第70話 野分1 嵐の中

 長和4年(1015年)、秋の初め。


 「今年の夏は長かったわね。」

 「暑い上に、病気が流行って、相変わらず世の中もバタバタしてて、まあそのおかげでずっと部屋に籠ってたから、写本も増えたけどね。」

 「これでまた布教しないと。」

 「このまま無事に玉鬘の物語が終わるといいわね。」


 藤式部

 「世の中が早く治まるといいわね。

 今日はまた天変地異の話になるけど、御門の目の病気みたいに本当にならなければいいけど。

 では始まり始まり。」





 中宮アマネイコのいる南西区画の前庭に秋の花を植えていたところ、いつもの年よりも素晴らしい眺めになり、花の種類も豊富で、名木とされるものの皮を剝いだ木、皮を剥がない木など織り交ぜて結い合わせた籬垣ませがきや、萩などの花の枝の姿は朝夕の露に輝いてこの世のものとは思えず宝石のように輝いて、このように再現された秋の野辺の景色を見れば、春の桜の山も忘れて、クールでお洒落で、この世のすべての憂さも忘れるてしまいそうです。


 春秋どっちが良いかという春秋戦争は昔から秋の側に付く人の方が多く、名だたる春の庭園の花園に味方してた人達が、手のひらを返して秋の方に付くのは、宮中の派閥争いにも似てますね。


 中宮アマネイコは日々この庭を眺めながら里で生活していたところ、音楽の遊びなどもしたいとい所ですが、八月は亡き父の命日のある月なので、それを気にかけて何もせずに日々を過ごし、ますます様々な花の色とりどりに咲き乱れる様子を見ているうちに、台風がいつもの年より不穏にも迫って来ていて、空も赤く染まっては黒い雲の出てきて風も吹いてきました。


 一面に咲いてた花が萎れて行くと、特に風流の心のない人でも可哀想だと騒いでるくらいですから、中宮アマネイコのような人は草むらの露の玉が乱れ散るがごとく心取り乱してました。


 春の桜が風に散るのを防ぐのに、大空を覆うような巨大な袖があったらと言ってた人もいましたが、こうした袖は秋の空にこそ欲しいものです。


 日が暮れてゆくと何も見えない中に風が吹きしきり、とにかく怖くなって来れば、格子など閉めてしまいましたが、花を見捨ててしまうみたいで後ろめたく、夜が明けたらとんでもないことになってそうでずっと気に病んでました。


 南東区画の源氏ミツアキラのいる方でも、寝殿前の庭に混ぜた秋の花などの良く見えるように手入れをしてたところ、このように台風風が吹いてきて、春の花の木の根元の方に植えた小萩など、無情にも待ち構えてたように吹かれるがままになってました。


 枝は折れ返り、露の止まる暇もなく吹き散らされてゆくのを、縁側の近くまで来て眺めてました。


 源氏の大臣ミツアキラが明石の姫君の方にいると、息子の中将カタトシがやってきて、東の渡殿の小障子の上の妻戸を開いた時、隙間から特に何思うともなく覗いてみると、女房達がたくさんいるので、立ち止まって音を立てないようにしてしばらく見てました。


 屏風も風がひどく吹いてるので押し畳んで隅っこに寄せてあり、丸見えになったひさしの貴人の座る所にいる人は、まぎれもなく気高く清らかで、はっとそこだけ明るく輝いているような、春の曙の霞の間の山上に見事に薄紅の樺桜の花が咲き乱れたのを見たような心地がします。


 なすすべもなく見るだけの自分の顔にもその香りが漂って来るかのように、その愛くるしさは匂いになって散って行き、二度と見ることのないようなとてつもない人の姿のようでした。


