第70話 野分1 嵐の中
長和4年(1015年)、秋の初め。
「今年の夏は長かったわね。」
「暑い上に、病気が流行って、相変わらず世の中もバタバタしてて、まあそのおかげでずっと部屋に籠ってたから、写本も増えたけどね。」
「これでまた布教しないと。」
「このまま無事に玉鬘の物語が終わるといいわね。」
藤式部
「世の中が早く治まるといいわね。
今日はまた天変地異の話になるけど、御門の目の病気みたいに本当にならなければいいけど。
では始まり始まり。」
春秋どっちが良いかという春秋戦争は昔から秋の側に付く人の方が多く、名だたる春の庭園の花園に味方してた人達が、手のひらを返して秋の方に付くのは、宮中の派閥争いにも似てますね。
一面に咲いてた花が萎れて行くと、特に風流の心のない人でも可哀想だと騒いでるくらいですから、
春の桜が風に散るのを防ぐのに、大空を覆うような巨大な袖があったらと言ってた人もいましたが、こうした袖は秋の空にこそ欲しいものです。
日が暮れてゆくと何も見えない中に風が吹きしきり、とにかく怖くなって来れば、格子など閉めてしまいましたが、花を見捨ててしまうみたいで後ろめたく、夜が明けたらとんでもないことになってそうでずっと気に病んでました。
南東区画の
枝は折れ返り、露の止まる暇もなく吹き散らされてゆくのを、縁側の近くまで来て眺めてました。
屏風も風がひどく吹いてるので押し畳んで隅っこに寄せてあり、丸見えになった
なすすべもなく見るだけの自分の顔にもその香りが漂って来るかのように、その愛くるしさは匂いになって散って行き、二度と見ることのないようなとてつもない人の姿のようでした。
御簾が風に吹き上げられるのを女房達が抑えるのを見て、何を思ったのか笑い出すその顔に、これはマジやばいと思います。
庭の花が心配で、それを見捨てて奥に入ることもしません。
側近の女房達も、それなりに奇麗な姿をしているのをざっと見渡しても、目移りするような要素もありません。
「大臣が絶対に見せないようにしてたのは、こんな見た人が絶対ただでは済まないような美人だから、先読みをして、俺が義母に惚れちまって過ちを犯すと思ったんだな。」
そう思うと、なんかやばいことしてるような気がして立ち去ろうとすると、西の方から中の障子を開けてやって来た人がいました。
「あんまり風邪がひどくて、じっとしてられなくてな。
格子を下ろしなさい。
男だっているんだし、丸見えじゃないか。」
その声を聞いて
父親とは思えないくらい若くて美男で男の色気があって、男盛りなのがやばすぎます。
そして今やって来たかのようにすました声で簀子の方に歩いて来ると、
「ほら見ろ。
見られてしまったではないか。
あの妻戸が開いてるし。」
とその時に女房達に注意しました。
今までこんなことは全くなかったことでしたが、風というのは本当に岩をも吹き飛ばすものです。
息子
家に仕える男達もやってきて、
「まったくひどい風だ。
北東の方から吹いてきてるのでこの区画は特に問題はない。
北東の馬場の御殿や南の釣殿の方が危ない。」
と言って大声で報告しながら動き回ってます。
「中将、どこから来たんだ。」
「祖母のいる三条の宮にいたんだけど、風が強くなるからとみんなが言うんで、心配になって来ました。
あっちはここ以上に心配な所で、風の音が凄くて、祖母もなんだか子供に戻ったみたいに怖がってて気になるので帰ります。」
「そうだな、すぐ行ってやれ。
年を取ると子供に戻るなんて、世間ではいい顔しないけど、実際よくあることだ。」
三条の
《大変な事態になってますが、この朝臣に付いていてもらった方が良いと思い、そちらに使わします。》
と消息文を書きました。
*
六条と三条の間の道では、ひどい強風にもみくちゃにされながらも、そこは生真面目な
内裏の物忌みなどでお籠もりしなくてはならない日以外は、忙しい宮中の仕事や節会などの暇を見ては、たくさんやる事のある中でもまず六条院に行って三条院の
三条院の
「この年になるまで、こんなひどい野分はなかった。」
と、ただぶるぶる震えるばかりでした。
大きな木の枝などの折れる音も何とも恐ろし気です。
御殿の瓦までみんな吹き飛んでしまうような中を「よく来てくださった」とやっとのことそう言います。
かつては崋山院の妹で亡き
今でもみんなから大事にされてないわけではないのですが、息子の
かつてあれだけ愛しいと思ってた人のことを差し置いて、今日見たあの面影が忘れられないのを、これは一体どうしちゃったんだ、相手は義母だしあってはならないことなのに、こんなのやばすぎるぞと、何とか気を紛らわそうとして別のことを考えようとしても、なおその面影が浮かんできて、
「今までもいなかったし、これからもあんな人には出会えないのではないか。
あんな夫婦睦まじい仲じゃ、北東区画のあの花散里など、食いこむ余地がないんじゃないか。
比べ物にすらならない。
