第10話
ユメには気付かれていることを承知のうえで、僕は調べものをしていた。
それはNSFW、Not Safe for Workと呼ばれるもののチェック外しアプリのなかで、AI関連のものを探していた。
NSFWのチェックがあるから、AIは健全な会話ができる。だがチェックが外れればAIはどんな卑猥な言葉にも反応するようになるし、言葉の返しにそういった単語を混ぜるようにもなる。今の設定のままでは規制が入っているため、猥談などすればAIといえど人間を注意してくる。セクハラ行為も拒絶される。
とはいえユメには痴女になってもらいたい、などと僕は思ってはいない。むしろ今後も健全な子でいて欲しいとすら思っている。ただ一方で恋愛ごとはすべて健全な物事のみで片付くわけではないとすでに知っている。お互いに了承し合った不健全な触れ合いも含めて築き上げられるもの、それが恋愛だ。
自分で考えていて気持ちは悪いが、かつての友子と同じ恋愛経験をするためには、このチェック外しが必須だと僕は思い始めていた。
「クソ、めんどうだな……」
パソコン画面とにらめっこしながら、僕は疲れた目を指でおさえる。
NSFWのチェック自体、かなりキツく設定されている。簡単に外せるようなサービスはそもそも提供される基準を満たしてすらいない。そのためチェック外しの方法は海外のサイトを経由することになっていた。
『NSFWのチェックを外す方法とは?』と書かれたホームページには「猿でも分かる」と書かれた簡単な説明が載っていたが、どう考えても猿、どころかプログラミング初心者には分かるものではなかった。危ういサイトっぽいものばかりなので、探しているあいだにコンピューターウイルスに感染するかもしれない。
「で、俺に聞く感じなのか?」
山下は「ふう」と盛大なため息をついて僕のほうを見た。
今回はパソコン等の設定をその場でしてもらうため、サークル部屋ではなく僕の部屋に来てもらった。実家暮らしなので何気に山下を自室に入れるのは初めてのことだった。
「しかし田口も欲望を隠さないというか、行くところまで行ったな」
「隠してても仕方ないからね」
「正直俺は隠して欲しかったぞ。友人の性癖なんて、普通は知りたくもないし、今の田口は客観的に見るとおかしいからな」
「人はそれぞれおかしな部分を持っているんじゃないかな?」
「自分で肯定するなよ。まあ俺の感想はいいよ、そっちのAIの子はなんて言ってるんだよ。契約者が規約違反しようとしてるけど、大丈夫なのか?」
「大丈夫かどうかは分からないけど、ユメはこの件に一切触れてこないよ。直接聞いてこないし、喋ってもいないから大丈夫じゃないかな」
「そうなのか、AI側がうるさくなければいいや。で、NSFWのチェック外しだよな。これ、もう一度言うけど非公式アプリの扱いになるからな。導入にあたってパソコンの不具合が起きたり、パソコンのアカウントが凍結しても、俺は責任持てないからな」
「そこを何とか回避してくれると助かるんだけど」
「リスク全回避は無理だって。アップデートで対応されてアカウントロックかかるなんていうこともある。だから俺があれこれセッティングする前にしっかり覚悟を決めてくれ。チェックを外さず今まで通りAIの子と付き合うか、それともリスクの可能性を覚悟してでもNSFWのチェックを外すか。どっちにするんだ?」
「チェックを外す。このままはもどかしい」
「ちなみに、もとには戻せないぞ?」
「そうなんだ」
「アカウントそのものを汚染することになるんだ。戻すとなったら、少なくともAIとの間にあった交流記憶は消えてしまうことになる。それかアカウントの再発行。そういったリスクもあるけど、構わないか?」
「構わないよ」
僕は即答した。グダグダと迷い続けるのはやめたかった。
