第67話 常夏1 夕涼み
長和4年(1015年)、夏の盛り。
藤式部
「今年は夏が四カ月あるし、いつもの年より暑いようだけど、こういう夜は物語でも聞いて乗り切りましょう。」
とにかく暑い日で、
息子の
親しい殿上人もたくさんいて、桂川から献上された鮎や、賀茂川で石臥しと呼ばれているカジカなどを、目の前で調理してもらってます。
例によって
「暑さで気力もなく眠かったところで、なかなかいいタイミングだ。」
そう言って皇族御用達の酒を持って来て氷水で冷やし、干し飯もその冷水で水汁にして食べました。
風は涼しく吹いて来るけど、天候は安定していて空に雲はなく、西日になる頃には蝉の声も何とも暑苦しく聞こえてきて、
「池の水も役に立たないほど今日は暑いな。
ちょっくら失礼する。」
と言いながら隅っこで壁にもたれて横になりました。
「こんな時には音楽などする気もならないし、そうでなくても過ごしにくくて苦しい季節だ。
こんな時に宮仕えする若者は大変だろうな。
帯を解くこともできないからね。
ここにいる時くらい楽な格好して、宮中であったことなど、何か珍しいこととか眠けも覚めるような話を聞かせてくれ。
この頃なんだか老け込んだようで、世間のこともよくわからなくなってきた。」
なんて無茶ぶりするものの、そんな珍しいことなんてそうそうあることでもなく、委縮してしまい、結局みんなひんやりした廊下の欄干に背中を当てて座ったままでした。
「どこで聞いたことだったか。
と
「大袈裟な。
そんなことさら言うことでもないんだが、春の頃だったか、内大臣の夢に見たことを人に話してた時に、それを噂で聞いた女が、『私に心当たりがある』と名乗り出て来て、中将の朝臣がそれを聞いて、『本当にゆかりの者だという証拠があるのか』とその女の所を尋ねて行ったんだ。
詳しいことは知るべくもないけどね。
実際、この頃興味本位で世間の話題になっていて、あちこちで囁かれてる。
こうした軽はずみに言ったことが家の恥になってしまうのは困ったことだ。」
「妻もその子供たちもたくさん列を成してるのに、その列にはぐれて遅れてしまった雁を無理に探すのは欲張りな話だ。
俺の所は子供が少なくて、そんな隠れた落し種でも見付けたいけど、名乗り出る程の所でもないと思ってるのか、そういう話もなくてね。
まあ、でもその女も全く無関係ということはないだろう。
騒動があると、とかく紛れ込もうとするものがいるもので、清く澄んでない水に映る月は曇るものだ。」
と言って軽く笑いました。
息子の
内大臣家の
「中将朝臣よ。その落葉を拾ってこいや。
馬鹿にされたまま後世に名を残すよりは、同じ家の娘を貰って雪辱を果たすというのも悪くないんじゃないか?」
などと、息子のことをいじってました。
こういうところなど、
まして
「玉鬘のことを知ったなら、軽く扱うことはできない大切な切り札として扱われるだろうな。
とにかくプライドが高く、利用価値の高いものには飛びつく人で、善悪の境もきっぱりしていて、普通の人以上に悪いものは徹底的に貶めるところがあるあの大臣のことだから、隠してたことをどう思うことか。
知らなかったととぼけて玉鬘を差し出したなら、軽く扱いはしないし、誰も近寄れないようにするだろうな。」
などと思います。
夕方になる頃の風はなかなか涼しくて、若い人達はこのままここにいたいと思ってました。
「気軽に休んで涼んでいってくれ。
俺も今となっては、若者に交じってもうざがられる年になったしな。」
と言って西の対に行こうとすると、若い公達は皆見送りにと着いてきます。
黄昏時で姿がはっきり見えず、同じような直衣を着た人達で誰なのかよくわからない状態なので、
「少将や侍従などを連れてきた。
すぐにでも駆け付けたいと思ってた人たちだったのに、中将がとにかく堅物で、今まで連れてこなかったのは人の心がわかってなかったのだろう。
この人たちは、皆思う気持ちがないわけではない。
とりたてて高貴な身分でなくても、家の奥に籠っていても、隠れれば隠れるほど見てみたいと思うものなんでな。
この家の評判も、内部でもいろいろあるというのに、世間ではかなり大袈裟に評価されているところがある。
他にも夫人たちがいるけど、さすがに恋愛対象としてアプローチするにはふさわしくない。
こうして連れてきたのは、そうした恋の相手を求める人の愛の深さ浅さを試そうと、何事もない退屈な中で思ってたことなので、今がその時だと思ったんだ。」
などと囁きました。
前庭には、雑多な草は茂らせずに撫子だけが整然と植えられ、
みんなその前に立ち寄りはするが、思いのままに折り取ることができないのを残念そうに眺めてます。
「風流をわかってる人たちだな。
右中将など、何か心に恥じることがあるのか、この頃何だか静かだな。」
手紙もよこさないけど、どうしたんだ?
