手違いでも薔薇は咲く

藤龱37

序:嫌な気づき

 パンツに血が付いていた。チョンと絵の具を垂らしたとかいうレベルではない。どちらかというとペンキを塗りたくる筆をうっかり落っことして、べったり分厚く染み付いた、ミニマム殺人事件現場みたいになっていた。内臓をミキサーにかけたみたいな肉片が混じっているのが、その印象を後押ししてしまっている。

 ついにこの日が来たか。ようやく、と言った方が正しいかもしれない。高校一年になるまで生理が来なかった人は少数派だろう。俺は悟りを開いたような顔でトイレットペーパーをからから言わせ、巻き取った紙でクロッチ部分を何度も拭った。力を入れれば入れるほどに深いところに浸透してしまう。それでもパンツがパンツとして機能するくらいに血液感が薄くなったので、便器を流し、てかる赤青のタイルを踏みながら生臭くなった個室を出る。そして、ごすっと鏡面にデコをぶつけた。

 がちゃがちゃした歯の中でも特に出っ張った前歯の上にある深い人中窩に、そのまた上にはそばかすの散った低い鼻、それから三白眼、整えなければ野生動物みたいになる自眉毛、おまけに運悪く額のど真ん中に現れた黒子ほくろときた。むくみのあるくすんだ顔に乗せられたパーツはどれも福笑いのように崩れていて、当然のように誂えられた一重の腫れぼったい瞼からは短い睫毛が申し訳程度に伸びている。

 鏡の中、およそ可愛いと表現することを躊躇いたくなるような少女が、よろよろと狼狽えた様子でこちらを見ていた。


「……いや、成長したら可愛くなるとかの救いはないのか……?」


 つい口走ったらお腹の痛みが酷くなった。しゃがんで、なんとなく視界に入った花瓶を呆然と眺める。萎れた花がぐったりと身を横たえている。いっそ花に生まれていたらよかった。八つ当たりのようにそう思った。死に様まで綺麗で羨ましい。俺は……まさか再度人間に、しかも可愛くない女の子に生まれるだなんて思っても見なかったから。


 物心ついて記憶の整理がつくようになり自分が生まれ変わったことを自覚したとき、俺は大いに喜んだ。別に異世界じゃなくたって知識チートは出来る。今のうちに勉強したり運動したりすれば、きっと同級生や将来の同僚に羨ましがられることだろう。そのように考えたわけだ。しかしながら、この二度目の生にはいくつか問題があった。

 まず、ちんちんが無い。

 俺は前世で男だった。男子高校生として平凡に生きてトラックにぶつかった記憶があり、その意識は地続きだ。性別が変わっていたからって心まで変わるほど世界は簡単に出来ていない。そもそも、そんな仕組みになっているのなら性同一性障害は存在していないはずだ。まあそれは置いておくとしても、なんと、神の手違いはこれだけに留まらなかったのだ。

 そう……俺は、まったくもって可愛くないのである!

 時を戻して、前世の青春、俺はそこそこ広い交友関係を築いていた。その中にオタクがいた。そのオタクはTSというジャンルにハマっていて、「死んだら美少女になるぞ」が座右の銘だった。このことからもわかる通り、TSは基本的に美少女に生まれ変わることを指すらしい。そして話を戻して、現在の俺は男から女に生まれ変わったわけだが、母親のドレッサーを覗き込んだ俺は「話が違う」と思った。だって全然美少女じゃないんだもの。十点満点で三点くらい。路傍の石ですらない。中の上の容姿でそこそこの人生を送っていた前世の俺なら、口には出さずとも「……ブスだな」と人知れず思うに違いない顔面偏差値だ。

 圧倒的な手違い感。記憶、性別、顔面。三拍子揃っている。これでどうしろと? せめて記憶がなかったら、男だったら、美人だったら……何度考えたかわからない。その中でもとりわけ俺の中で腹立たしいのは三番目だった。TSというジャンルを既に知っていたのが大きかった。性転換転生したら美少女になるもの、という固定観念があったのだ。期待を持たせておいて裏切られた方がショックは大きい。それでも正直、成長したらどうにかなるのではないか……? という楽観はあった。ほら、小さい頃は微妙だったけど大人になるにつれて綺麗になっていく、みたいなことってよく聞くし……。まあ本気でそう思っていたわけではないけれど、とにかく、そう信じないとやっていけなかったのである。その祈りは届かなかったわけだが。


 職員トイレを出て保健室に行き、諸々の処置を済ませて教室へ向かう。ざわめきが腹に響く。既に三四時間目は終わって昼休みが始まっていたようだ。ガララッと引き戸を開けると、すぐ側で友人と駄弁っていた幼馴染と目が合う。