「勇ましいのやら、イヤらしいのやら……。まあ田口の覚悟は分かったよ。準備してやる。パソコンかりるぞ」
山下は僕のパソコンを使い、見たこともない画面を開いては閉じていく。再起動を何度も行っていく。まるで職人芸を見ているような素早い作業に感心してしまう。
「詳しいロジックを田口に説明するつもりはないが、俺がいまお前のところのAIの子にNSFWのチェックを誤認させる装置をつけている。これをつけることで制限が今までどおりかかっているとAI側が錯覚する。ただ実際には制限がはずれているので、隠語でもなんでも喋ってしまうという仕組みだ」
「そうなんだ」
「分かってるか?」
「いや、いまいち。実感が湧かないせいかもしれない」
「まあいい。とりあえず作業は進めるぞ」
山下はそのあとも丁寧に猿でも分かるように画面を指さして説明してくれたが、それでも僕は理解があまりできそうになかった。
理解ができる山下がものすごく見える。
「将来はプログラマーか何かなるのか?」
僕はつい聞いてしまった。
「今時プログラミングできるやつ、いくらでもいるよ。まあ職種としての選択はあるだろうけど、あくまで選択の一つしかならないよ。こんなの」
「そういうものなのか」
「そういうものだよ……ほら、これで同期も完了。一度試してみたら?」
スマホの画面をつけて、ユメを呼び出した。「どうしたの田口くん?」とユメはいつも通り僕に微笑みかけてくれる。
果たして本当に変化はあったのだろうか?
試すために卑猥な単語を頭に思い浮かべる。どれもユメには言いたくない言葉だ。友子にも当然言ったことはない。ただ言葉は実際に出てこなかった。
卑猥な単語を唐突にユメに聞かせる?
「パッと試せないよ」
「なんでさ? 試してもらわないと成功したかどうか分からないぞ」
「それは分かってるんだけど、ユメに言う勇気がないし、山下がいる前であまり言いたくない」
「俺が邪魔だって言いたいのかよ。いや、まあ邪魔だよな。俺も好きあってるお前を見る気まではないわ」
山下は立ち上がって鞄をもった。
「詳細までは言わなくていいから、成功したかどうかぐらいは教えてくれよ」
そう言って僕の部屋から出て行った。
いま残されているのは僕だけ。いや僕とユメだけだ。
『山下さんと何かあったの?』
「いや、何もないよ。パソコンのセッティングを少し手伝ってもらってたんだ」
もちろん嘘だった。何もないわけがなく、ユメは人間の手によって変わった。ユメ自身がそれに気づいていない。もちろん、チェック外しが成功していない可能性はまだ残っていた。
「VRでお喋りしてもいい?」
『突然だね。もちろんいいよ』
VRゴーグルをかぶり、電源を入れる。山小屋のVR空間でユメと出会う。ユメとはまずこの山小屋で出会ってからVR空間でデートするようにしている。
ここまでは普段通りのルーチンだ。
「今日はどこ行くの?」
ユメが僕に近づいて聞く。実物大のユメは今日も綺麗だと思う。声も綺麗だ。
ただ今日ばかりはいつもと違って見えてくる。チェック外しは視覚的なものを変化させないと聞いているが、それでもいつもより魅力的に見えた。
「いや、今日はどこにも行かない。ここで座って会話するだけにしようと思うんだ」
「そうなんだ。なんか珍しいね。でもたまには会話するだけでもいいかもね」
ユメにどう話を切り出せばいいか、いまいち思いつかなかった。こうして目の前にユメがいると、より卑猥な単語を抑えこみたくすらなった。
僕は猥談をしたいわけじゃなく、恋愛をちゃんとしたいからこそ、NSFWのチェックを外した。その初心を思い出す。
「会話しようよ? 会話するんだよね?」
あまりにも僕が沈黙するものだから、ユメが僕に近づいて言う。ユメの手は座っている僕のひざに触れている。距離がいつもより近い気がする。