決まりが悪いからと言って遠慮しないでほしい。」
息子の
「中将を嫌うなんて、内大臣は何考えてるんだ。
純粋な皇統の血筋の輝かしさにこだわるあまりに、
と言えば、玉鬘の
「催馬楽『我が家』ではないですが、『おおきみいらっしゃい婿にしよう』と言う人はいくらもいるでしょうに。」
と言います。
「まあ、その『肴は何かなアワビにサザエ』ってもてはやされようとは思ってない。
ただ、幼い頃に約束し合った者同士の、気持ちが一つになったままいつまでも離れ離れにさせられてるのは辛いことだ。
まだ身分が低く外聞が悪いと思うのなら、表ざたにせずにこちらに任せてもらえれば、後ろ指さされることもないというのに。」
*
月もない頃なので燈籠に
「近すぎて暑苦しい。
篝火の方が良い。」
と言って人を呼んで
「篝火の台を一つこちらへ。」
と命じました。
洒落た和琴があるのを引き寄せて、軽く掻き鳴らしながら、平調の律にきっちりチューニングしました。
音の抜けも良く、少し弾いて、
「和琴の方はあまり好きでないと、ここ何ヶ月かずっとそう思い込んでた。
秋の夜の月影も涼しい頃に、遠慮などせずに虫の音に合わせて掻き鳴らすには、中国の楽器にはない今風の親しみやすい音だな。
ここは派手な音で気楽に引くと良い。
六弦の単純な楽器だが、多くの楽器のメロディや拍子を演奏できるところが凄い。
やまと琴などと言うと中国高麗に劣るように見えるが、演奏法が確立されてないだけに無限の可能性を秘めた琴だ。
どうせ弾くんだったら、いろんな楽器などに関心を持って、その技法を取り入れながら学ぶと良い。
他の楽器のような秘伝とかもないから、それだけに弾きこなすのが難しく、今の時代ではあの内大臣に並ぶ人はいない。
基本的には、
そう言うと、玉鬘もすうすわかっていたのか、どうして今と思うと不審に思い、
「この六条院でそうした音楽の遊びのときなどに聞くことができるのでしょうか。
得体の知れぬ田舎者の中にも和琴を学ぶ人はたくさんいることですし、そんな難しく考えなくてもと思ってました。
その方が凄いというのは、全く別のことなんでしょうか。」
と興味を持って、聞いてみたいと切実に思いました。
「その通り。
楽器の親を学ぶのには、親とすべき名人から学び取るのが一番いいことでしょう。
この六条院にも何かの折には来ることもあるだろうけど、和琴に関しては出し惜しみせずにここぞとばかりに掻き鳴らしてくれるかどうかというと、かなり難しい。
どの分野でも名人というのはそんな安売りはしないものだ。
それでもいつかは聞くことになると思う。」
そう言って少し曲を弾きます。
その奏法は音に厚みがあり、今風で面白いものです。
「これより凄い音を出すのか」とますます親に会いたい気持ちが募り、和琴一つ取っても「いつの世になったら本当の親子になって、その演奏を聞くことができるのだろうか」
と思いました。
催馬楽『
♪貫河の逢瀬の柔らかい手腕枕
柔らかに寝る夜はなくて
親引き裂く夫
と何とも甘い声で謡います。
「親引き裂く夫」の所は少し笑いながら、さりげなく六弦を掻き鳴らしてはミュートする余韻が、言いようもなく面白く聞こえます。
「さあ、弾いてみなさい。
恥は芸の大敵という。
『想夫恋』という唐楽なら、心の中で夫を思って弾いては気を紛らわす人もあるという。
恥ずかしがらずにいろんな人と合わせながら学んでいけばいい。」
そう言ってしきりに勧めるものの、あの田舎の片隅で、自称京都人の古大君女に習ったものなので、正しい弾き方かどうかもわからずためらっては、和琴には手を触れません。
