第71話 野分2 嵐の後
「あれから本当に台風来ちゃった。」
「風というよりも雨がひどくて、都のあちこちが水浸しになって。」
「また呪詛だと言い出す人いるかな。」
「言霊とかいう人もいるし。」
「ただの物語にそんな力あるわけないじゃん。」
「まあ、昔に比べればやんごとなき人達の関心も薄れているから、大丈夫じゃない?」
藤式部
「実際の台風の方は宮中ではそれほど問題なかったみたいね。
疫病の流行や洪水は長保の、ちょうどこの物語を始める前にもあったし、それより正暦や長徳の頃の方がひどかったのは覚えている。あれが収まろうとしてた時にちょうどこの物語を書き始めたから、よく覚えている。
こんなのはまだ大したことではないし、物語も続けられるのが有難い。
では今日も始まり始まり。」
戻って行くと
「昨日の風に紛れて中将は見ちゃったみたいよ。
あの戸を開けてた時に。」
と言うと、奥方は顔を赤くして、
「ええっ、嘘っ。
渡殿の方に人がいるような物音はしなかったのに。」
童女などは洒落た
物の哀れを感じるがままに箏を掻き鳴らしながら、縁側の近くに座っていると、貴人の到来の咳払いの声がしたので、すっかりくつろいで緩み切った姿に
そこかしこ荻の葉を吹く風の音も
私一人が身に染みている
そう一人呟きました。
源氏の大臣が北東区画の西の対に行くと、恐怖の一夜を過ごしたせいか、
「あまり大きな声で咳払いするなよ。」
と言って、特に音も立てずに入って行きました。
屏風なども皆畳んで隅に寄せてとっ散らかってたところに日が華やかに射しこんでくると、
近くにいて、いつものように台風を口実に面倒くさい冗談を言ってきて、不快で耐え切れず、
「こんなに辛いことばかりなら、いっそ昨日の風に飛んでいってしまってたらよかった。」
と不機嫌そうに言うと、大笑いしながら、
「風に飛んでいくなんて、それだけ軽いってことか。
さてはどこか行きたい男のところでもあるのかな。
まあ、そういう心に目覚めたんだ。納得。」
ほんと勝手な意味に取るものねと思いつつも愛想笑いして、それがまた可愛らしく見えてしまうのが辛い所です。
鬼灯のようにふっくらと赤らんだ顔が、頬に懸かる左右の髪の隙間から美しくそれが覗かれます。
目がぱっちりしていて華やいで見えるせいで、それほど高貴にはみえません。
そのほかは特に難を言うべきでもないでしょうね。
さっきの冗談を言い合ってる様子もあらわで、
「こりゃ、やばいな。
親子だとかいって、こんな懐に抱きかかえるようにピタッとよりそったりして。」
と目が点になりました。
見つかるんじゃないかと怖くなるけど、何か変だと不審に思うがままに見ていると、柱の陰で少し横を向いてよそよそしくしてた女を引き寄せて、髪が片側にはらはらとこぼれかかると、女もひどく嫌そうで苦しそうな様子ながら無理に平静を装って男に寄りかかると、
「随分と馴れ馴れしいな。
何かああいうの嫌だな。
何をやってるんだよ。
こんな助平心を露わにしてるなって思いもしなかったけど、大きくなってから会った子供だとこんな感情を持つものなんだろうか。
わからないでもないが、とにかくきしょい。」
と息子としても恥ずかしくなります。
「あの女は一応姉になるんだろうけど、実の姉ではなく母親違いの姉になるのか」
そう思うと、「俺でも過ちを犯してたかもな」と思いました。
昨日見た
八重山吹の咲き乱れる春の盛りの露のかかった夕映えのようなと、そんなことを思います。
今の季節には合わない喩えですが、それでもそう思わずにいられないのでしょう。
花は季節が限られていて、花びらが散ってほつれた蕊だけになったものが混じったりするのを思うと、女の美貌と言うのは喩えようのないものなのです。
二人のいる所には女房達が来ることもなく、声を潜めて囁き合うその会話が聞こえてきて、何があったのか、女の方が真顔で立ち上がります。
「吹き荒れる風がひどくて女郎花
萎れて死んでしまいそうです」
はっきりとは聞こえませんが、そう口ずさむのを聞くと、むかつくけど興味はあるので最後まで見てようかと思うのですが、こんな近くにいることを悟られてもいけないと思い、ここを離れます。
その際に、
「下露の上に臥すなら女郎花
強い風にも萎れませんよ」
という親父の返歌が聞こえましたが、耳を疑うようなひどいものでした。
このあと同じ東北区画の
この日の朝の冷え込んだせいで急遽衣類を繕ったりしてたのか、年取った女房達が