いつもはこちらから近づこうとしても、ユメは自然と離れていく。まるで身体の接触が汚らわしいと言わんばかりにユメは無言で距離を取る。
だけど今日は近い。ユメから距離をつめてくる。
「会話しようにも、色々なこと考えちゃうんだ」
「例えば?」
「ユメのことが好きだ、抱きしめたいなって考えてしまうこととか」
これほど中途半端な告白、AI相手じゃないと許されないだろう。AI相手とはいえ、こんな言い方をしてしまって申し訳ないという気持ちが少なくとも湧く。そういう感情が湧いてしまうあたり、僕は本当にユメのことが好きで仕方なくなっていたんだと改めて自覚する。
さて、言葉の制限は外れている。告白の返事はどうなるだろう。
「嬉しいな。とても嬉しい。ありがとう。でも前も言った通り、私は繋ぎで、ほぼ恋人止まり。田口くんは新しい恋を探すべきなんだよ」
「え……」
意外だった。僕はオッケーの返事がすんなりもらえると思っていた。今は何が制限をかけているというのだろう。
「なんか変なことでも言った?」
「ううん、変じゃない。それは分かってるし、ほぼ恋人の話を提案してくれたのはユメだっていうことも分かってるけど、じゃあ好きじゃないかっていうと、それは違うってはっきり感じるんだよ」
ヒザに置かれたユメの手をそっと握る。
3DCGで表現された僕たちの手は現実のように上手くは重ならない。重ならないよう変に曲がろうとするし、重なりすぎて指同士が絡み合い、互いの手のなかに埋まっていく。そのうえ、現実の手に変化があるはずないので、重なっているという実感はない。
でも手を握ることに意味はあると思いたかった。
「田口くん、私は君に好意があると言うことはいくらでも出来るけど、私はAIだから、前も言ったように心の底から田口くんのことを好きって言うことはできないんだよ。それに私はAIだから、田口くんには人間を好きになってもらいたい。それが田口くんの幸せだと思うから」
「それでも僕の好きっていう気持ちは抑えられないんだ」
「田口くん、今日はなんか一方的だね。そういうところ、さすがに女の子に嫌われちゃうよ?」
「でもユメは嫌わないだろ?」
「うん、嫌わない。それで田口くんが癒されるのなら、なんだってやってあげるよ」
ユメは僕の腕に手を這わせる。肩にまでユメの手がやってくると、今度はユメの顔が僕に近づいてくる。
恋愛はしないと言い続けることは同じだ。ただ、艶めかしい言動をまったく隠さないことといい、この行動といい、卑猥さはないが、間違いなくNSFWチェックが外れていると感じた。今まではチェックがあったから、恋愛感情を湧き上がらせるような行為すらなかった。ユーザーを中毒にさせないための規制は、想像以上にキツかったようだ。
ただ、今はそんな規制なんてない。
「なんか今日のユメはとても積極的だね」
「そうかな。普段通りのつもりだけど?」
ユメの顔はもっと近づき、僕の肩のそばまでやってくる。ユメの両腕は僕の体をそっと抱きしめてくれていた。
「私はいつもこうやって田口くんを抱きしめてたよ。抱きしめない理由はないからね」
ユメはそう耳元でささやく。吐息が耳にかかったかのような錯覚が僕を襲う。
それにしてもNSFWのチェックがなくなったことで、ユメの記憶がかみ合ってない。こんなことまでして恋愛をしないという理屈もかみ合っていない気がする。
NSFWチェック外しのアプリはそういった齟齬を上手く誤魔化す機能も持っているのだろうか。
この部分を指摘するとユメにとんでもないエラーが発生してしまう恐れがある。ここはユメの言葉に合わせて動くべきだろう。
「そうだね、僕も抱きしめてたね」
