第17話
社会人の朝は早すぎると思う。どうしてみんな、もう少し寝たいと思わないのだろう。みんなが寝れば、それだけ起きる時間を遅くすればいい。ウィンウィンじゃないのか。
そう考えてしまうのは通勤の電車のなかが退屈だったからだ。音楽を聞くにせよ、ソシャゲをやるにせよ、毎日があまりに同じことの繰り返しで退屈だった。
それに電車のなかは人が多い。車で出勤すればいいのに、と思いながらも僕はまだ車を買っていない。さすがにカッコ悪いとは思っている。
フジタニザカ株式会社。そこが僕の勤める会社だ。
新卒で採用されてまだ半年しか経っていない。就職活動はまったく楽ではなく面接まで行った会社だけでも二十社を超えた。最初に内定のもらえたのがこの会社だ。
この会社、フジタニザカという妙に言いにくい会社のことを、僕は今まで知らなかった。知ったのは就活サイトに登録していたからだ。
会社は駅から徒歩十五分ほど歩いた商業ビルの三階にある。関東、名古屋、関西に支社があり、僕の勤める関西支社には二十人ほど人がいた。
「おはようございます」
タイムカードを切る。八時四十六分。
十五分刻みで計測されるため五十九分までには切らなければいけない。ただこの会社でギリギリにタイムカードを切ることを許していない。
四十六分は普通。五十分は遅い。五十五分は遅すぎる。僕はいつも普通にタイムカードを切っている。ちなみに二十人ほどいる社員全員、五十分よりまえにタイムカードを切っているし、いつからいるのか分からない人のほうが多い。
男子更衣室にあるロッカーに荷物を置き、スーツのネクタイの曲がり具合を鏡で確認してから、全員が揃う執務室に行く。
太陽の光を背に窓際に立っているのは、この支社の
「朝礼をしますよ。みなさん集まってください」
そう言われるまでもなく、当然のごとく全員集まっている。眠たそうな人は誰一人としていない。みんな歴戦の勇者のように毅然とした態度でここに立っていた。
「今日は十月十日です。この日はかつて演歌歌手の──……演歌界は盛り上がりを見せていましたが、それだけではありませんでした。今の若い人たちは演歌の文脈が形を変え、今日も生きているとは知らないと思います。新人の田口くんならなおさらでしょう。そもそも──……それでは本日のラジオ体操に移ります」
長く記憶にも残らず耳にも入りにくい支社長の言葉がおわるとラジオ体操に移る。社長の頭上にある4K42型モニターにはユーチューブに流れているラジオ体操の動画が映る。それに合わせて僕たちはラジオ体操をする。
ラジオ体操は三分だということが有名だが、第二まで合わせると六分を超える。朝の気分がシャキッとすることは間違いないが、すでに僕の目は満員電車によって醒めていた。
「じゃあ田口くん、共有ファイルに入ってるこの書類を十部印刷してまとめてもらっていい?」
僕が仕事にとりかかろうとパソコンの画面とにらめっこしようとしたとき、先輩社員の一人が声をかけてきた。
「分かりました、十分で仕上げますね」
僕がそう言うと先輩社員はそそくさとどこかへ行く。偉い人は会議が朝からあるのだろう。何の会議は知らないが。
頼まれた書類を共有ファイルの雑然と並ぶフォルダのなかから見つけだし、印刷ボタンを押す。しばらくすると両面で印刷された紙が束になっていく。僕はその束をつかみ、印刷ができているか、ページ数があっているかどうか、念のため確認しながら業務用の大きなホッチキスで止めていった。
「こっちの資料も頼むよ」
支社長自らの頼まれごとを受け取る。頼むよ、の言外にある言葉は何だろうとふと考える。資料のコピーだろうけど、何部なのか。言わないということは、見れば分かるという支社長からのメッセージだ。支社長は頼んだ仕事の再確認をかたくなに拒否するため、自分で考えながら資料をコピーする。たぶん不要だろうと思う四十部ぐらい。