何か可哀想だな。」
と思いました。
その面倒を見ている
真面目な性格の
*
明け方には風に湿り気が出てきて、断続的に雨が強く降る状態になりました。
「六条院では離れの建物などが倒れた。」
などと人々が話してます。
風が吹き荒れてた時には広くて、そこかしこ高く聳え立ってたように見える六条院も、大臣のいる南東の区画に人が集中していて、
道の途中は横殴りの雨が冷たく、牛車の中にまで吹き込んできます。
空の方も凄い色に染まって、何だか心ここにあらずな感じがして、
「何やってるんだ、また気になる人が増えちゃったか」
と思い始めるものの
「俺らしくもない、何か頭が変になったのか」
とあれこれ考えながら、北東の区画の方にまず参上すれば、
寝室近くの欄干にもたれかかって見渡せば、築山の木は風に大きく揺れて、たくさんの枝が折れて倒れてました。
草の植えてある方は言うまでもなく、風に飛ばされた屋根の檜皮、瓦、
日がわずかに差し込んできたので、沈鬱な庭の露がきらめいて、空は低い雲が流れて行き、わけもわからず落ちる涙をおし拭って隠しながら咳払いをすると、
「中将の来たという合図だな。
まだ夜も遅いのに」
と言って
何かあったのか、
「最初の頃ですら経験することのなかった後朝の別れになるかな。
今初めて味わうというのも心苦しいな。」
そんな声が聞こえてくるけど、
「なんかいい感じだな。
義母の答えは聞こえないけど、こうやって冗談言ってるのが幽かに聞こえてくるその雰囲気からして、ゆるぎない仲なんだな。」
と思えてきます。
「どうだった。
昨日の夜、宮は待ってて喜んでただろう。」
「ああ。
何でもないことでも涙もろいもんでして、なかなかやりにくいです。」
そう言って笑うと、
「もう先も長くない。
精一杯面倒見てやってくれ。
内大臣はこまごまとしたことに気が回らないようで、ぼやいてたしな。
かなり派手好きで男臭い奴で、親孝行するのでもやたら豪勢にやっては世間を驚かせてやろうとしてるところがあって、あまり深く人のことを気遣う人ではないからな。
だけど、根はいい奴で、とにかく頭がいいし、こんな末法の世には珍しくいろんな才能があって、完全主義で非の打ち所がない。」
そう言うとまた、
「とにかくひどい風が吹いてたが、中宮の方にはちゃんとしたお付きの人がいたんだろうか。」
と言って
《夜の風の音をお聞きになって、そちらの方はいかがでしょうか。
あまり風がひどく吹き乱れるものですから風邪を引いてしまい、ひどく具合が悪くてどうしようかと思ってたところでした。》
との伝言を預かりました。
*
明け方の薄明りにの中で見る
南西区画の東の対の南側の入口の方から寝殿の方を見ると、まだ格子が二間ほど空いてるだけで、ほのかな朝の光の中に御簾を巻き上げてあって、女房達の姿が見えました。
欄干にもたれかかって若い女房達をがたくさんいるのを眺めます。
みんな仲が良さそうで、明け方の光ではまだはっきりとは見えませんが、それぞれみんな美しく見えます。
童女を庭にやって、虫かごに湿気を与えてました。
淡色の紫苑襲や濃色の撫子襲のなどの
薄っすらとした霧に紛れて、何とも華やいだ感じがします。
寝殿の方から吹いて来る風は、ただでさえ紫苑の香りに包まれたこの辺りに薫物の香りを運んできて、それも
大臣の言葉を伝えると、御簾の向こうに宰相の君や内侍などの気配がして、何やらひそひそと相談している様子です。
こちらの方も大臣の所に劣らず高貴な暮らしをしているのを目の当たりに見ると、いろいろまた
南東の区画に戻ってくると、格子は全部開けてあって、昨日の夜に御婦人が見捨てるわけにはいかないと心配してた庭の花が、どこへ行ったかもわからないように萎れて横倒しになってるのが見えました。
「強風をも防いでくれればと子供のように心細く思ってましたが、今は元気づけられました。」
と言うと、
「中宮は妙に弱気になっているな。
女だけではこんな夜は怖くてしょうがなくて、どうして何もしてくれないのかと思ってたんだろうな。」
と言って、すぐに行くことにしました。
「中将の今朝の振る舞いはなかなか立派なもんだ。
この年ではまだ子供なはずなのに、そんな未熟さを感じられないのは子煩悩だろうか。」
そう言いながら、自分の顔は昔と変わることのないいい男だと思っているのでしょう。
やたらこれでもかと気合を入れて身支度を整えると、
「中宮に会うと、こっちが恥ずかしくなる。
表立って気位の高さを見せつけるわけでもなくても、むしろ奥ゆかしいがため、かえって人に気を使わせる。
とにかく穏やかで女らしいものごしにも、芯の強さがにじみ出てしまうのだろう。」
と言って出て行くのを
「えっ、なに?」
「上の空で親父が部屋を出たのも気付かないってことでしょ。」
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