眼鏡_3
それからしばらくSは眼鏡を使わずに過ごした。
外見はただの眼鏡だが、普段眼鏡を使わないSが突然眼鏡を使い始めれば注目を集めてしまう。
職場には持っていけない。
そして、もう一つの理由として、Sはこの眼鏡の使い方に迷っていた。
眼鏡を上手く使うと未来が変わるらしい。あのハットの男の回避したい未来というのがどんな未来なのかすらわからないのに回避のしようもない気がする。
あと、少し先の未来が見えることが何のメリットになるのかという疑問も残る。確かに、日常の危険回避などには役立つかもしれないが、街を歩いていて危険な目にあうことはそうそうない。
試しに家の中で使ってみたが、時計の分針が少し進んでいるだけで特に違いはなかった。
「どうして私だったんだ」
夜ベッドに横たわりながら眼鏡を頭上で観察する。エッジの効いた金属フレームが月明かりを受けて鈍く輝く。
改めてみてもこの眼鏡に未来を見る機能があるようには見えない。
「どうせならもっと金になるものが良かった。純金製の懐中時計とか………まてよ?」
Sは体を起こした。
「やってみる価値はありそうだ」
翌日、Sは朝から競馬場に来ていた。ポケットには例の眼鏡が入っている。
Sはまず眼鏡をかけてターフをよく観察した。眼鏡に映る世界ではすでに競走馬が走っている。一位でゴールした馬の名前をよく覚えてから、Sは眼鏡をはずした。レースはまだ始まっていない。
Sは試しに少額を先ほど覚えた馬に賭けた。
すぐにレースが始まる。Sが賭けた馬は調子が悪いのか後方で走っている。第一コーナーを曲がり、第二コーナーを過ぎ第三コーナーを超えて、もうじき第四コーナーだ。この時点でまだSの賭けた馬は中団にいる。
Sは少しがっかりした。やはり、こういうものは悪用できないようにできているのだ。先頭とここまで離れていれば勝ち目はないだろう。
その時馬が嘶いたような気がした。Sの賭けた馬が急激に速度を上げ、追い抜き始める。
一頭、二頭、三頭とみるみるごぼう抜きにしていく。Sは思わず近くにあった柵にしがみついて、前のめりになった。
そして…………一着はSが賭けた馬だった。
「すごい………」
それは馬の驚異的な走りに対する感嘆でもあったし、ポケットに収まっている眼鏡の性能に対してでもあった。
眼鏡で見た映像と全く同じだ。もう疑う余地はない。
その日一日で、Sは財布に入りきらないほどの金を手にした。怪しまれないようあえて外したりと小細工をしたが、それでもかなりの大金だ。
今後も十分な収入となるだろう。
「なんてこった。こんなに簡単に金が手に入るなんて!」
しかも、一時のものではなく永続的に使える。最高だ。
それからSの生活は贅沢三昧となった。金が無くなればまた競馬場に行き、不自然と思われないギリギリの金額で勝つ。そうすればまた金が溜まっていく。Sは目立ちすぎないように注意しながら、勝っては豪遊を繰り返した。
それからしばらくの時が流れた。
あれ以来、ハットの男は現れなかったし、関係がありそうな出来事も起きなかった。Sはハットの男との約束である「人に貸さない」、「鏡の前で使用しない」の二つは守りつつ、ギャンブルや仕事に眼鏡を使い、上手くやっていた。そんな彼の周囲からの評価も上がり今や絶好調という感じだ。
Sはハットの男に感謝していた。次に会うことがあればお礼を言いたいとさえ思っていた。
ある日のことだった。
Sは競馬場を出る際に眼鏡を外し忘れていた。
いつもであれば、レースが終わった段階で外して、丁寧にケースへと戻すのだが、その日は直前で予定を変えて帰宅することにしたので、かけたままになっていた。
少し歩いて、交差点で信号待ちをする。手持無沙汰だったSは何気なく背後を振り返った。そこは大きな商業施設のビルで、ちょうど自動ドアがある。その時、ふと違和感を感じた。
何かが足りないような感覚。
いつも見ている景色とどこか異なる。
しかし、その原因がわからない。
何が違うのだろう。Sはビルの入り口を凝視した。
「…………………あ!」
Sは思わず声を上げていた。
ビルの入り口はガラス張りとなっていて、自動ドアもガラス製だ。広範囲のガラスは光源の位置によっては周囲の景色を反射する鏡のようになる。
Sは眼鏡をかけたままその場所に立ってしまい、ガラスのほうを見てしまった。
そこにはSの姿だけが写っていなかった。
そこで初めてSは自分が眼鏡をかけたままであることに気づく。
慌てて眼鏡を外すと、ガラスにはSの姿が映っている。
試しにもう一度眼鏡をかけると、やはりSの姿は映らなくなってしまった。
「そんな馬鹿な。どういうことなんだこれは………」
ひとまず、眼鏡をしまい、Sはその場を離れた。
だが落ち着かない。
ハットの男が言っていた「鏡を見るな」とはこういうことかと納得する。
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