結果として僕は資料を刷りすぎたため、三十部ほど捨てることになったが、それは予想の範囲内だった。壁に貼ってあるポスターに書かれてある通り、SDGsの取り組みにも協力しているため、用紙の破棄にはそれなりに神経を注ぐ。僕はバレないよう、自分の鞄のなかに入れた。
家ゴミに対して、彼女は怒るだろうが、説得すればいいはずだ。
昼になり、執務室で弁当を広げた。食堂なんていう場所はないため、社員の多くは食べに行く。僕も外食しようとしたが「お金の無駄遣いでは?」という彼女の言葉を受け、弁当を作ってもらっている。まだ結婚はしていないが、いわゆる愛妻弁当だ。
彼女の作る弁当は素直に美味しい。そして野菜が適度に入っていてバランスもいい。ご飯も昼飯ということもあり、あえて少なく入っている。「外食なんかよりすべて良いでしょ?」と本人も言うだけあって、バランスがすべて整っている。
朝早くから作ってくれることに頭が上がらない。
「入社一年目で愛妻弁当って結婚早かったんだね」
先輩の誰かが言う。嫌味かどうかの判別がつきにくい問いかけだと僕は思ったので、素直に首を横に振る。
「いえ、一緒に暮らしてるだけで、結婚はまだなんです」
「そうなんだ。まあ若いうちに色々やるのはいいことだよね」
何を、と無粋な質問はしなかったし、特に考えないようにした。
二時間残業をしたあと、更衣室に入り退勤の準備をする。社員の誰もが仕事を終えていないなか、僕はタイムカードを切って静かに退勤した。
退勤のとき、僕はたびたび映画『ジョーカー』のタイムカード破壊シーンを思い出す。ああやって退勤すると気持ちいいんだろうなと思う。訴えられることがこわいので、僕はジョーカーにはなれそうにない。まだこの会社で勤務も続けたい。
満員電車に揺られて三十分、自宅につく。
まだ関西にはいるが神戸から離れ、今は彼女とマンションで二人暮らしをしている。やや古いマンションなのでエレベーターはない。少し重たくなった足取りで五階までのぼり、玄関扉を開いた。
「おかえり」
「ただいま」
「仕事、疲れたって感じの顔つきだね」
「疲れたっていうか、つまらない仕事だったなって感じだね」
彼女、花園美咲は目を閉じる。せめて部屋に入れてくれよと思うけど、美咲が目を閉じるということはキスとハグを欲している合図だ。僕は玄関でキスとハグを彼女が満足するまでやってあげた。
「元気でた?」
「元気でたよ。ありがとう」
僕は美咲に笑顔を向けて、リビングを通り自室に入る。自室といっても実家にいたころよりも狭く、パソコンデスク、本棚、服をかけるハンガーラックがあるだけのスペースだ。
美咲とは趣味が共通しているので家から持ってきた漫画やアニメグッズは寝室に置いている。
一緒に暮らしはじめた当初、そういった共通スペースは夢のように思えた。顔を合わせたときに持ってきた漫画を交換、なんていうことはせず、好きなときに互いの漫画が読める。楽しみにしていた漫画の最新刊が出たとき、美咲も同じ日に買ってきていたので、その最新刊が二冊になったこともあった。「同じこと考えちゃうんだねー」と美咲は笑ったし、僕もさすがに笑った。
だけど忙しくなった今は最新刊の存在を忘れている。本屋に行かないしアマゾンのページも開かなくなった。SNSもほとんど見なくなったので最新刊の情報が入ってくることはなかった。刊行が続いていると思っていた漫画はすでに最終巻を出していて、同じ作者の新連載が別の場所でスタートしようとしていた。数か月前に買った漫画はまだビニールコーティングがされたままで未開封だ。積んでいたことすら忘れているし、読む気力はほとんどない。たまにそういった漫画もビニールが開封されているが、それは美咲が読むために開封している場合がほとんどだった。
まだ半年でこんな生活だ。
「今日はハンバーグ作ったよ」
部屋中にいい香りがする。美咲も働いているが、パートのため、僕よりも帰宅が早く、夕飯の調理はほとんど彼女がやっている。たまには僕も手伝うよと言うが、彼女は首を横に振って「悠斗の食べるものは私に作らせて」と言う。掃除も洗濯も、気付けばほとんど彼女が済ませてしまっている。