 御簾が風に吹き上げられるのを女房達が抑えるのを見て、何を思ったのか笑い出すその顔に、これはマジやばいと思います。


 庭の花が心配で、それを見捨てて奥に入ることもしません。


 側近の女房達も、それなりに奇麗な姿をしているのをざっと見渡しても、目移りするような要素もありません。


 「大臣が絶対に見せないようにしてたのは、こんな見た人が絶対ただでは済まないような美人だから、先読みをして、俺が義母に惚れちまって過ちを犯すと思ったんだな。」


 そう思うと、なんかやばいことしてるような気がして立ち去ろうとすると、西の方から中の障子を開けてやって来た人がいました。


 「あんまり風邪がひどくて、じっとしてられなくてな。

 格子を下ろしなさい。

 男だっているんだし、丸見えじゃないか。」


 その声を聞いて中将カタトシはまた近寄って覗き込むと、紫の上サキコの声がして、源氏の大臣ミツアキラもほほ笑んでそちらを見ます。


 父親とは思えないくらい若くて美男で男の色気があって、男盛りなのがやばすぎます。


 義母サキコの方もすっかり大人になり、仲睦まじいようなのが身に染みて感じられ、この渡殿の格子も風で開いてしまい、今立ってるところも向かうから見えてしまうので怖くなって立ち去りました。


 そして今やって来たかのようにすました声で簀子の方に歩いて来ると、

 「ほら見ろ。

 見られてしまったではないか。

 あの妻戸が開いてるし。」

とその時に女房達に注意しました。


 今までこんなことは全くなかったことでしたが、風というのは本当に岩をも吹き飛ばすものです。


 息子中将カタトシもすっかり心ときめかして、こんなラッキーなこともあるんだと思いました。


 家に仕える男達もやってきて、

 「まったくひどい風だ。

 北東の方から吹いてきてるのでこの区画は特に問題はない。

 北東の馬場の御殿や南の釣殿の方が危ない。」

 と言って大声で報告しながら動き回ってます。


 「中将、どこから来たんだ。」

 「祖母のいる三条の宮にいたんだけど、風が強くなるからとみんなが言うんで、心配になって来ました。

 あっちはここ以上に心配な所で、風の音が凄くて、祖母もなんだか子供に戻ったみたいに怖がってて気になるので帰ります。」

 「そうだな、すぐ行ってやれ。

 年を取ると子供に戻るなんて、世間ではいい顔しないけど、実際よくあることだ。」


 三条の祖母ムネコの身を案じて、



 《大変な事態になってますが、この朝臣に付いていてもらった方が良いと思い、そちらに使わします。》



と消息文を書きました。


   *


 六条と三条の間の道では、ひどい強風にもみくちゃにされながらも、そこは生真面目な中将カタトシのことで、どんなときも三条宮と六条宮とを往復して顔を出さない日はありません。


 内裏の物忌みなどでお籠もりしなくてはならない日以外は、忙しい宮中の仕事や節会などの暇を見ては、たくさんやる事のある中でもまず六条院に行って三条院の宮様ムネコの所から宮中に戻っていたので、勿論この日もこんな天気の風の中でも必死に歩いているのは大した者です。


 三条院の宮様ムネコも頼もしい人が来たのので、待ってましたとばかり喜んで、

 「この年になるまで、こんなひどい野分はなかった。」

と、ただぶるぶる震えるばかりでした。


 大きな木の枝などの折れる音も何とも恐ろし気です。


 御殿の瓦までみんな吹き飛んでしまうような中を「よく来てくださった」とやっとのことそう言います。


 かつては崋山院の妹で亡き左大臣イエカネの妻として権勢を誇ったのも昔の話、今は孫の中将カタトシだけが頼りと思うと、世の中の流れは無常なものです。


 今でもみんなから大事にされてないわけではないのですが、息子の内大臣ナガミチはあの事件のせいか、やや疎遠になってます。


 中将カタトシは夜通し吹き荒れる風の音にも何となくしみじみとした気分になります。


 かつてあれだけ愛しいと思ってた人のことを差し置いて、今日見たあの面影が忘れられないのを、これは一体どうしちゃったんだ、相手は義母だしあってはならないことなのに、こんなのやばすぎるぞと、何とか気を紛らわそうとして別のことを考えようとしても、なおその面影が浮かんできて、

