スーラの赤
タカテン
彼の選択の理由を私はまだ知らない
「あの、ジョルジュ・スーラって知ってますか?」
その問いかけがあまりに場違いないのは私だって自覚していた。
だって私はシャワーを終えたばかりのタオルケット一枚の姿で。
そして彼はそんな私をベッドに腰掛けながら見上げているのだから。
「うーん、聞いた覚えがあるようなないような。誰だっけ?」
でもそんな色気も風情もない質問に彼は嫌な顔ひとつせず、楽しそうに頭を捻ってみせた。
いい人だ。それともただ単にこういうことに慣れていて、今更焦ったりしないだけだろうか。
「昔の画家です。代表作は『グランド・ジェット島の日曜日の午後』」
私はバッグから取り出したスマホで検索して画面を見せる。
すると彼は「ああ、見たことあるよ、これ!」と顔を綻ばせた。
「私はこの絵の赤だったんですよ、ずっと」
ベッドが二人分の体重を受けて、かすかにきしむ音を立てる。
私は静かに話し始めた。
『ねぇ、私たち、友だちにならない?』
大学のオリエンテーションでたまたま隣同士になったヨーコからそう誘われた時は、素直に嬉しかった。
ただでさえ人見知りする性格なのに、地方から出てきたばかりで知り合いなんてどこにもいない私にとってまさに渡りに船だ。
加えてヨーコはまるで芸能人のようにキラキラした女の子で、こんな人と友だちになれたら地味な私も変われるんじゃないだろうかとこれから始まる新生活に更なる期待を持たせるのに十分すぎるほどだった。
『ありがとう。でも、私なんかでいいの?』
『何言ってんの? いいに決まってるじゃん!』
そうして私たちは友だちになって、一緒に講義、一緒にお昼ご飯、一緒にお買い物をする仲になった。
一緒に行動して気が付いたけれど、ヨーコは私が思っていた以上にキラキラした人だった。
彼女の周りにはいつだって人が寄ってきて、誰もが彼女と一緒の時間を過ごしたいようだった。
『あ、ごめんね。午後はすでに約束があるの』
だけど彼女が選ぶのはいつだって私。それが私のちょっとした自慢だった。
勿論、そんな私を妬むような人もいる。
田舎者でぱっとしない私はヨーコの親友に相応しくない、と陰口を耳にすることもあった。
『そういうの、よくないと思うよ!』
でも、そんな噂が聞こえてくる度にヨーコが私以上に怒ってくれるのが嬉しかった。
だから私は思ったんだ。
私もヨーコみたいに……ヨーコの隣に相応しい私にならなきゃいけない。
そう考えた私が頼ったのもヨーコだった。
センスがいいヨーコに服を選んでもらったり、私に似合うお化粧を教えてもらったり。
そう、私はどんどん変わっていく……はずだった。
「はずだった……ってことは変われなかったの?」
「うん。だってヨーコにとって私は私のままでいることに価値があったから……」
「どういうこと?」
尋ねる彼に私はしばし黙り込むと、おもむろにいつの間にかスリープ状態に入っていたスマホを立ち上げる。
画面に映るのはスーラの『グランド・ジェット島の日曜日の午後』。
水辺の芝生の公園で休日の午後を楽しむ人々を描いたこの作品は、ありきたりな題材でありながら一度見たら忘れられない不思議なインパクトを残す。
それはこの絵に施された様々な仕掛けが原因だ。
「見てください。この絵、実は点描なんですよ」
「点描?」
「はい、線じゃなくて無数の点で描かれているんです」
私は画像を拡大してみせると、彼は目を丸くして「ホントだ!」と驚いた。
「実物は縦2メートル、横3メートルらしいですから相当な大きさですよね。これを全て点だけで描き上げたのですから、信じられないほど根気のいる作業だったと思います。それでもスーラはどうしても点描で描く必要がありました」
改めて思う。
こんなの、情事の前に話すことじゃない。
おまけにヨーコの話からいきなり美術の話に飛んでいる。なんだこいつと思われて当然だ。
だけど彼はやっぱり微笑んで、私の話を真摯に聞いてくれていた。
「スーラはもっと絵を明るくしたかったんです」
「明るく?」
「はい。絵の具は混ぜれば混ぜるほど色が暗くなるんです。だからどうしても絵全体は暗くなりがちです。それを変えようとしたのがモネやルノアールなどの印象派。彼らは絵の具を混ぜずに原色のまま使って絵を明るくしようとしました。それをスーラは突き詰めていきました」
「確かにこの絵は明るいね。でも点描だからって理由でこんなに明るくなるものかな?」
「はい。実はスーラが点描を選んだのにはもうひとつ理由があって……」
ふとここで話を断ち切ったらどうなるんだろうなんてことを考えた。
さすがの彼でも怒るだろうか。
それともやっぱり優しい笑顔を浮かべたままなのだろうか。
……いや、さっきからいい加減にしろ、私。
ただでさえ彼を試すようなことをしているのだから。
「スーラは補色理論を最大限に利用するため点描を選んだんです」
補色理論とは補色関係にある色を隣り合わせることによってそれぞれの明度が上がるように見えるという、当時確立されたばかりの色彩理論だ。
それをスーラは巧みに利用した。
「ほら、見てください。陽が当たっている芝生や木々のところどころに赤色が使われているでしょう?」
「なるほど、赤色が緑色を補色してより明るく見せているってわけだね」
絵に明るさを追い求めた印象派のモネたち。
それの究極系とも言えるスーラはこの作品で印象派を越えた新印象派と呼ばれ、印象派を終わらせた。
事実、印象派展は『グランド・ジェット島の日曜日の午後』が出展された第八回にて終了している。
美術史に燦燦と輝く名作中の名作。
この絵を所持しているシカゴ美術館が門外不出しているほどだ。
「それで小泉さんは……」
しばらくスマホの画面を見ていた私たち。
すると彼が不意に顔を上げて私の名前を呼んだ。
「この絵が好きなの?」
「……え?」
それは普通に考えたらあり得る質問だったと思う。
だけど私の頭からはすっぽりと抜け落ちていて戸惑ってしまった。
ただ、好きか嫌いかと言われたら私の答えは勿論――。
「僕は……悪いけどあんまり好きじゃないかも」
つい押し黙ってしまった私に、彼は申し訳なさそうに眉を垂らして続けた。
「だってなんか不自然だよ。いかにも作っていますって感じがする」
その言葉に私はきっと目を見開いて彼の顔を見ていたことだろう。
頭の中につい数時間前、合コンで彼に言われた『第一印象から決めていました』って言葉がリフレインする。
あの時はどうして私なんだろう、巧みに周りを利用して光り輝くヨーコじゃなくて、地味で目立たない私をどうして彼は選んだんだろうって思った。
その疑問をどうしても解決したくて……もしかしたら彼は私をからかっているだけなんじゃないかなんて邪知までして、ホテルに来た今になってこんな話をし始めたのだけれど……。
「確かに印象派を越えた名作かもしれないけれど、僕はやっぱり……」
そう言って彼は私のタオルケットにそっと手を掛けて囁く。
「君を見た時に感じたような、モネやルノアールのような印象派の自然な絵の方が好きだな」
その手をはねのける理由なんてもうない。
ちなみに印象派展が第八回で終わったのは、スーラの『グランド・ジェット島の日曜日の午後』が出品されるのをルノアールたちが「自然じゃない、作られている」と批判して展覧会への参加を辞めてしまったのが直接の理由だと言われている。
スーラの赤 タカテン @takaten
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