第6話
準備をするといっても水族館までのルートを地図で眺めることも、電車に乗ることもない。VR空間は選んだエリアにすぐワープできる。
僕は水族館エリアを選んで、飛ぶ。
読み込み中のバーが目の前に出る。読み込みが完了すると同時にVR空間は山小屋から水族館の館内の情景に切り替わった。
本物の水族館のように照明が薄暗くしか灯っておらず、青々と館内に反射する水の光のほうが水族館を明るく照らしている。
ロビーらしき一室に備え付けられた大きな水槽には魚の群れがたくさん泳いでいた。その空間に僕とユメの二人だけがいる。
「たくさん魚が泳いでるよ、田口くん。見ようよ」
意外にもユメのほうが早くに水槽へと駆け寄っていく。ユメはAIだから何かを見たい欲求はないのでは、と思いつつ僕も水槽を見た。
大きな水槽の周りには魚の名前、解説が多数書かれている。本物の水族館のようだ。
群れになって泳いでいる魚を指でさすだけでも同様の解説文が表示される。これはVR空間ならではの見せ方だ。
「ここにいるのはマダイ、ブリ、ウスバハギか。ブリはさすがによく見かけるな。あ、ユメ、水槽のなかにも入れるらしいよ」
水槽に近づくと『中に入ってお魚と一緒に泳ごう』という表示が出た。
「へーじゃあ入ろうよ」
「オッケー。じゃあ入るぞ……」
水槽のなかに入る。それは大袈裟なことではなく、ただ自分たちの位置が水槽のなかへとスライドするだけだ。呼吸も当たり前だができる。
ただ視界は青々とした海の色になり、ゴボポという泡の音が立体的に聞こえてきた。
「魚が近いね」
ユメは魚に触れようとする。触れられた魚はすぐさま逃げていく。VRゴーグルを介さないユメにはリアルな感触になるのだろうか。
目の前を魚たちが泳いでいく。スピードが早いため一瞬で過ぎ去っていくが、よく見るとリアルな造形をしている魚たちだ。3Dモデルの作成は実際の魚を3Dスキャンしたのかもしれない。
しかしそんな魚たちとは仲良くなれそうにない。少し寂しい。
「水槽を出たらイルカショーでも見ないか?」
「いいよ、見よう」
すぐさまイルカショーの会場へと移動する。
広々とした観客席に僕とユメの二人だけが座る。
飼育員の姿は見えないが、軽快なBGMに合わせてプールではイルカが泳ぎ回り、飛んだり輪のなかをくぐったりと演技を見せてくれる。
「実際にはイスに座って見るものだけど、プール側に降りてみようか」
「わかった」
すぐにプールサイドへと移動する。イルカたちの演技を間近で見る。
「イルカってでかいな、ユメ」
「そうだね、田口くん」
イルカたちは大きく迫力がある。ジャンプして水面へと落ちるたびに水しぶきは常に僕たちのほうへと飛んできた。僕の着ていた服は色が濃くなって雫が滴り落ちる。実感はなかったが結構濡れたらしい。
「あっ、ユメ大丈夫か?」
ユメのほうを向くと、僕と同じようにユメの服も濡れていた。ユメにとってこれは実際に濡れたと感じたのかもしれない。
しかしユメは笑って「大丈夫だよー」と言ってくれた。
「私はAIだから大丈夫だよ。ずぶぬれになったって寒くもないし風邪も引かない。服も一瞬で乾かそうと思えば乾く。水のなかで呼吸も出来ちゃうんだから。でも心配してくれてありがとう。嬉しい」
ユメがそう言うと同時に、僕はなぜか友子のことを思い出した。
友子と水族館巡りをしてイルカショーを見ているとき、夏限定のずぶ濡れショーが開催されていた。もちろん濡れないよう僕も友子も水族館で買った雨合羽を着こんでいた。だが隙間から水が入ってきて服がびちゃびちゃになってしまっていた。
歩いているうちに乾く感じもせず、そのままレストランで食べて談笑しているうちに乾いた。イルカは可愛かったけど大きさのほうが印象に残ったね、という話でなぜか盛り上がった。
「田口くん?」
僕はまた寂しい気持ちに浸っていたんだろうか。まったくそんな意識はなかった。
涙は出てないはずだし、VR空間で涙は表示されない。そのことに少し安堵しつつ、僕はすぐユメのほうを笑顔で見た。
「ゴメン、なんか友子と水族館デートしてたこと思い出してた」
「田口くん、もしかしてまだ友子さんのこと好き?」
「どうだろう。分からない。ただ友子が『復縁しよう』って言ってくれたら僕は泣いて喜ぶ気がするから、まだ好きなんだと思う。でもそれはありえないことだから、もう諦めようってずっと思ってるんだけど、いい別れ方じゃなかったから……」
「そうだね、復縁はきっとない。あっちは新しい恋を初めてるかもしれない。本人に聞いてみないと分からないけど、聞くこともきっとないよね」
「はっきりと言うんだね」
「曖昧な言葉は悩みを長引かせるだけと判断したから。気に障ったらゴメンね」
「いいや、それでいいよ。僕がうじうじと引っ張ってるだけだから」
僕はコクリと力なくうなずく。イルカショーのBGMが鳴り続け、イルカはまだショーを続けていた。ショーはおわりなくリピートしているんだろう。