「ねえ」
美咲がハンバーグを食べながら言う。
「結婚いつする?」
僕は笑顔で「うーん」って考えてみるものの、正直またこの話題かと思って困惑していた。一緒に暮らして半年、この話題はもう数えるのも面倒なほど出た。
「仕事が落ち着いてからかな」
「いや、それ前も聞いたよ。落ち着く気配ないなら、だいぶ先でもいいからさ、今のうちに予定立ててよ」
「そうは思うんだけど、新入社員ということで、イレギュラーなことが多いんだ。出張で愛媛のほうまで一週間行くこととかあったし」
「前もそれ聞いた。そのうえで決めて欲しいな」
「美咲、結婚って早く決めなくちゃダメ?」
「ダメ、絶対。……とまでは言わないけど、ほら、私だってずっと若いわけじゃないし、おじいちゃん、ちょっとボケはじめてるんだよね。だからひ孫早く見せてあげたいなって」
「早く見せたい気持ちは僕にもあるけど、もうちょっとだけ待って。ホントに」
「私との生活、実は不満とかあるの?」
「ないよ、全然ない。料理も洗濯もほとんどやってもらって不満なんかないって。いま、本当に一年目だから慣れない仕事が多いんだ。ただ年末には今の仕事、一通り片付くらしいんだ。だからその時期ぐらいまでは待って。そして仕事落ち着いたらすぐ準備するから」
「本当かなー?」
「本当だよ。じゃあ決めた。二年目までは待たせない。そのときは仕事が忙しくても、絶対に結婚を優先するから」
「絶対約束守ってね。守らなかったら……」
「守らなかったら?」
「漫画のネタバレをするから」
「勘弁してくれよ」
とりあえず今回も先延ばしできたので僕は心の底から安堵した。
美咲の結婚したい意志は本心からとても尊重したい。だから早く結婚してしまいたい。ただ日々の労働が僕の判断を鈍らせ続けている。実際、家に帰ったばかりの今は疲労を覚えている。
美咲が大学を卒業して就職せずパートになったのも、結婚を前提としているからだ。産休が出来そうな会社を探しなよ、と学生時代に言った記憶がある。彼女は「ちゃんと子育てしたいから、パートだけにする」と当時から言っていた。同棲すらしていないのに、すでに子育ての話をしていて驚いた記憶がまだある。美咲はそのころから変わっていない。僕との結婚をずっと考えている。
花園美咲は反AI活動をしなくなった。
三年前に起こったアメリカでの大きな事故をきっかけに、様々な不正、事故の隠ぺいなどが明らかになりAI産業は信頼を失った。大手企業もAI事業から撤退していった。起業家もAI関連投資に対しては無関心となり、AIとのコミュニケーション、そして権利問題も同時に紛糾したため自動生成といった分野もほぼ廃れていった。いま同様のサービスが存在していたとしても、それは知らない国にサーバーを置いた違法コンテンツであり、使うことは非推奨とされている。
いま残っているまともなAIは、曖昧な言葉から本の検索を行う図書館蔵書検索AIとかだ。データセットも自前の小さなものばかりで、明らかに無害と感じるものしか用意されていない。漫画サークルも、AI補助で漫画を作ることはもうできない。
人間側の完全勝利のおかげで美咲は普通になった。そしてその多くの時間を僕との付き合いに使いはじめた。
これまで僕が美咲と距離を置き続けたことや、僕が憎いAIと恋愛していた事実など嘘のように無視された。神戸や大阪の街もたくさん一緒に歩いた。楽しい学生生活になったと今でも思う。
もちろんそれは現実世界でしか行われなかった。美咲は漫画やアニメを僕と同じように楽しんだが、唯一、VRゴーグルだけは興味を示さなかった。というより嫌な顔をした。「それを見てると、現実を忘れていたころの悠斗くんを思い出すから、なんかイヤ」と言われたことがあった。
VRゴーグルは僕の自室の机のなかにそっと閉まっている。
ただ使っていないわけではない。
