薔薇のような甘い匂いの正体はよくわからない。

 そうっと半身を起こすと、はらりと何かが胸から落ちるのを感じた。天井から視線を外す。いばらの中途半端な乳房の肌色が布団から露出していた。いばらは沈黙し、布団を捲る。下穿きも身に着けていないらしい。これはどういうことだ? 転生したことで裸族の称号も手にした記憶はなかったのだが。

 そのとき、もぞりと身体の側の温かいものが動いた。怪訝な顔を上げると、裸の緋色がいた。いばらは絶叫しそうになった。何かが喉に詰まって声が出ず、こほこほと咳をすると、貧相な胸元に嘔吐物ゲロが落ちてきた。いばらは絶句した。そして独り言のように口を開く。


「合格早々スキャンダル? いやでも腰は痛くないし………」


 一方、緋色は真っ青になって震えていた。緋色には記憶がほぼなかった。二度目の乾杯をしたときまでは覚えているが、そこから何をしたのか、とんと見当もつかない。嘘だ。見当はつく。確実に、“何か”を“ヤッ”てしまったことは確かだ。その証拠に、目覚めたとき、緋色は何となく満足感を覚えていた。意識が覚醒してからはそれどころではなかったが。何せ現在進行形で股間に後の祭りであろう湿り気を感じている。

 混乱しているいばらを横目に、緋色はずきずきと痛む頭を押さえながら布団を剥いで、一糸纏わぬ姿でベッドに正座しようとする。ひとまず謝罪しようと考えたのだ。しかし、シーツから腰を浮かせたとき、何かがおかしいと感じた。緋色は改めて周囲に視線を巡らす。布団で隠れていた緋色の太腿には白っぽい液体が張り付いている。周りにゴムはない。やはり、想像通りのことが発生したはずだ。けれど──……後ろ手に、緋色は自分の尻にそっと触れる。何かが垂れてくるのを感じた。ぬるぬるべちゃべちゃとした感触も。

 緋色は数秒首を傾げて停止した。そして尻を触った手に目を落とした。いばらも、その決定的瞬間を見逃さなかった。どろりとしたものが付着した掌。二人は同時に叫んだ。


「「オレがそっちなのかよ!!?!?」」


 顔を見合わせた彼らの首元には、赤い花が咲いていた。




〈 『手違いでも薔薇は咲く』 了 〉


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