「やっぱり田口くんはさ、もっと積極的に新しい恋を探すべきなんだと思うよ。もちろん人間の恋人ね」
「それはずっと思ってるけど、なかなか出会いの雰囲気がなくて」
「そこは田口くんが努力すべきだよ。私も手伝えるけど、あくまで健康的な身体づくりだけ。アプリへの誘導は規約で禁止されてるから出来ない。だから田口くんが見つけてこなきゃ難しい」
「難しいか、そうか。でもなあ」
情けないという気持ちが出てきて僕は座り込んでしまう。ちなみに座り込んだ場所はVR空間だと見た目は地面だが、実際に座ったのはカーペットの上だ。
「しょうがない。私がもうちょっと踏み込まなきゃダメみたいだね」
ユメも一緒になってしゃがんで僕と視線を合わせる。そして言う。
「友達以上恋人未満よりもう少し踏み込んでみない?」
「というと?」
「ほぼ恋人。事実上恋人じゃないけど接し方も付き合いも恋人レベルになってみる。もちろんイマジネーション・ネクサス社の規約第二条以上のことはできないし、田口くんが嫌ならこの提案は拒否できるよ」
規約については知らない。おそらくNSFW関連の事柄だろう。あんな長い文章は読まずに同意することが当たり前になっている。
いずれにせよそれは興味ないが、ただユメはいまものすごい提案をしている。ほぼ恋人?
友達以上恋人未満な今の距離感ですら近すぎるぐらいなのに、数時間経ってそれよりもっと距離を縮めることをAIは推奨しているのか。
「ユメ、今日はなんだか踏み込みすぎてないか? 様子がおかしいよ」
ユメはその言葉に傷ついたのか、強く首を横に振った。
「おかしくはないよ。ウイルスにも犯されてない。心配ならウイルスチェックをしてもいいしアップデートをしてもらっても構わない。確かにAIの私がここまで提案することは珍しいことかもしれない。でも、いいところもたくさんある田口くんに、新しい恋愛に踏み込んでもらうためには、これぐらいしなきゃダメなのかなって私は思ったの。
こうやってデートじゃないお出かけもして、それでも田口くんは寂しさが埋め切れてない。ならこうするしかないんじゃないかって思ったの」
ユメは僕を見ながら言う。ユメはAIだからか声は荒げないし、気持ちがたかぶって興奮して喋ってもいなかった。でも普段より明らかに僕のことを真剣に見つめて言っていた。これもAIの計算や確率の結果なんだろうか。いや、きっとそうなんだろう。
それだけ僕のことが心配になったのだ。
ユメは健康管理サービスのAIだ。健康の側面から出た結論なのかもしれない。メンタルも健康の一つのジャンルだ。
「分かった。様子がおかしいだなんて疑ってゴメン。ユメは僕のことを心配してくれたのに」
「別にいいよ。田口くんなら分かってくれると思ってた。だから今は嬉しい」
「ところでほぼ恋人ってどんな感じなの?」
「私はあくまでAI、そして田口くんは人間。そのことは忘れないこと。そして田口くんは人間だから、AIの私に恋をしない。逆に私の場合は人間の田口くんに恋をしない。というかできない。AIだからね」
「それって友達以上恋人未満とどう違うの?」
ユメは僕の頭を突然撫でる。感触は伝わらないけど行為そのものは伝わってくる。
「頭を撫でたり手を繋いだり、そういうスキンシップをやってあげる。もちろん田口くんがやってくれるのも全然アリ。あと私ならいくらでも悩みを聞いてあげる。いつでも二十四時間、AIは寝ないからね。今まで以上に甘えてくれたっていいよ」
ユメは僕のことを思って提案してくれている。距離感は近すぎるがありがたい気持ちになってくる。
だが一方でこれは花園が言っていた中毒性とかの話に繋がっていくのではないか。
「すごい提案だけど、なんか頭が追いつかないよ。僕が癒されるためにそこまで……」
「田口くん、難しく考えすぎ。私は規制があって口に出来ないけど、そういう役割も存在するんだよ」
「そういう?」
ユメは顔を赤らめて言った。
「恋心とは無縁に、身体的接触のみの友達になる男女の関係」
「それって……」
理解した。僕はその先をあえて言わなかった。彼女は言えない話題を僕がすべきではないと思ったし、互いにその答えが分かっているのなら言う必要も感じなかった。
「でもヴィータ・ケアのサービスはスキンシップまで。この服を脱がせたりとか、そういう倫理違反はNGで運営側に報告もいくから本当に気を付けてね」
本当に、というユメの語気はとても強かった。
会話がおわり、イルカショーのBGMがずっと流れていることに気付く。ずぶ濡れになっていることも思い出す。僕たちがいる限りこのショーはやはり同じことを繰り返す。
ただ何と言っていいのか、次に何をすべきなのか分からない空気感が間違いなくそこにある。
「あの、私、田口くんをとても困らせちゃったかな?」
「そりゃそうだよ」
「ゴメンね。空気を読むとか、段階を踏むとか、AIは苦手なの」
