眼鏡の君
惟風
もう二度と見えない
優しい彼のことが好きだった。
近眼で、村の中で眼鏡をかけていたのは年寄りと彼くらいだった。男勝りでお転婆な私、身体が弱くて大人しい彼。「二人の性別が逆だったら良かったのにね」って村の皆に言われて育った。
私知ってた。気が弱そうに見えるだけで、彼は本当は芯が強くて折れない心を持っているって。おまけに誰よりも賢くって、こんな田舎で埋もれるには勿体ない人だって。
眼鏡がないとろくにものが見えないことを気にしていたけど、他の誰よりも私のこと、村の外のことが見えていた。本の中のきらきらした物語、図鑑の知識と実際の観察の違い。
彼の教えてくれる世界は、同じモノを見ていても私とは全く違っていた。本当は特別な眼鏡なんじゃないかってこっそりかけてみたことがあるけれど、私がかけても視界がおかしくなって頭が痛くなるだけだった。
十八になる時に、この村を出るように勧めたのは私。
都会には彼の病気に良く効く薬があるって言うし、ここじゃ学べないことだって沢山教えてくれる。
ね、だから、こんなとこからは出た方が良い。出るべきだよ。
どこにも行けない私なんかと違って、アンタならどこにだって行ける。
いくら活発でやんちゃだって言ったってそんなのは童の時だけで、長じてみればそこらの娘と何にも変わりゃしない、多少生意気、そんな程度の小娘だから。
親のため村のために子を産んで老人のおしめ替えて畑仕事して、そうやってすり潰されていくだけの、学も能力も無い、取るに足らない女だから。
さよならを言ったのは夜明け前の薄暗がりで、私も彼も泣いていた。肌に息がかかるくらい近いのに顔はよく見えなくって、唇と指の熱さでお互いの形をなぞった。
彼がいなくなったところで、力仕事一つできない穀潰しの行方を気にする人なんていなかった。
それから数年が慌ただしく過ぎた。
ある日、家の裏手から甲高い声が聞こえて、それが悲鳴だってこと、息子をそこで遊ばせていたことを頭の中で繋げるのに少し時間がかかった。でもどんなに早く駆けつけたって結局手遅れだった。
「おセイ、迎えにきたよ」
血の海の中に立って、ソレは私の名前を呼んだ。両親も、亭主だってオイとかコイツとかしか呼ばない私の名前を。見た目も声も変わり果ててしまっていたけれど、紛れもなく彼だった。
ソレは、魚の体に人間の足を生やした、ヒトを喰らう
こんな山奥の田舎者だって知っている、化け物。
「海へ行こう。こんな狭っ苦しいとこから出て、俺達自由に泳ぎ回れるんだ」
ソレが喋る度に口の端から小さな泡が溢れて、生臭い腐臭が漂った。
大きな口の中に、びっしりと尖った歯が並んでいる。昔の面影など探そうにも探せない、青黒い肌。
「ねえ、眼鏡はどうしたの」
「あんなもの、とっくに捨てたよ。もう要らない、これからも。さあ、行こうおセイ。不老長寿になれる薬を都会で見つけたんだ。もう病気にだってならないし、力で負けることもない。やっと、お前を守れるんだ」
ソレがこちらへ一歩踏み出す。びちゃ、と水音が鳴る。
私は動けない。ただ、泣いて叫んだだけだった。
いいや、アンタは眼鏡を捨てちゃいけなかった。だって全然見えていないじゃないか。
その足元に転がっているのは、あの夜アンタと私の間にできた子だったんだよ。
優しいアンタが好きだったよ。
分厚い眼鏡で優しい世界を見ていたアンタが、大好きだったよ。
眼鏡の君 惟風 @ifuw
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