 「今までもいなかったし、これからもあんな人には出会えないのではないか。

 あんな夫婦睦まじい仲じゃ、北東区画のあの花散里など、食いこむ余地がないんじゃないか。

 比べ物にすらならない。

 何か可哀想だな。」

と思いました。


 その面倒を見ている父の大臣ミツアキラの慈悲深さは大したもんだと思い知りました。


 真面目な性格の中将カタトシなので、行動に移すような分不相応なことは考えないけど、義母のような人と一緒に暮らせたら、限りある命も、少しばかり長く生きらるんじゃないか、としみじみ思いました。


   *


 明け方には風に湿り気が出てきて、断続的に雨が強く降る状態になりました。


 「六条院では離れの建物などが倒れた。」

などと人々が話してます。


 風が吹き荒れてた時には広くて、そこかしこ高く聳え立ってたように見える六条院も、大臣のいる南東の区画に人が集中していて、花散里ノブコのいる北東の方は人がいないんじゃないか、と中将カタトシはすぐにそう思って、まだ夜のほんの少し開けた頃に行きました。


 道の途中は横殴りの雨が冷たく、牛車の中にまで吹き込んできます。


 空の方も凄い色に染まって、何だか心ここにあらずな感じがして、

 「何やってるんだ、また気になる人が増えちゃったか」

と思い始めるものの

 「俺らしくもない、何か頭が変になったのか」

とあれこれ考えながら、北東の区画の方にまず参上すれば、花散里ノブコはすっかり怯えきっていて、何とか言って慰めて、人を呼んであちこち修繕するように言っておいてから、南東の御殿に行くと、まだ格子が閉まったままでした。