今流行の綺麗な朽葉色の
「これは中将の
御所で行われる予定だった名月の壺前栽の宴も中止になるはずだ。
こんなに散らかしてどうするんだよ。
確かに秋というのは凄んでゆく季節だというけどな。」
などと言って、何の着物なのかと見てみると、いろんな色の着物がどれもとにかく綺麗で、こうした方面では南東の女房達にも負けないなと思います。
「こういうのは中将に着せてやってくれ。
若者にはちょうどいい。」
そんなことを言いながら立ち去りました。
*
面倒な奥方廻りに付き合わされて、
「まだ奥にいらっしゃいます。
風を恐れて今朝は起きることができないようです。」
と乳母が言いました。
「大騒ぎになってたんでこっちで宿直しようと思ってましたが、宮様の方がとにかく心配になりまして。
紙雛の内裏様は無事でしたか。」
と聞くと女房達は笑って、
「扇子の風でもとんでもないことになるくらいですから、危うくどこか吹っ飛んでくところでした。
ほんとに世話の焼けるお殿様です。」
などとお喋りしてました。
「何か適当な紙はありませんか。
あと誰かの私物の硯をお借りしたい。」
と頼むと、姫君用の戸棚の方へ行き、紙一巻を硯箱の上に乗せて持ってきて、
「いや、そんな立派なものでは恐縮です。」
とは言うものの、姫は将来の后候補とはいえ、その母の身分を思えばそんな気を使うこともないかと思い、手紙を書きました。
紫色の薄紙でした。
墨を心を込めて磨って筆の先を気にしながら丁寧に書いては手を止める所など、悪くはありません。
とは言え、何か型通りで面白くありません。
《風騒ぎ雲も乱れる夕暮れも
君は忘るに忘れられない》
台風になぎ倒された苅萱に付けて「まじめでも良く思われない苅萱の」ということなのでしょう、それを見て女房達、
「交野の少将だったら、紙の色に合わせて選ぶところですけどね。」
と言われて、
「そんな色のことなんて思ってもみなかった。
どこかの野辺のほとりのあやめ草の花のような何かないか。」
と、このようにこうした女房達にも言葉少なに気を許すこともなく、とにかく生真面目でプライドの高いところがあります。
もう一通書いて右馬の介に渡す時に、可愛らしい童やいつもくっついている随身などに何かひそひそ囁いてるのを見て、若い女房達はこれは事件だとばかりに知りたっています。
姫君がこちらに来るというので、女房達もざわざわして几帳を引き直します。
今まで見てきた花のかんばせと比べてみたくなって、今まではそんなに興味なかったのに、無理にも妻戸の所の御簾で体を隠し、几帳の隙間から見れば、物の影から膝で歩いて来るのがちらっと見えました。
女房達が頻繁に行きかうので、その姿がはっきり見えないのが残念な所です。
薄紫の
「一昨年だったか、たまたまちらっと見た時と比べると、だいぶ成長したな。
これで大人になったらどうなるんだろうか。」
と思いました。
「今まで見たのが桜や山吹なら、これは藤の花だろうか。
高い木の上から垂れ下がって咲いて、風になびいて漂ってくる匂いはこんなもんだろう。」
と花になぞらえて思いました。
「こうした人達を一日中好きな時に見てたいし、そうしてくれればいいのに、いつもあからさまに近づけないようにしているのも辛い話だ。」
そう思うといつもは真面目さとは打って変わって、心ここにあらずです。
*
まずまずの若い女房なら、ここにもいますが、立ち居振る舞いや着ているものは繁栄を極めてる六条の辺りとは似ても似つかぬ物です。
中々美人の尼君達が簡素な僧衣を着てる姿は、こういう場所で見ると却ってそそられるものがあります。
「こんな長いこと姫君の姿を見ることができないなんて、有り得ない‥」
と言って
「もう少ししたらこちらに来るようにしましょう。
自分の心を責め続けるばかりで、瘦せ衰えてゆくのが残念でしょうがない。
女の子は、こう言っちゃなんだが、持つべきもんではないな。
何かにつけて心配事ばかりだ。」
など、未だに警戒を解こうとしない様子で言うと、
話のついでに、
「それに、とんでもない駄目っ娘が出来てしまって、処置に困ってる。」
と愚痴をこぼしては苦笑いします。
「それは変ね。
あなたの娘だというのにその性質が似ないはずないでしょ。」
「だから面目ないのです。
どんなか、見せてあげましょう。」
と言ったとか。
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