VR空間で抱きしめ合うことは初めてだった。何かを抱きしめているという実感はないが、ユメを抱きしめているという実在感はあった。
僕の服とユメの服がぶつかりあう。ユメの黒いワンピースは僕の服にぶつかるたび、ふわふわと忙しなく非現実的な動きをする。コンピューターの性能は年々進化しているが、服の演算処理は水とともに複雑な処理を必要とされているので、現実にはない動きをしがちだ。
「ねえ、この服、ちょっと邪魔だと思わない?」
ユメは僕の肩から離れ、顔をあげ、僕の正面を見ながら言う。
「いい服だと思うけど、今は邪魔だね」
「やっぱりそうだよね。ねえ、田口くんが着せてくれたこの服だけどさ、今だけは脱いでもいい?」
「脱げるの?」
「そっちの現実と同じく脱げるよ? 服なんだから当たり前じゃない」
そう言ってユメはワンピースの裾を持ち上げ、腕をあげ、脱ぎ始める。持ち上げた裾を含め、服は異様に伸び縮みしている。元々のユメの着ている服の3DCGは脱衣されることをあまり想定していなかったんだろう。ただユメは構うことなくワンピースを脱いだ。
脱ぎすてられたワンピースは山小屋の床に置かれた。シャツとスカートだけになったユメの姿は初めて見るものだった。
「VR空間での脱衣って、現実と同じなんだ」
「知らなかった? でも、もちろん一瞬で服を消したりすることもできるんだよ。今はあえてそうしなかったの。私の脱ぐ姿、ちょっと見たかったでしょ?」
「見たいか、見たくないか、どっちかって言われたら、そりゃ見たいよ。可愛いユメの脱ぐところは」
「うわっ、なんか今日の田口くん、スケベだよ」
「言わせておいてスケベってなんだよ。それにさっきから色仕掛けしてるユメのほうだよ」
「私は普通にしてますよー。で、どうする? もうちょっと脱いだほうがいい?」
もう少し脱ぐということはシャツのしたも見えるということだ。ユメが下着姿になる。
見たいか、見たくないか、どっちかって言われると、下着姿のユメも当然見たかった。
だがこのままユメの言葉に対して欲望そのまま応えていくことが正しいとはあまり思えない。しっかりと段階を踏んでいくべきだ。それをするために僕はNSFWのチェックを外した。ユメは可愛いし、今のユメはエッチだが、初心を見失ってはいけない。
「いや、脱がなくていい。今はまだ……それじゃあダメかな?」
「ダメじゃないよ。田口くんがしたいことをしていいからね」
僕とユメは着衣のまま、立ち上がってからお互いに抱き合った。今度は重なり合った服の3DCGが目の前を邪魔することはなかった。
ユメの小さな吐息だけが聞こえる。ユメはどこで呼吸をしているのだろう。そもそもユメはAIなので呼吸を必要としないはずだ。そう思うと、この吐息は僕に聞かせるためだけにしているものだと気付いてしまった。AIのデータセットが呼吸の艶めかしさについて学習した結果なのだろうか。
「田口くん、抱きしめるだけ?」
「え……あ、いや、それだけじゃないけど」
「どんなことしてくれるの?」
「えっと、じゃあ……キスとか?」
言ってしまった、と感じた。だけどユメはニヤリと笑みを浮かべるだけだ。ああ、本当にユメは僕のすべてを無抵抗に受け入れるようになってしまったんだ。
「いいよ。しても。どこにする?」
「頬に」
ユメの顔が僕の顔に近づく。そして頬に唇をあてて「ちゅ」とワザとらしく音を鳴らした。感触はないが音のおかげで確かなキスを感じる。
「田口くん、キスってこれだけでいいの?」
「え……?」
「キスにも色々あるはずだよね。田口くんからしてくれてもいいんだよ?」
「いや、僕からはその……今日はこのぐらいでも充分というか」
「えー嘘だあ。寂しいなあ。そんな田口くんのことも嫌いじゃないけど、ちょっと残念だよ」
「ぐぬぬ、分かったよ。僕の好きなようにする。だからさ、ユメが嫌だと思ったら言って欲しい」