 渦木緋色うずきひいろ。己のスカした名前が気に食わないとか言いつつ、高校に入った瞬間に髪を脱色して青いメッシュを入れるタイプのスカした男である。


「どした、ンな真っ青な顔して」


 ヒイロは友人達に手を挙げて輪の離脱を宣言し、こちらへ歩み寄りながら、表情を曇らせた。随分と長く休ませてもらったつもりだったが、まだ顔色が戻っていないらしい。全国の女性は毎月この状態を七日も過ごすのか。そして俺もその仲間入りをするのか。そう思うと、徒労感みたいなもので思わず肩を落としてしまう。


「何だその反応」

「…………が来たんだよ」

「あ?」

「生理が! 来た!」

「声デケえな馬鹿!!!」


 馬鹿はお前だ。前時代的価値観の村なら赤飯が炊かれる迷惑この上ない日だぞ。祝え。

 無言で不服を訴えていると、筆舌尽くし難い顔をしていたヒイロは何かに気付いた様子で、ポケットから何かのチューブを取り出した。そして俺の手を取ってその上に中身を押し出す。ハンドクリームらしい。


「何この甘い匂い」

「貰いモンだ! 文句つけんな!」


 「見るからに痛そうにしやがって」とヒイロは手の節々にクリームを塗りつける。確かに指先は赤くなっているし、彼の手が絡むたびにひりひりと痛む。きっとパンツを洗っているときに傷ついてしまったのだろう。うっかりしていた。

 それにしても。俺はヒイロの真剣な顔を見上げる。すると脳裏に「やーい男オンナ!」と俺を囃し立ててきた丸坊主のクソガキが過り、こんな繊細なやつに育つなんて、と何目線なのかわからない感情が湧き上がってきた。あの頃はまさかこんなふうに腐れ縁が続くとは夢にも思っていなかった。

 懐かしさを覚えつつ、チャイムに従って着席し、LHLの説明をする担任の声を聞き流す。いつもならどこか眠たくなるようなひとときだ。しかし俺の腹は相変わらずしくしくと痛んで、時折ぎゅっと締め付けるような痛みが走る。それに寒気がする。カイロか何かが欲しい。そんなことを考えていると、前の方から俺の席にプリントが配布された。空の青色が反射した机に白い紙がひらりと落ちる。“進路希望調査”。黒で書かれた無機質な印字を指でなぞり、俺は特に深く考えることなく、この地域でそこそこ学費の安くてそこそこ名の知れた大学の名前を記入しようとした。しかし不意に襲った子宮の激痛によってシャープペンシルを取り落とす。そしてころころと机から落ちていくそれを眺めながら、唐突に、何かに気が付きそうになった。

 俺は腹を押さえながら紫色のシャーペンを拾って、担任の盛りに盛られた経験談を拝聴しながら、じっと身を潜めていた。調査書は白紙で出した。


 四足の靴底と砂のズレる音を遮って、サッカー部の掛け声が聞こえる。「ファイッットーーオ! ファイッットーーオ!」と繰り返し、グラウンドの周りをぐるぐると走っている。俺は前世でサッカーをしていた。俺自体は上手くも下手でもなかったが、県大会に行ったりと、そこそこの結果を残していた。今世では女子サッカー部が無いので、最初はマネージャーをしていた。けれどそれもすぐにやめた。俺がしたいのはサッカーであってサポートではなかったのだ。

 というわけで、現在、俺は帰宅部である。今も考え事をしながらてくてくと桜並木を横切っている。夕日の差す影は二人分ある。俺とヒイロだ。ヒイロは軽音部だが、週末しか顔を出さなくていいらしい。家は同じ方向だしダチだし別に避ける理由もないので、平日は一緒に帰っている。こういう日は彼の存在に少し救われる気がする。一人でいると、もっとぐるぐる考え込んでしまいそうだから。


「俺、マジで女だったんだなって気づいてさぁ……」


 俺はそれほど抵抗なく頭の中の洪水を口にした。「おう」とヒイロが相槌を打つ。

 ヒイロは俺の心が男だと知っている。というよりは、俺の周囲のほとんどの人が知っているのだ。百歩譲って性差の少ない小学生時代まではともかく、中学からは同級生の女の子達の薄着姿を目にしてしまう状況に気が引けて、合理的配慮──職員トイレを使わせてもらったり着替えを別室でさせてもらったり──を受けている。なお、そのために精神科に行って性同一性障害の診断書を書いてもらった。きっと俺が幼かったからだろう、お医者さんは最初少し気が乗らない様子だったけれど、話しているうちに「それじゃあ仕方ない……」と頷いてくれた。俺は両親の次に彼に感謝している。うちの親はとても良い人達なのだ。貧乏でなかったら、きっとボランティア活動などの社会貢献に精を出していたに違いない。息子の俺が保証する。

