よく見えるということ

lager

よく見えるということ

「ミスタ・ビューレン。君は結婚は考えていないのかね」


 ほんの数年前までお世話になった判事の先生にそんなことを言われ、僕は顔を顰めそうになるのを辛うじて堪えた。


「先生。昨年やっと法曹界入りを果たしたばかりですよ。まだそんな余裕はありません」

「そうかね? 君ももう……ええっと、なんだ……」

「今年で24です」

「いい歳じゃあないか」


 確かに、同じ年代の友人たちの間では、ちらほらと結婚の報告が上がるようになっていた。こいつには絶対に先を越されまいと思っていたロバートのにやけ面を思い出すと腹の底が熱くなってくる。

 だからと言って、結婚相手なんてその辺りに転がっているものでもあるまいし。


「誰か良い人はいないのかね」

「生憎、誰も」

「そうかね? いつだったか紹介してくれたじゃないか、君の幼馴染とかいう、ええっと、誰だったか……」

「ハンナとはそういう関係じゃありません」


 遠縁の遠縁の幼馴染だ。家同士の交流があったから幼い頃はよく一緒にいたし、昔は可愛い妹みたいに思ってもいた。

 けれど、ここ数年の彼女は僕に対してすっかり冷たくなってしまって、いつも難しそうに顔を顰めている。

 そんな女と一緒になったって毎日が気づまりだ。


 彼女は生まれ故郷のキンダーフックであれこれの勉強をしていた。

 数年前、僕の家族に用事を言いつけられて、僕が修行中だった先生のオフィスを訪ねてきたことがあったのだ。

 たった一回だけ。それっぽちのことで彼女を引き合いに出されても困る。


「しかし、久しぶりの帰郷だろう。挨拶くらいはしていったらどうかね」

「僕のことはどうでもいいじゃないですか。ほら、こっちの片づけ終わりましたよ。まったく、僕が数年いなかっただけでこんなに散らかして……」

「ほほほ。君には感謝しておるよ。だからこその、老婆心というやつだ」

「はあ……」


 かつてキンダーフックにこの人ありと謳われた連邦党の名判事が、まだ半分ちらかったままのデスクでニコニコと微笑んでいる。僕はため息を堪えながら、帰郷のついでにほんの少し挨拶を、などと考えた数時間前の自分を呪った。


 まったく、まったく。

 この人まで僕の友人たちと同じことを言うだなんて。

 ハンナ?

 確かに顔は美人だろうさ。だけど、あんなに四六時中目を細めて眉間に皺を寄せた不機嫌そうな女なんか、僕はごめんだね。

 ホント、もう少し愛想よくしてれば可愛……さぞモテるだろうに。もったいない。


 まあ、午後には家に帰れるだろうから、そうは言っても挨拶くらいはしておかなきゃな。こっちから不義理にして後で文句を言われてもつまらない。

 はあ、憂鬱だ。





 ◇





「ねえハンナ。そろそろ結婚を考えてもいいのではなくて?」


 久しぶりに帰省した家でそんなことを言われて、私は盛大に顔を顰めた。


「母さん。この間新しい職場を見つけたばかりなのよ? もう少し落ち着かせてよ」

「そうは言ってもねえ。あなただってもういい歳でしょう」

「まだ23よ。母さんの時と時代が違うんだから。まだ焦るような年じゃないわ」

「そうかもしれないけど……」


 いや、嘘だ。

 学生時代の同級生たちがもう何人も結婚報告を挙げている。

 焦っているか焦ってないかで言えば、10:0ジュウゼロで焦ってる。

 だけど――。


「誰か良い人はいないの?」

「いたら苦労は……ゴホン。ううん。特にいないかな」

「そう? マーティン君とはどうな――」

「そういうんじゃないから」

「食い気味に……」


 マーティンとは遠縁の遠縁の幼馴染だ。家同士の交流があったから幼い頃はよく一緒にいたし、昔は頼りになるお兄ちゃんみたいに思ってもいた。

 けれど、ここ数年の彼は私に対してすっかり冷たくなってしまって、いつも私から目を逸らしている。

 そんな人と一緒になったって毎日が気づまりだ。


「彼、とうとう弁護士デビューしたそうじゃない。すごく優秀だって聞いたわ。優良物件よ。将来は大統領にだってなれるかもしれないわ」

「夢見すぎ」

「そうかしら。この前久しぶりにあったけど、男ぶりが上がってたわよ。すごくカッコよくなってた」

「そうかしら」


 そうかしら、どころか、正直彼の顔がはっきりと思い出せない自分に、私は内心で愕然とした。昔はあんなに一緒にいたのに。


「あなた、そんな風に眉間に皺を寄せてないで、もう少し愛想よくしたらいいのに」

「こうしないと良く見えないのよ」

「まあ、そんな。あなた、まだ若いのに。お母さんだって編み物するときは目を細めますけどね。若い頃はそんな――」

「母さんのは老眼! 私は近眼! 一緒にしないでよ」


 そう。学生時代に勉強にのめり込み過ぎたせいなのか、卒業してから向こう、私の視力は下がる一方なのだ。目を細めて見ないと少し離れただけで人の顔がぼやけてくる。


「あら、そうなの」

「うん。でももう平気。思い切ってメガネ作ったから」


 ちょっとお高かったけど、今後の生活のことを考えたら必要な出費だろう。実は、注文しておいたメガネを今日正に受け取ったところだったのだ。

 初めはいきなり外で使わずに、室内の段差の少ない所でかけて慣らしてください、と説明を受けたものだから、まだバッグの中にしまってあったのだ。

 思い出したついでに、かけてみた。


「あら。似合うじゃない。良かったわ。あなた、普通にしてればお母さんに似て美人なんだから」

「そう? うん。よく見えるわ。母さんの顔の皺も」

「今すぐ外しなさい」


 なんて冗談を言い合いつつも、確かにくっきりときれいに見える視界に、私は感動した。うん。世界が違って見えるとはこのことだわ。

 それなのに――。


「そういえば、午後からマーティン君、ご実家に帰られるそうよ。折角だから挨拶くらいしてきたら?」

「ええ?」


 その一言で、一気に憂鬱がぶり返してくる。

 ううん。会う度に顔逸らされるの、地味に傷つくんだよなあ。そりゃ私も目つきがよくなかったかもしれないけどさあ。

 

 まあ、来るのが分かってて挨拶の一つもなしというのも、かえって後々気まずいか。

 折角視界もクリアになったことだし、久しぶりに男ぶりが増したとかいう顔を見てやりましょうかね。

 はあ、そうは言っても憂鬱。





 ◇





 ドアベルが鳴る。

 男と女が顔を合わせる。

 そして――。


「「あ……♡」」





 ◇



 第8代アメリカ合衆国大統領マーティン・ヴァン・ビューレン。

 オールド・キンダーフックの愛称で親しまれた彼は、大統領就任前に妻ハンナを亡くした。幾度となく再婚話は勧められたが、決してハンナ以外を愛することはなく、独身を貫いた。

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