 寝室近くの欄干にもたれかかって見渡せば、築山の木は風に大きく揺れて、たくさんの枝が折れて倒れてました。


 草の植えてある方は言うまでもなく、風に飛ばされた屋根の檜皮、瓦、立蔀たてじとみ透垣すいがいなどが散らばってました。


 日がわずかに差し込んできたので、沈鬱な庭の露がきらめいて、空は低い雲が流れて行き、わけもわからず落ちる涙をおし拭って隠しながら咳払いをすると、

 「中将の来たという合図だな。

 まだ夜も遅いのに」

と言って源氏の大臣ミツアキラは起き上りました。


 何かあったのか、義母サキコの声はせず、大臣は不意に笑って、

 「最初の頃ですら経験することのなかった後朝の別れになるかな。

 今初めて味わうというのも心苦しいな。」


 そんな声が聞こえてくるけど、

 「なんかいい感じだな。

 義母の答えは聞こえないけど、こうやって冗談言ってるのが幽かに聞こえてくるその雰囲気からして、ゆるぎない仲なんだな。」

と思えてきます。


 源氏の大臣ミツアキラ自ら格子を手でつかんで引き上げると、あまりに近い所に親父がいるのが何かきまりが悪くて、後ろに下がってかしこまりました。


 「どうだった。

 昨日の夜、宮は待ってて喜んでただろう。」

 「ああ。

 何でもないことでも涙もろいもんでして、なかなかやりにくいです。」

 そう言って笑うと、

 「もう先も長くない。

 精一杯面倒見てやってくれ。

 内大臣はこまごまとしたことに気が回らないようで、ぼやいてたしな。

 かなり派手好きで男臭い奴で、親孝行するのでもやたら豪勢にやっては世間を驚かせてやろうとしてるところがあって、あまり深く人のことを気遣う人ではないからな。

 だけど、根はいい奴で、とにかく頭がいいし、こんな末法の世には珍しくいろんな才能があって、完全主義で非の打ち所がない。」


 そう言うとまた、

 「とにかくひどい風が吹いてたが、中宮の方にはちゃんとしたお付きの人がいたんだろうか。」

と言って中将カタトシに見てくるように言いました。



 《夜の風の音をお聞きになって、そちらの方はいかがでしょうか。

 あまり風がひどく吹き乱れるものですから風邪を引いてしまい、ひどく具合が悪くてどうしようかと思ってたところでした。》



との伝言を預かりました。


   *


 中将カタトシはその場を下がり、中の廊下の戸を通って中宮アマネイコの所へ行きました。


 明け方の薄明りにの中で見る中宮アマネイコの姿は、凛として美しいものでした。


 南西区画の東の対の南側の入口の方から寝殿の方を見ると、まだ格子が二間ほど空いてるだけで、ほのかな朝の光の中に御簾を巻き上げてあって、女房達の姿が見えました。


 欄干にもたれかかって若い女房達をがたくさんいるのを眺めます。


 みんな仲が良さそうで、明け方の光ではまだはっきりとは見えませんが、それぞれみんな美しく見えます。


 童女を庭にやって、虫かごに湿気を与えてました。


 淡色の紫苑襲や濃色の撫子襲のなどのあくめを着て、女郎花襲の汗衫かざみなどは季節に合わせたもので、四五人連れて、あちこちの草むらに近づいてはいろんな虫かごを持って適当な場所を探し、撫子などの無残に折れてしまった枝なども持って来ます。


 薄っすらとした霧に紛れて、何とも華やいだ感じがします。


 寝殿の方から吹いて来る風は、ただでさえ紫苑の香りに包まれたこの辺りに薫物の香りを運んできて、それも中宮様アマネイコのお触れになった香りだと思うと尊く、緊張して立ち止まってしまってましたが、軽く物音を立てて合図して歩き出すと、女房達はあからさまに驚いた顔はしないものの、皆中へ入って行きました。


 中宮アマネイコが入内された頃、中将カタトシはまだ子供でしたので、御簾の中に入ったりもして、女房なども追払ったりはしませんでした。


 大臣の言葉を伝えると、御簾の向こうに宰相の君や内侍などの気配がして、何やらひそひそと相談している様子です。


 こちらの方も大臣の所に劣らず高貴な暮らしをしているのを目の当たりに見ると、いろいろまた紫の上サキコのことなども思い出してしまいます。


 南東の区画に戻ってくると、格子は全部開けてあって、昨日の夜に御婦人が見捨てるわけにはいかないと心配してた庭の花が、どこへ行ったかもわからないように萎れて横倒しになってるのが見えました。


 中将カタトシは正面の階段の所の来て、中宮アマネイコの返事を伝えました。


 「強風をも防いでくれればと子供のように心細く思ってましたが、今は元気づけられました。」

と言うと、

 「中宮は妙に弱気になっているな。

 女だけではこんな夜は怖くてしょうがなくて、どうして何もしてくれないのかと思ってたんだろうな。」

と言って、すぐに行くことにしました。


 直衣のうしを着ようと御簾を引き上げて奥に入って行く時、短い几帳を引き寄せてちらっと見えた袖口はあの人のだろうと中将カタトシは思い、胸が高まる心地になるものの、これではいけないと視線を別の所に向けました。


 源氏の大臣ミツアキラは鏡を見ながら小声で、

 「中将の今朝の振る舞いはなかなか立派なもんだ。

 この年ではまだ子供なはずなのに、そんな未熟さを感じられないのは子煩悩だろうか。」


 そう言いながら、自分の顔は昔と変わることのないいい男だと思っているのでしょう。


 やたらこれでもかと気合を入れて身支度を整えると、

 「中宮に会うと、こっちが恥ずかしくなる。

 表立って気位の高さを見せつけるわけでもなくても、むしろ奥ゆかしいがため、かえって人に気を使わせる。

 とにかく穏やかで女らしいものごしにも、芯の強さがにじみ出てしまうのだろう。」

と言って出て行くのを中将カタトシは眺めながら、特にそれにはっと気づくような様子もないので、目ざとい女房の目にはピンと来るものがあったのでしょう。





 「えっ、なに?」

 「上の空で親父が部屋を出たのも気付かないってことでしょ。」

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