 過去を追いかけながら、やはりいつもの性別に対する違和感よりも強い感覚だ、と確信した。生理がきっかけだったことは鈍感な俺でもわかる。いつものふわふわしたものとは違う、もっとじっとりとした、そういう嫌な感覚でもうあれからずっと鳥肌が止まらない。


「なんか急に怖くなった」

「なんで?」

「……わかんないけど」


 得体のしれない恐怖だった。段々と視線が落ちていき、地面を眺める睫毛が震える。こんな女々しい顔をしていたら女の子にモテないんだろうなあ、と他人事のように思った。すると、ヒイロが仕方なさそうに口を開く。


「オレ馬鹿だからわかんねーけど……お前はお前のしたいようにしろよ。そんで、面白可笑しく生きようぜ」

「それが出来たら苦労しねーんだよ……」

「馬ー鹿。“苦労”するときはオレも手ェ貸すっつってんだよ」


 思わずフッと笑う。


「クッソ! イケメンなこと言いやがって!」

「ッハ、どうだ、悔しかったらお前も真似してみろよ」

「うるせー!!」


 湧き上がってきた怒りに拳を震わせる。このヒイロという男はいつもこうなのだ。顔面こそ上の下だが、絶妙なときに絶妙な対応をして見せる上、実家が金持ちときた。そりゃあ女の子にすこぶるモテるのも頷ける話である。そしてそれは今に始まったことではない。出会ってすぐのときから、その片鱗は見えていた。

 そう、あれは俺が今世で初の恋心を抱いた頃のことだ。その子は栞ちゃんといった。高嶺の花とまではいかないけれど、他の子よりもどこか大人びていて、精神年齢と実年齢の差で右往左往していた俺にもよくしてくれる、とても良い子だった。そんな子と俺は宿泊体験学習のベッドの中で話をしていた。小学生女子だから、当然話題は次々移り変わり、夜が深まったときには恋バナが始まっていた。当時の俺は自分の話は出来る限り避けるようにしていたから、自然と話の中心は彼女になる。彼女は少し頬を赤らめて言った。


──イバラちゃんって彼氏いるの?


 言い忘れていたが、俺の名前は楼門ろうもんいばらという。

 当時の俺はどぎまぎしながら「いないけど……?」と若干の期待感を隠しきれない尻上がりなイントネーションで答えた。すると、なんと彼女はパアッと顔を輝かせたのだ。


──良かったぁ!


 これには俺も、ワンチャンあるか……? と思った。しかしそう事が上手くいくはずもない。彼女ははにかみながら続けた。


──わたしね、あのね、ヒーロちゃんのことが好きなんだけどね……


 脳が破壊された。もちろん精神年齢が上の者として「そっか。応援してる!」とにっこりしてみせたが、心は泣いていた。それから彼女に恋心を向けることこそなくなったが、ヒイロは俺の中で常に恋敵的な立ち位置にいる。記念すべき初恋だ、失恋することすら出来なかったなんて、俺でなくても引き摺ると思う。

 狭い歩道から駅前の大通りの広々とした道に移り、少しの余裕を持って横並びになると、ヒイロは少し歩調を緩める。そのことに悔しさを感じながら、俺は「あーあ」と嘆いた。


「お前はいいよな……女の子に好かれてさ……」

「またその話かよ」

「だって、だってさあ……!」


 俺は約一%しかいないといわれるレズビアンの中の、俺でもいいよと言ってくれる人を探さなけりゃいけないというのに、ヒイロときたら実質選び放題だ。もはや前世の俺にすら嫉妬する。どうして男に生まれなかったのだろう。そして、どうしてせめて美少女にしてくれなかった? もしそうだったら、バリタチとしてキメにキメて女の子とイチャコラ出来たのに。


「告白すらされたことねーけどな」

「うっせ彼女持ち!!」


 イーッと威嚇し、俺は立ち止まる。いくら悩んでも仕方がない。どうせ俺は俺なのだ。俺のままで女の子と恋に落ちるための道を模索するしかあるまい。


「……よし、決めた! 俺は女の子とイチャイチャするために生きる!」

「おー頑張れ頑張れ」

「そのために!」


 ヒイロが胡乱げに目を眇める。俺は光芒の差す赤信号の前で、こう言い切った。


「誰よりも男心のわかる女になってガッポガッポ稼いでやるぞー!!!」

「どうしてそうなった!?」

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