破:新しい気づき
モテる男の条件を三つ挙げよ。そう訊かれたなら、俺は間違いなく「性格・財力・顔面」と答えるだろう。要するにそういうことだ。性格はこれから研鑽していくし、顔面は現在進行形で研究しているメイクが上達すれば解決するだろう。となると、残るは財力。俺は金持ちにならねばならない。
そして俺はこの十五年間生きてきて散々身に沁みたのだが、女性が金を稼ぐにあたっていくつかの問題が発生する。ナメられる、あしらわれる、ウザがられる、エトセトラエトセトラ。一言でいうと「女だてらに」である。サッカー部とかマジでこれな。これ以上の主張は蛇足になるので切り上げるが、正直やる気が出ないのだ。考えてもみて欲しい。まともに努力の丈を認めて給料をもらえるであろうことを信じられない環境で、頑張れるだろうか? 否。俺は前世で男としてそこそこの人生を歩んだからこそ、そんな理不尽には耐えられそうになかった。
そこで俺は考えた。──いっそ女であることを利用してしまえ、と。
思い立ったが吉日。俺は先の放課後にネットで予約をして、休日返上で色んなレッスンを行なうようになった。ボイトレと歌に三時間、ダンスに三時間、演技に五時間。バイトの隙間をすべて埋めるが如く予定を詰め込み、毎日のようにバスを乗り継いで練習場所に向かう、慌ただしい日々が始まったのだ。
ここまで語ればわかると思うが、俺が目指そうとしているのはアイドルだ。男心を掴んでのし上がっていく職業といえばこれだろ! と決めたのである。なお、それをヒイロに言ったところ、「単純にも程があるだろ」との苦言を頂いた。そりゃもちろん他の職を考えなかったわけではない。キャバクラとかホステスとかガールズバーとか、他にも案にはあったけれど、前世で小さい頃に親戚の集まりでおっさんに焼酎を飲まされてブッ倒れてから酒は見たくもないほど嫌いだったので、却下としたのだった。
幼い頃から仄かな憧れが……みたいな過去は存在せず、知識も経験も足りていなかった俺を、他のレッスンメンバーは毛嫌いしているようだった。それも当然のことだろう。彼女達は本気でアイドルやダンサー、歌手、声優といった素敵な夢を目指しているのだから。
けれども、一年以上も一心不乱になって練習に取り組み、ライバル達に多少の遅れは取っているものの、現実的に考えて最短で引き上げられるレベルの限界にまで至った俺に、周りも本気を感じ取ったらしい。最近は見る目が変わって、随分と穏やかに会話が出来るようになってきた。例えば今のように。
「いる?」
ファイブセットの練習を終え、ぐったりと床に膝をついた俺に、メンバーの一人がドリンクを手渡す。俺は顔を輝かせて受け取った。
「あんがと! 今度何か持ってくるわ!」
「いらないわよ」
「えー」
どたどた、と靴も脱がずに玄関のフローリングに倒れ込む。環境に適応し始めたからといってオーバーワークの疲れは変わらない。うつ伏せのままくしゅんとくしゃみをする。もう花粉が出てきたらしい。決意したあの日から一年半が過ぎ、窓の外の山々は紅葉し始め、秋の訪れを告げている。
またひとつくしゃみをして鼻をむずむずさせていたとき、ピンポーンと間近で呼び鈴が鳴った。仕方なく立ち上がってドアの鍵を開けると、「よう」と手を上げてヒイロが玄関をくぐる。俺は彼をそれほど驚かずに手を挙げて出迎えた。光の加減だろうか。彼は少しだけ肌が白く……あるいは青く、見えた。
「定期テストの範囲は確認したんだろうな?」
俺の視線など気にもせず、ヒイロは勝手知ったる様子で階段を上がって俺の部屋に向かった。俺もそれを追いかける。今日は試験前恒例の勉強会を行なう日なのだ。
部屋はアイドル関係の物──オーディションのチラシ、参考にしているアルバム、メイク道具──で散らかっている。それらを拾っては片し拾っては片し、十五分ほどかけて足の踏み場くらいは作ってやって、押し入れから折畳式のローテーブルを出してきてその上にタブレットなどを広げた。
しばらく黙々と数学のテキストを解く。数Aと数B、それからIとII。俺にとってはどれも区別がつかないほど理解の及ばない存在である。いつの間にか手は止まって、シャーペンに手汗が滲んでいた。ヒイロはすらすらとタッチペンを動かしながら尋ねる。
「で、進級出来そうか?」
「……ぼちぼち」
「ったく、見せてみろ」
ヒイロは着崩しや髪の毛などの校則違反にさえ目をつぶれば優等生ど真ん中だ。テストではいつも十位以内に食い込んでおり、授業態度も悪くない。
