かなうのはメガネだけではない

とは

かなうのはメガネだけではない

 打木うちき希美きみは、常務から叱責しっせきされていた。

 そう、それは先日の事件にさかのぼる。


 カラーボール騒動の後、会社に戻ってみれば、伊地いじがわは打ち合わせの途中で体調不良になり早退したという。

 一連の出来事は、あえて語るものではない。

 そう判断し、何事もなかったように希美は業務をこなす。

 翌日には伊地川から、「しばらく休みたい」と連絡があり、それから数日が経過していた。


 もしやあのボールの悪臭で、体調を本当に崩したのだろうか。

 休みが続いたことで心配したが、それは杞憂きゆうだった。

 相変わらず、伊地川のとりまきからの嫌がらせは続いている。

 彼女達からの、「あんたをつぶせって言われているから」という言葉を聞くに、伊地川には体調も態度も全く変化がなかったようだ。


 伊地川との対立が噂になっているようで、最近は周囲から視線を感じるようになってきている。

 特に人事部長からは、言葉はかけられないものの、監視するような行動が見受けられるようになってきた。

 時を同じくして、希美を心配していた同期の様子も変わってきている。

 嫌がらせに加担することはないものの、自分と業務以外での会話は全くなくなってしまっていた。

 時折見せる同期の表情に、自分への申し訳なさが垣間見える。


 謝るべきなのは、むしろ自分だ。

 何も悪いことをしていない、彼女を巻き込んでしまったのだから。

 これ以上、他の人に迷惑をかけないようにしよう。

 その考えもあり、最近は一人で過ごす時間が増えてきた。

 仕事においては、とりまき以外は以前と変わらず接してくれているので、それほど困ることはない。

 

「ただ、ちょっと寂しいだけだもん。でも私は間違ってない、……ですよね?」


 ポケットにある名刺に触れながら、希美は思わずそう呟いていた。

 


◇◇◇◇◇



 伊地川が出社してきたのは、それから一週間後のことだった。

 普段の派手なメイクとは真逆の薄化粧。

 コンタクトではなく、メガネ姿で現れた彼女は、心なしかやつれたように映る。

 とりまき達が心配そうに彼女へと話しかけるのを眺めながら、希美は仕事を続けていた。

 

 人目のある社内で、あからさまな行動に出ることはない。

 そう油断していたと言われればその通りだ。

 トイレに行こうと廊下に出たところで、伊地川達がいるのが目に入る。

 引き返すのも不自然だ。

 やむなく彼女達の方へと歩き出せば、相手もこちらへ向かってくるではないか。

 自分から通路の隅へと寄ったところで、どんと衝撃を受け、たまらず尻もちをついてしまう。

 見上げた先では、伊地川が冷ややかな笑みを浮かべていた。

 彼女は掛けていたメガネを外すと、そのまま床へと落とす。

 かしゃんと音が聞こえると同時に、彼女は「いやぁ、どうして!」と叫び、その場にしゃがみこんだ。


 何事かと集まってくる人達に対し、とりまき達が「打木さんが突然、伊地川さんを突き飛ばしたんです」と聞かれてもいないのに説明を始めていく。

 では、なぜ希美が座り込んでいるというのだ。

 そう周囲の人から聞かれれば、とりまきの一人が「彼女の態度が許せなくて、つい同じようにしてしまったんです!」と抗議をしている。

 さらには、以前から希美が伊地川に嫌がらせをしていた。

 だから彼女は仕事を休まざるを得なかったのだと、声高に話しているのが聞こえてくる。


 目撃者はいない。

 このままでは、彼女達の言葉が真実になってしまう。

 なんとかせねばと考える希美の耳に「何をしている!」という男性の声が響き、場が一気に静まり返った。

 険しい顔をした人事部長が、自分達の方へとやってくる。

 彼は、希美と伊地川へ視線を向けると口を開いた。


「それぞれに別室にて話を聞かせてもらう。それ以外の者は業務に戻るように」

 