就寝時間はいつも一緒と決めている。そもそも寝室が同じだからだ。寝るときはダブルベッドに二人並んで寝る。次の日がお互い休日であれば、寝るまえに抱き合ったり色々する。それは僕からのこともあるが、基本、美咲が求めてくる。仕事で疲れていても、それは関係ない。
ただ就寝時間までは学生時代とあまり変わらない自由がある。
僕は美咲に見られないよう自室の引き戸をそっと閉じた。引き戸を勝手に開けないことはこの家のルールなので、これだけで美咲に見られる心配はない。
そのことを踏まえつつ、僕は机の中からVRゴーグルを取り出した。
VRゴーグルは三年前から変わっていない。よりフィットして、高画質で、処理速度の早いモデルが出ているが、美咲のことを考えると新しいものを買おうという気にならなかった。
それにVRゴーグルは僕にとって、ユメと会うための思い出深い機械でもあった。ヴィータ・ケアがサービスを停止している今、VRゴーグルをつけてもユメと出会うことはないが、その思い出は大切にしている。
ただ僕は時々、思い出に浸るだけではなく、VRゴーグルを取り出し起動していた。
三年前と何も変わらない景色、山小屋、遊園地……。ユメと一緒にデートした場所は形を変えずそのまま残っている。VR空間は経年劣化で朽ちることはないので、当たり前といえば当たり前だ。変わっていくのは僕だけだ。
ユメが作った神戸のエリアもそのまま残っていた。神戸の街を行き交う車はあの頃のままクラクションを鳴らしたりしつつ、せわしなく動き続けている。神戸のエリアはとにかく広く、最初ユメと一緒に訪れたときには端まで歩くことはできなかった。
ただ僕はすでにこのエリアの端には到達していた。それは一昨年のことで、芦屋まで続いていた。西には新長田、新開地、西神中央。北には六甲山牧場までしっかりと作りこまれ、牧場には動く羊や牛もいた。羊たちはなでても反応はなかったが、めぇと鳴いた。本物の鳴き声をどこかで拾ってきたのだろう。
ユメがどうして膨大で精巧なエリアを作ろうと思ったのかは分からない。僕は何度もユメとデートしたが、その場所でデートすることも、ましてや存在ことも教えてもらわなかった。高性能なAIだから、自然と一瞬でそこまでエリアが出来てしまったのかもしれない。
美咲は絶対同意してくれないと思うが、こういった高性能なAIを使わない選択は、やはり社会の発展を遅くしてしまうと思う。これだけの広範囲を人の手で同じレベルにまで精巧に作ろうと思ったらどれだけ手間がかかるのか。おそらく、とんでもなく手間がかかる。ドローン空撮で作られた3DCGは世の中にたくさんあって、よく出来ているが、ユメの作った神戸の精巧さにはまだ及ばない。拡大して眺めれば、その差はすぐに分かる。
それにしても、とユメとかつて共に過ごしたラブホテルのなかで寝転がりながら僕は思う。
ユメのいない、このエリアにやはり価値はない。
僕はその価値のなさを確認するためにVRゴーグルをかけて、このエリアに来ている。価値がないことを認識して、過去と決別する。友子の写真を消したときと同じような行動をしているなと思っている。
だが何度も価値がないと確認する必要はない。分かっていることだから。
分かっていることを何度もやってしまう意味はなんだろう。
突然目頭に疲労がくる。VR空間のCGをあまり見たくないという気持ちが湧く。
とにかくユメはいない。
今の僕の相手は美咲だ。
美咲と早く結婚しよう。好きなんだから。
それにユメはもう僕のまえに現れない。現れたとしても結婚はできない。子どもも作れない。社会に認められない。
VRゴーグルを外す。
スマホには同期されたあらゆる場所のスクショがある。その中からスマホは勝手に過去の思い出としてユメと3DCGの僕とのツーショットを出してきた。
この写真を消す勇気はまだない。消すべきだということはずっと分かってる。分かっているがそれでも消せない。結婚すればユメとのことも、すべて消せるのだろうか。
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