対して俺はというと、勉強を頭に入れることよりノート整理を優先してしまう典型的な努力下手で、生活態度も特に何をしているでもないのに「浮ついている」と目をつけられがちな、優等生とは程遠いところにある生徒だ……と自覚している。つまり自覚するほどにやばいってこと。母も父もこればかりは甘い顔も出来ず、毎学期に持ち帰ってくる成績表を見ると生温い目で「……塾行こうか」と言ってくる。俺はいつもそれを固辞する。これ以上何かを掛け持ちすると本当に倒れてしまいそうだ。とはいえ、少なくともヒイロと勉強会を開催出来ているうちは留年することもないはずなので、両親もそれ以上口を出してくることはない。俺達を信頼してくれる彼らを裏切るわけにはいかないから、俺も必死で勉強している。
「──疲れたー!」
あれから数時間、すっかり窓の外は暗くなっていた。ヒイロのおかげで予定していた範囲よりも多くを解くことが出来たが、テストの時間制限を考えるとまだまだ勉強が足りそうにない。あとで復習しておこう。
麦茶を氷をからころ鳴らしながら口を付けていると、ヒイロがコートのポケットをごそごそと漁くっている。
「何? なんか借りてたっけ?」
「貸してたのはお前。あんがとな」
ヒイロは何やら長財布を取り出し、そこから諭吉を三枚抜き取って手渡してきた。「なんだっけ」と俺は口を半開きにしたが、すぐに思い出した。
「……ああ、あのときの」
ヒイロは情に篤い男だ。それは幼馴染以外にももちろん適用される。彼は転校していったカノジョともまめに連絡を取り合っていて、俺はある日、彼女に会いに行くお金がないから貸して欲しいと頭を下げられ、ぽんと一万円を渡したことがあったのだ。
俺は「バイトしろよ」とは言わなかった。こつこつ勉強するのが得意なヒイロだが、別に天才というわけでもない。その分のリソースを他に割かないようにすることで優れた成績を手にしているのだ。そのためバイト代なども入らず、花の男子高校生にしては懐の寂しい生活をしている。だから俺はそれほど躊躇することなく、「倍にして返すとか言うなよ」なんて冗談を飛ばして小さな手助けをしたのだった。
「トイチっつってたから、二万足しといた」
あれそんなことまで言ったっけ。言ったかも。いや、言ったな。あの後なんだかんだとふざけた会話をしてそういう着地をした気がする。
というか、頭が良いくせしてこの雑計算はどうなんだよ。
「あざー」
「マジで貰うンか……」
「冗談冗談」
二枚だけ返して、一万円を財布にしまった。
「このぶん何か奢ってくれよ、そのうち」
「今日は?」
「勉強もするし……まだ、練習するから」
「家でも?」
「トーゼン」
半眼で呆れられた。この様子だと何か文句をつけられそうだ。「そ、そういえば……」と俺は慌てて話を変えた。
「最近彼女とどう?面白可笑しくやってる?」
「さっき別れてきた」
さらりと言われる。「…………マジ?」と思わず眉を寄せるが、ヒイロは清々しいような、でもどこか淋しそうな空白じみた表情で笑った。
「……そんな顔すんなって」
俺が何も言えずにいると、ヒイロは構わず話を続ける。思い出すように遠くを見ていた。
「夢があるって言ってたんだ」
大切なものを抱きしめるような声だ。
「きっとこれからあいつも、面白可笑しく生きるんだろ」
どこか幸せそうなのは、それぞれ納得した上での別れだったからだろう。
俺はヒイロの話し口を聞いて、あぁ大丈夫そうだな、と感じた。そして彼のカノジョだった女の子を思い出す。強くて可愛い笑顔を浮かべる人だった。そういやあの子もアイドルになりたいって言ってたっけ。
「……イマドキ、小学校からずっと付き合ってるカップルなんて絶滅危惧種だぜ? 続いてただけスゲーんだよ」
「そうだよなぁ」
ヒイロの冗談めかした言葉に同意しつつ、少し笑う。絶滅危惧種。そう考えると、身体が男と女で別れているのに、彼とまだ幼馴染をやれているのは、実はすごいことなのでは? と思った。
荷物をまとめて「じゃ、また学校でな」と玄関で手を振るヒイロを家に帰し、鍵を閉めながら、「よーしやるぞ」と声を出した。
「──お前みたいなブス、誰が好きになるかってんだ!」
二次審査会場のビルから転がるように出ると、耳を蝉時雨が暴力的に陵辱し、何も聞こえなくなる。汗が噴き出ているのに寒くて堪らない。厳しい日差しで黒黒とした強い影が足元に溜まっている。
初めて一次審査に受かった……のに、このザマだ。期待していただけあって、脱力感にも似た失望が胸に穴を開ける。空洞を作ったベクトルの指すものは、自分を落とした会社でも唾を飛ばして罵倒してきた面接官でもなくて、他ならぬ自分自身だった。それを理解していながら、他人事のように遠いところに心臓が落ちているように感じるのは、きっとそうでもしなければ今にも崩れ落ちてしまいそうだからだろう。