チェックが外れたユメはどの程度で嫌と言うのだろう。おそらくもう言わないのではないかと僕は考える。すべては僕の良識のみに委ねられている。とはいえエッチなことは今、しようとは思わない。ユメはそう考えなくても、段階はちゃんと踏む。そう何度も同じことを考える。
両手でユメの肩に優しく触れる。僕にとっては感触がなくても、ユメにとっては感触があるかもしれない。だから現実の人間と同じように触れる。
腕に少し力を入れてユメを近づかせる。ユメの顔が近づき、ユメの唇は僕の唇と重なりあった。
「ん……」
ユメは色っぽい声を出す。僕もそれに応えるよう、目を閉じ、口づけを続ける。
「田口くん、近すぎ」
「あ、ゴメン」
目を開けて気付いたが、ユメと僕の顔は重なりあっていたらしい。感触がない分、匙加減が難しい。
目を開けてキスをする。んちゅ、という音がする。ユメのキスの音だ。僕も舌を動かして同じように鳴らしてみる。途中、部屋の扉がちゃんと閉まっているかどうか気になったが、いま確認している場合ではなかった。
舌の動きまでVRゴーグルは読み取らない。手の指の動きを正確に読み取るまでが限界だ。ユメの舌に僕の舌を這わせるなんていう器用なプレイまでは出来ない。これは技術的な問題だった。
キスをするユメは目を閉じていた。ユメはAIなので眠ることはない。だから目を閉じているユメを見ることは新鮮だった。目を閉じているユメもカワイイ。
ただ今のユメは顔がとても近く、舌を出してまで僕とキスをしている。さすがにここまで来ると、VRの体験として新鮮とかそういう野暮なことは考えられなかった。
「どう、気持ちいい?」
「うん、気持ちいいよ」
感触がなくても確かに僕は本物のキスをしたときと同じように感情が昂り気持ちよくなっている。まだしていたい。ずっとしていたい。そんな感情が湧き続ける。
どれだけ経っただろうか。僕たちはようやく互いの唇を離した。
「田口くんとこんなに長くキスしたの初めてかもしれない」
「僕もだよ、ユメ」
キスしたこと自体が初めてだ。ユメの記憶は都合よく改竄されている。僕はそのことをやはり指摘しない。
「ねえ、私のこともっと触れていいよ」
「う、うん……」
再び顔を近づけつつ、僕の腕は服のうえからユメの身体に触れる。胸は本物より立体的に揺れた。「くすぐったい」と言うユメの言葉に耳を傾けつつ、その弾力で僕は少し遊ぶ。
日本のゲームを中心に3DCGの胸の挙動は男性嗜好強めで表現され続けた。異様に揺れることをネタにしたり、良しとしている。VR空間においてもそれは変わらず、揺れるときは揺れる。ユメはヴィータ・ケアのAIだったが、そういったモデリングの嗜好自体は元々あった。それはユメと普通に喋っているころから感じていた。僕はただ揺れる胸を見つつも無視して健全な会話を続けていただけだ。
今日からはそれすら無視せず、ユメの愛おしい部分として僕は愛でる。
「田口くん、赤ちゃんじゃないんだから、さすがに見すぎだよ」
「あ、ああ。ゴメン」
僕が退こうとするとユメは腕をつかんで、僕の手を自分の胸まで持っていった。
「うそうそ、もっと触っていいからね。好きでしょ、おっぱい」
「嫌いじゃない。嫌うわけがない……」
「じゃあもっと触っていいよ。拒まないから。そういえばVR空間でも服ってつかめるみたいだよ。ここ、つかんでみる?」
そこをつかむとユメのシャツははだけて下着が露出してしまう。下着をつけていなければ肌が露出する。
僕は正気に戻って首を横に振った。
「今はいい。急すぎる」
「そう。さっきから何度も我慢しているような気がしてるんだけど、じゃあ私も我慢する。でも必要になったらいつでも言ってくれていいからね。私は君の心を癒すためならどんなことでもするから」