◇◇◇◇◇



 入室を認める声を聞き、希美は扉を開く。

 部屋にいるのは、常務と人事部長の二人とそして。


「あぁ、打木さん。どうしてあんなひどいことを私にしたの?」


 実に白々しく語る伊地川が待機していた。


「打木君。この子から聞いた話では、君が執拗ないじめを繰り返していたということだが」


 常務が、怒りをたたえた表情で問うてくる。

 かわいい姪を傷つけた者を許せない。

 口には出さないが、そういう事なのだろう。


「誤解です。私は伊地川さんに……」

「お前の話など必要ない! まずは今までの行動を詫びるのが先だろうが!」


 言い分は認めない。

 その態度を崩さぬ常務の様子に、希美は一つの結論を出す。


「……こちらの話は聞いていただけない。でしたらもう、何も語ることはありません。私は、この会社を辞めます」

「そんなのだめよ、打木さん! 私はあなたが過ちを認めてくれれば、それだけでいいのに!」


 顔を覆いながら話す伊地川の肩に、常務が優しく手を置く。


「打木本人の希望だ。いじめられた君が、そんなに悲しむことではないよ。休み明けに大変だったね。気分が落ち着かないなら、このまま帰っても……」

「いいえ、そういう訳にはいきません」


 部屋に響いた声に、常務は人事部長へと顔を向ける。


岸谷きしたに君? 何を言っているんだ」


 常務の言葉を遮るように、岸谷は希美に鋭い視線を向ける。


「逃げ得のようなことは、私は許したくないのですよ」


 一転し、柔らかな表情を伊地川へと向けながら岸谷は問いかける。


「伊地川さん、あなたが早退した日のことを聞かせてください。打ち合わせ中に体調不良になった。そう聞いていますが」

「はい、その通りです岸谷部長。いろいろ辛いことがあって、心も体も疲れてしまっていたものですから」


 この部屋にはもう、希美の味方などいない。

 そう察した伊地川が答える。


「それは大変でしたね。勤怠記録を見る限りでは、16時ごろに退社をしている。これは間違いないのかな?」

「えぇ、打ち合わせをしていた同僚にもらった頭痛薬を飲んで帰りましたから。次に飲めるのは6時間後の22時過ぎだな。そう思っていたのでよく覚えています」

「なるほど。それならば確かに記憶に残ることでしょう。でしたら……」


 岸谷は自分のスマホを操作すると、画面を伊地川へと向けていく。


「これは、その日の15時ごろに投稿された動画です。ここに映っているのが、私には君と打木君に見えるんだけど?」


 希美にも見えるようにと、岸谷が机にスマホを置く。

 そこには希美と、オレンジ色の塗料を足元に付けられ、わめいている伊地川の姿が映っていた。


「SNSにこの動画が投稿されていたらしいんだ。『街中で、この二人は喧嘩をしていた。ここの会社の社員ではないか』。動画と共にそういった問い合わせが送られて来ていてね。まぁ、二人とも我が社の制服を着ているからその通りです、と返事をするしかないわけだが」


 岸谷の言葉に、伊地川は真っ青な顔になっていく。


「この動画がSNSに投稿された時間に、打ち合わせをしているはずの君が、どうして外にいるんだろうね。伊地川君、説明してくれないか?」

「あっ、あのこれは……」


 震え声で何かを話そうとするものの、言葉が出ない様子で伊地川はうつむく。

 おもむろに彼女は口元を押さえると、「気持ちが悪いので退席します」と叫び、部屋から出ていってしまった。

 残された常務は、何とも言えない顔で黙りこんでいる。

 やがて、急用を思い出したと言い、同じく部屋から去っていった。

 嵐のような出来事に呆然としている希美に、岸谷は「さて」と声を掛けてくる。


「伊地川君の処分は、じき行われるだろう。君から何か言いたいことがあれば、今のうちに聞いておきたいのだが」

「特にはありません。私はこの会社を出ていく立場ですから」


 希美の返事に、岸谷は考え込む様子を見せる。


「言い方は悪いが、君が罠にはめられたということは理解しているつもりだ。退職する必要はないと私は考えるが」

「いいえ。問い合わせがあったことで、私は会社に損害を与えています。その責任を取るためでもありますし」

「この会社に愛想をつかした、ということかな?」


 あいまいな笑みを浮かべ、希美は答えていく。


「そうですね。岸谷部長のような、優しい方もいるのは分かっているのですが。……それにしてもどうして、私を助けてくれたのですか? 常務に逆らうことにもなるというのに」