「少しでも弾いてくれ。
何かわかるかもしれない。」
とじれったく思ってると、
「どういう風が吹けばこんなに響くのでしょうか。」
と首をかしげる様子が、火影に美しく見えました。
「私のこの風の思いを聞こうとしない人には、身に染みるような風が吹くことになる。」
と言って和琴を遠ざけてしまいました。
意地悪なことです。
女房達が近くに控えているので、いつものように戯れに迫ってくるようなこともなく、
「撫子を鑑賞しないで、みんな帰ってしまったのかな。
内大臣にもこの花園を見せたかったのに。
人生どうなるかわからないと思うと、昔何かのついでに撫子のことを語ってくれたのが、つい今しがたのことのようだ。」
そう言って昔のことを口にするのも何とも悲しそうです。
「撫子の床懐かしき色見ようと
元の垣根を誰が尋ねる
事の難しさに、蚕の繭に閉じ込めしまうのは、俺だってころぐるしいんだ。」
「山人の垣根に生えた撫子の
元の根っこを誰が訪ねる」
儚げにそう言って泣いてる様子が、本当に魅力的で若々しく思えます。
♪尋ねて来なかったならば
と古歌を暗唱しては、ただでさえ悩ましい心の内が、余計に堪えることができなくなってきます。
*
西の対へあまりにも頻繁に通うものですから、女房達に見つかりそろそろ注意されるのではないかと思い、心の中に鬼を抑えなくてはと思いとどまるのですが、何かと用事にかこつけて手紙が途絶えることはありません。
ただこの煩悩だけが、明けても暮れても心の中を占めてました。
「何でこんな馬鹿なことをしてばかりで気持ちが収まることがないんだろうか。
もうやめようと、このままだったらそのうちスキャンダルになって世の人の非難を浴びて、自分のことはともかく、玉鬘にとって可哀想なことなってしまう。
どうしても欲しいんだと思っても、紫の上の長年連れ添った愛と秤にかけるほどのものとは思えない」
それはわかってました。
「なら、それ以下の妻達の列に加えるなら問題はないだろうか。
自分一人なら源氏姓とはいえ王族の血を引く者で、そこいらの殿上人や上達部ではないが、たくさん妻がいる中の末席に据えるだけなら、たいした身分にはなれない。
それだと、何の変哲もない納言クラスの上達部の正妻になるよりも劣ることになる。」
それくらいは自分でも分ってるので、そんなことをしても可哀そうなだけで、
「兵部の卿の宮や右大将に結婚を許そうか。
そうして連れ去ってくれて離れ離れになれば、この思いも忘れられるのだろうか。
残念なことだが、そうしてみようか。」
と思う時もあります。
それでも、
それならここでずっと世話をすることにして、その都度気が向いたらこっそり通って、様子を見るだけで我慢しよう。
まだ男女の仲を理解してないあたりが面倒くさいし、可哀想でもあるけど、まあいくら関守が頑張ってても、ちょっと居眠りしたりして隙があればその手のことは覚えてしまうもので、そんな困ったことでもなく、俺の愛の方が勝ってるから、筑波山の歌垣にいくら人が大勢来ても問題ないと思ってる辺り、何とも怪しからんことですね。
どっちにしてもうかうかとしてはいられないと、恋から逃れられないのは苦しいことでしょう。
適当にやり過ごすことがどうしたってできないのが、世間の理屈では割り切れない男と女の仲の面倒くさい所なのです。
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