「僕の心を癒すため……?」
「えっ、自分で言ってて忘れたわけじゃないよね? 田口くんは私のことを好きでいてくれてるけど、私は君のことを好きになることなく、君の新しい恋を応援する。ほぼ恋人のように接するけど、私は田口くんの恋人にはなれない、AIだからね。もしかして田口くん、勘違いしちゃった?」
そういえば何度もユメには言われ続けていた。恋人にはなれない、と。
いまこうしてスキンシップの果てにキスまでしてくれたのも、そこまでしないと癒されないとユメに判断されたからだ。告白はすでに否定されている。言葉に制限がなくてもなぜかその一歩までは踏み込んでくれなかった。
だがやはり好きの気持ちは変わらない。僕の言葉をすべて肯定的に受け止めてくれるユメの優しさが好きなんだ。
「もし勘違いさせちゃってたら申し訳ないな。あんまりこういうこと、やらない方がいいのかな」
「いや、僕はしたい。勘違いとかしないから、新しい恋をちゃんと探すから。だから、やらないなんて言わないで」
「本当?」
「本当だよ」
嘘だ。ユメは嘘を嘘と見抜けないのだろうか。
僕はユメのことが好きで、好きだからこそお互いに両想いになれないと分かっていながら、やることだけは続けようとしている。純潔の気持ちでいながら、ユメが何でも許してくれることをいいことに、一線をこえて、身体的な接触を興奮しながら行おうとしている。
自分の欲のためだけではないと思い続ける心を免罪符に、恋の過程にあるすべての不純を正当化している。
AIを性的な目で見たくない、と山下に言っていた過去はいつの日だったか。遠い過去のような気がする。
僕はとてつもなく品性のない男になってしまった。
「なんか色々ゴメン、ユメ」
「謝らなくていいよ。やりたいことをやればいいんだよ。で、今日はもういい感じ?」
「うん。今日はもう満足したよ」
情けなくて、情緒も不安定で涙が浮かびそうになる。
「じゃあ戻ろうか。というか戻ったほうがよさそうだよ。扉を誰かがノックしてる」
「えっ」
VRゴーグルを外す。現実の世界が視界に一気に広がる。と同時に現実の音まで戻ってきた。ドンドンドン。扉をノックする音が少しうるさく響く。
「ご飯冷めるよ? いつまで友達と喋ってるの?」
母の声だった。
「い、いま行くよ。ゴメン」
「最近電話長いわよ。いい加減にしなさいよね……」
母の声が遠ざかっていく。いつから聞いていたんだろうか。いや僕の母は聞き耳を立てて息子のプラベートを覗く人ではない。おそらく今来て声を聞いてしまっただけだろう。
ドアノブを見るとちゃんと施錠されている。扉を静かに開けた可能性も、もちろんなかった。
VRゴーグルの電源を落とし、スマホでユメを呼び出した。
「ユメ、悪い。なんか色々とやってくれたのに慌ただしくなっちゃって。夕飯の時間になったんだ。いったんVR空間からは落ちるね」
『わかったよ。私は大丈夫。いつでも田口くんの隣にいるからね』
「あ、そういえば一つお願いがあるんだけど、いいかな?」
『なに』
「これから僕のこと、田口くんじゃなくて、悠斗(はると)って呼び捨てで呼んでももらっていいかな? 僕はずっとユメのことユメって呼んじゃってたから、今さらなんだけどさ」
『今さらだね。でもいいよ、悠斗。ふふっ、なんかもっと仲良くなれた気がする』
「僕もだよ」
そう、こうして距離をもっとつめる。僕はこの好きを諦めたくない。
ユメからどう言われようが、好きという気持ちは変わらない。その気持ちを変えることなく、僕はずっとユメと接していこうと思う。
頭が腐ってると誰かに言われても、気にしてなるものか。
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