「まぁね、でもこのまま放置する。それにより優秀な人材が、たった一人の我儘によって次々と辞めさせられてしまう。その損害はあまりに大きいということ。そして」


 岸谷は、小さく笑いながら目を閉じる。


「取引先であり、君の恋人でもある元木もときさんがね。私に直談判してきたよ」


 予想外に直人なおとの名前を出され、希美は動揺する。


「えっ! いつの間にそんなことが」

「彼から、『プライベートで話をさせて欲しい』と言われて、一緒に食事をさせてもらったよ。君には大学の先輩と飲みに行くと言っていたようだね」

「たしかに少し前に、そんな日がありました。でもそんなことになっていたなんて」


 驚く希美に岸谷は直人からだけではなく、社内からも彼らの横暴に声があげられていたこと。

 以前より常務を快く思っていない『上の方々』からの了承もあり、今回のことに踏み切ったのだという。


「さらに先日、匿名で届いた例の動画。あれが決定打になった。常務の周辺は騒がしくなるだろうねぇ」


 彼の口調は心なしか楽しそうだ。


「岸谷部長、その動画ですが出所と言いますか、誰が送ってきたかは……」


 希美の言葉に、岸谷は意外そうな表情を見せる。


「私は分からない。てっきり君が送ってきたかと思っていたんだが」

「……そうですか。まだ、片付けねばならないこともありますので失礼いたします」


 部屋を退出し、希美は呟く。


「……また、助けてもらっちゃったなぁ」



◇◇◇◇◇



「じゃあ、行ってきます」


 パンプスを履いた希美は、直人へと振り返る。


「面接、いよいよだね。今日は寒いから手袋も忘れずにね」

「うん、ありがとう。私、精一杯頑張ってくるから!」


 希美の緊張した顔を見て、直人は穏やかに笑いながら口を開く。


「あれだけ大変だったんだ。もう少しゆっくりしてから、仕事を探してもいいんだよ」

「ふふ、ありがとう。でもこの求人が、なんだかすごく気になっちゃって」

「派遣だっけ? 単発でいろいろな仕事をするなんて変わっているね」

「うん。そういうお仕事なら、色々と学ぶことも多そうだから楽しそうだなぁって」


 彼との会話に、心がほぐれるのを感じ希美も微笑む。


「あ、さすがにそろそろ行かなきゃ」

「本当だ、気を付けてね」

「うん、応援ありがとう!」


 とっておきの笑顔をみせ、希美は駆け出していく。


「うまく行きますように!」


 温かな直人の声が、希美の背中をぐっと押してくれた。



◇◇◇◇◇



「面接場所は喫茶店なんだ。えっと『店の一番奥のテーブル席でお待ちしています』かぁ。面接が終わったら、ケーキとか食べちゃってもいいかなぁ? って違う違う!」


 こんなうわついた態度ではいけない。

 気持ちを切り替えると、希美は扉へと手を伸ばした。

 軽やかに入店を知らせるベルが鳴り、店員が笑顔で自分を迎え入れる。

 待ち合わせだと伝え、一番奥のテーブル席へと視線を向けた希美の表情が、驚きに変わっていく。

 信じられないほどの緊張を抱えつつ、一歩、また一歩と相手へ近づいていく。


「失礼します。面接をお願いしておりました、打木希美です」

「よろしくお願い致します。本日、担当いたします……」


 相手が名刺を取り出そうとするのを、にこりと笑いながら制する。

 今の自分に、きちんと声は出せるだろうか。

 ポケットへと手を伸ばせば、ずっと勇気をくれていた小さな紙が指に触れる。

 いつも御守りにしていた名刺を取り出すと、相手は「まぁ」と呟き、笑顔をみせた。


 伝えたいこと、叶えられたこと。

 それらの思いがあふれ出し、言葉にならず、代わりとばかりに涙が次々とこぼれ出していく。

 手の甲で涙をぬぐい、まっすぐに相手を見つめると、希美は口を開いた。


「もう名刺はいただいておりますから。改めて本日はよろしくお願い致します。……真加瀬まかせさん」

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