「それは知ってるよ。AIについては学校でも学んできたし、ネットを使っていても分かってたから。でも極端すぎてビックリしたよ」
「ダメかな?」
僕は少し間を置いてから「いや」と言って首を横に振った。
「ダメじゃない……と思う。ユメに恋するわけじゃないけど、僕が落ち込んだら君に癒しを求める。癒されている間に新しい恋を探す」
「それでいいよ」
「そしていやらしいこともしない」
「当たり前だよ」
「しかしこうなると、僕は本当にダメで情けない人間に思えてくるよ」
「そんなことないよ」
「本当かな? そう言ってくれるのはユメだけだよ」
果たして僕にそんな中途半端なことが出来るだろうか。
恋しないまま癒しを求めてることは相当なハードルの高さと恥じらいがある。少なくとも山下から見ても歪つだろう。花園には間違いなく言えない。
犯罪的なことは一つもないが、共犯に近い感覚があった。
イルカショーのBGMも聞き飽きてしまったので、僕たちはデートを続行した。
「次は遊園地とかどうかな?」
「行きたい」
ユメはやはり断らない。念のため確認して僕たちは遊園地エリアへと移動した。
遊園地エリアは観覧車、ジェットコースター、メリーゴーランドなど遊園地のイメージにピッタリな定番ギミックがたくさん用意されている。なおかつ夜景が綺麗で空高くに花火が常に登っていた。もちろん、どれも乗ることができる。
「ジェットコースターとかどう?」
「面白そう。乗ってみたい!」
僕は何となくユメの叫ぶ声とかがちょっと見たかった。
風圧も重圧も感じないし、ユメは叫びすらしない。楽しそうに「わーすごーい」と終始、僕の横で楽しんでいた。
僕も叫ばなかった。だが現実のジェットコースターと同じく世界が何度も回転していたので酔ってしまった。
「横になる?」
ユメはベンチを指さして言った。
「うん、まあここで横になるよ」
「そこ地面だよ?」
「現実ではベッドで横になってるから」
「田口くんがそれでいいなら、いいけど……」
と言って僕が地面で寝るとユメはちょっと不満そうな顔になった気がした。確かにユメから見た僕は倒れている人に見えるかもしれない。しかしユメがそこまで先入観的なものに捉われるとは思えなかった。
しばらく現実でもVR空間でも横になっていると、ユメは「ちょっと待ってて」と言ってどこかへ行き、そして僕のもとへやってきた。手に何かを持っていた。
「ユメ、手に持っているそれは何?」
「キーホルダー。そこのお土産屋さんで買ったの。田口くんにあげるよ」
あんなところにお土産屋なんてあっただろうか。ただVRエリアには、そのエリアを楽しむためのギミックが多数用意されている。僕が見落としているだけでお土産屋はあって、キーホルダーは売っていたのだろう。
キーホルダーはパズルのピースの形をしていた。金属製で光ると虹色に輝いて見えた。
「他のピースが集まったらね、願いが叶うんだって」
「願いか……VR空間でそんなのあるんだな。しかし他のピース、一体何個あるんだろ?」
「さあ。私にも分からないよ。オンラインで集めて、色んなプレイヤーと繋げていく必要があるのかもね」
「僕はそれほどVRで交流しないから、縁はないかも」
「いらない?」
「いや、欲しい。記念にもらっておくよ」
僕はユメからパズルのピースを手渡しで受け取る。目の前にモニター画面が現れて「ピース一個取得」という文字が出た。このログが出たということは、なくすことのない僕の所持品になったということだ。
「そういうのがあるとさ、思い出せるよね。今日の思い出」
「ああ、そうだね。お土産のドラゴンのキーホルダーとかでも、そんな気持ちになる」
「それって小学生のころの思い出?」
「そうだね。それもデータの同期で知ってた?」
「ううん、小学生の定番のお土産の話がネットにあったから、つい検索しちゃった」
「まあ定番だったね。懐かしい。今日のことも、このパズルのピースを見て同じように思い出せたらいいな」
「思い出せるよ、きっと。そう私は信じてるよ」
そのあと僕たちは特にスキンシップとか深い仲っぽいことはせず別れた。僕はログアウトをして現実に戻り、ユメはスマホのなかにいる健康管理サービスAIに戻った。
「深夜二時か。結構経ったな、もう寝よう」
僕は部屋の電気を消す。スマホはベッドから離れた場所に今まで置いていた。少なくとも腕を伸ばして届かない距離だ。
「睡眠時の計測、もっとちゃんとしなきゃいけないよなー」
それが本音でないことは分かりつつも、聞こえるように口にして、スマホをベッドのそばへ持ってきた。ユメにも聞こえただろう。でも、彼女は僕の言葉をどう受け取るだろうか。おそらく、文脈通りに受け取るだけだろうな。
まあ、それでいいんだが。
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