俺はしばらく息を止めるようにして駅に向かって歩いた。下を向いていたから、人にぶつかった。平謝りをした。何度かそれを繰り返したとき、ヴヴとスマートフォンが鳴る。乾燥した人差し指で操作してメールフォルダを開いた。もう何通目かもわからないお祈りメールだった。思わず蹲り、ぼろぼろと溢した涙がアスファルトのひびにしみ込んでいく。そこには枯れた花が咲いていた。地面でもないのに、割れ目からたくさんの芽が懲りずに陽へ向かって伸びている。俺はそれを踏み躙りたい衝動に駆られた。けれどそれをする余力もなく、スマートフォンの画面が独りでに落ちるのを眺めていた。
オーディションを全落ちする日々を送ってもう三年になる。同じレッスンのライバルは、みんなどこかしらに受かっていて、それどころか複数の会社の中から選り好みさえしていた。……なんて責めるような言い方をしたくなるような卑屈さを、
この三年間で一番ショックだったのは、今日のような罵声でも、ライバルとの差でもなくて、どのオーディションにも数人はいる、真っ当な人の言葉だった。特に今日は痛烈だった。同情しつつも助けようとしない、常識的な冷たさと優しさで、彼は告げた。
──「アイドルは自分を客観視することが重要です。ダンスや歌の実力より、自己プロデュース能力……自分に何が出来て何が出来ないか、それらをどう活かせば認められるのか、それらを理解していなければなりません。あなたはその力が足りていません」
それ以上は言われなくてもわかった。自分はわかりやすい努力をしただけだで、本当に考えるべきことから目を逸らすばかりだった。アイドルなんて夢のまた夢だ。本来はきっとこの場に立つ資格もなかった。
三年前の春、どうして急に怖くなったのか、わかった。
女に生まれ変わったというありえざる現象。それによって、この世界に対し、なんとなく夢みたいなものなのだと、甘く見積もっていた。その認識が、生理という鮮烈な出来事によって覆された。俺は現実を見てしまった。殺人現場みたいなパンツは、俺のこれから何年も続く苦しみを示唆し、そしてそれが起こる唯一の性別として生きていく未来を象徴していたのだ。俺はそれを本能的に知りそうになって、目を逸らした。そして
「あ……あ……あああ…………」
喉がきゅっと音を立てる。せっかくのスーツは涙と鼻水で台無しになっていた。汚い汗の臭いもした。香水と混ざって気持ちが悪かった。ぐしぐしと顔を手首で拭っても、嗚咽は止まらない。そんなとき、ふと音楽が聴こえた。
美しい歌声だった。きっと今までも流れていたのだろう、顔を上げると、街頭モニターの前で立ち止まって聴き入るたくさんの人が目についた。彼らの視線の先には、画面の向こうからこちらに微笑みかけてくる女の子がいた。イラストが立体になって歌い、踊り、何より心から楽しんでいることが伝わってきた。いつの間にか呼吸は落ち着いていた。
こういうのもあるんだ……つーか、歌上手すぎ……ダンスも俺より下手だけど指先まで気を遣ってるのがわかる……。頭の中に色んな独白、そして感情が去来した。思わず立ち上がってモニターを見つめる。
「大丈夫?」
初め、モニターの中から話しかけられたのかと思った。声の方を見ると、一人の女性が心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。どこかで見たことがあるような懐かしさのある人だった。けして派手ではないが、花弁に光る朝露のように目を惹く。
「はい、すみません……」
俺は反射的に謝り、笑顔を作ろうとする。上手くできなかった。
そのとき、モニターの歌が一層盛り上がる。サビに入ったらしい。美しい響きに思わず側の女性のことさえ忘れて聴き入っていると、彼女はくすりと微笑った。
「……良い曲よね」
「へっ? あ、そうですね。耳に残る──」
言いながら、ふと目の前の人の声とモニターの声が一致していることに気がついた。心臓が大きく跳ねる。けれど口には出さなかった。
「……アイドルになるの?」
「はい! あ、……」
一度口を噤んで、「なりたいって、だけなんですけど……」ともう一度言葉にした。どうしてだろう、この女性は絶対に俺のことを笑わないと思った。そしてそれは正しかった。
「……応援してる」
女性と目が合う。胸が熱くなる。彼女の瞳に映った俺はやっぱり可愛くなかったけれど、可愛げはあった。いつかの自分のモノローグを思い出した。俺は男だから、男の気持ちがわかる。どんなふうにすれば可愛いと思われるのかわかる。それは武器だ。俺が不細工だろうと何だろうと、それは変わらない。
「ッありがとうございます!」
女性を見つめ返し、俺は強く頷いた。自己プロデュース能力──出来ることと出来ないこと──……。課題はたくさんあるが、それは目標を諦める理由になんてならない。俺は絶対に女の子とイチャイチャする。してみせる。
とっくに乾いた頬にぽつりぽつりと水滴が落ちる。見上げると、薄い通り雨が世界に降り注ぎ、青空には朧気な虹がかかっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。