第65話 蛍1 端午
長和4年(1015年)、夏の初め。
「前回は寸止めだったけど、今度はどうなのかな?」
「賭けない?」
「我慢できるわけない方に一票。」
「まあ、はしたない。」
「そろそろ始まるよ。」
「今日も熱い戦いが。」
藤式部
「暑くなってきたけど、今日も始まり始まり。」
源氏の君も摂政の地位にありながらも、国政は
西の対の
あの大夫の監の時の憂鬱ほどではないにせよ、せっかくこの上なくやんごとなき筋に保護されたのに、それでも人には言えないことが起きて、自分一人で悩み、どこに行っても嫌なことばかりと思ってました。
もう十分判断の出来る年齢なので、いろいろ思案を重ねるものの、母を亡くした遺恨が今さらながらに思い返され、悔しくも悲しく思います。
元々陽気で気さくな人柄なので、とにかく仏頂面で張り詰めていても、可愛らしさは隠すことができないものです。
兵部の卿の宮は小まめに手紙をよこします。
こうした御苦労もまだ始まったばかりなのに、五月雨の物忌みの季節になるのを残念がって、
「もう少し近くに居させてもらえれば、この物思いの一端でも晴らせるものを。」
と書いてきてるのを源氏の大臣がご覧になって、
「何か問題はあるのか?
この公達に思われるだなんて、見込みがあるじゃないか。
遠ざけたりしちゃいけない。
その都度返事を書きなさい。」
そう教えて書かせるのですが、ますます嫌になって、病気で気分が悪いといって聞きません。
女房達の中にも特に親王大臣クラスの女房から引き抜いてきたような人は全くいません。
ただ一人、母君の叔父の納言クラスに入らない宰相程度の人の娘で、性格的にもそう悪くはなく、没落した家から探し出してきたため、宰相の娘君とはいっても、書の方はなかなかで、それなりに落ち着きのある人で、こうした手紙などの返事を書く時には、この人を呼んで源氏の言うままに書かせてました。
兵部の卿の宮へのお返事を書かせる時の源氏の様子に、何とかしなくてはと思ったのでしょう。
その人は、このように異様に塞ぎ込むようなことがあったあと、兵部の卿の宮が愛情のこもった手紙を書いてきた時、しばらく見入ってしまうこともありました。
兵部の卿の宮のことはともかく、
*
寝殿の側面の両開きの出入り口に四角い敷物を敷いてそこに座らせました。
入念な配慮のもとに、陰から漂って来る
宰相の君なども、
夕闇時を過ぎて、空は曇っててはっきりしない天気で、兵部の卿の宮のしっとりとした様子も優雅なものです。
几帳の中から漂って来る風も、
兵部の卿の宮が切々と思う心を語り続ける言葉は、いかにも大人な感じで、ひたすら助平ったらしく口説くといったこともなく、さすがに品があります。
大臣もこれは面白いと、裏で聞いてます。
「随分面倒なやり方をするな。
どんなことでも空気を読んで、好印象を心掛けた方が良い。
若者のようにぐいぐい押してくる状態でもないから逃げる必要もない。
それに、こうした親王クラスの人に人づてに応対するようなことはやるべきではない。
いちいち返事はしなくていいけど、もう少し近くで話すように。」
そう忠告しても、やはり耐え難く、しかも
兵部の卿の宮の長々と喋る言葉に返事をすることもなく、言葉に躊躇してるので、
紙燭を差し入れたのかとあっけにとられました。
蛍を
急にパッと光ったのでびっくりして、扇で目を覆った横顔も、なかなか愛嬌があります。
「もの凄い光を見れば、兵部の卿の宮も覗いてみるはずだ。
俺の娘だと思っているからさぞかし綺麗だろうと思って、ここまで熱心に結婚を申し込んでるんだろう。
見かけも性格も両方備えてるとまでは思うまい。
こんなけ興味持ってくれてるんだから、もっともっと誘惑してやろう。」
などと企んでます。
本当の娘なら、こんな弄ぶような騒ぎ方はしないはずで、ほんと困った人です。
兵部の卿の宮は
すぐにその光は隠されてしまいました。
それでもほのかな光に、この美しさだけでもまた惚れてしまいそうです。
そのほのかな中に横になっている、すらっとした体つきの女性の美しさをもっと見ていたいと思い、深く心に刻み込みました。
「鳴き声もしないこの虫の秘めた思い
消そうとしても消せなんてしない
身に染みるようです。」
こういう時の返歌は考え過ぎても上手く伝わらないもので、とにかくすぐにと、
「声もなく身を焦がしてる蛍の方が
言葉にまさる思いなのでしょう」
そう、ストレートに返して
自分が何かやらかしたように思われてもいけないので、兵部の卿の宮はそのまま夜を明かすこともなく、軒から滴す雫も涙雨で、びしょ濡れになりながら夜遅く帰って行きました。
こういう時はホトトギスなども鳴くものですが、月並みな趣向なので聞かなかったことにします。
宮様の立ち居振る舞いの優雅なのは、本当
昨晩の
「悩みは自分一人で抱えるしかないのだろう。
これが本当の親が見つかって、家族の一員として迎え入れてもらっていて、ここまで面倒見てくれてるのだったら、何一つ問題はないのに。
娘でも妻でもないこんな嘘っぱちの状態が発覚したりしたら、とんでもないスキャンダルになるに決まってる。」
寝ても覚めても思い悩むばかりです。
そうは言っても
ただ昔から変わらない浮気癖で、
*
五月五日には北東の区画にある馬場殿へ行くついてに、また西の対の
「どうだったんだ?
兵部の卿の宮は夜更けまでいたのか?
あまり近づけるんじゃないぞ。
何やらかすかわからない奴だからな。
人を傷つけたり過ちを犯したりしない人なんて、まずいないものだ。」
などと、宮様のことを生かさぬように殺さぬように指導してゆくその手管は、ほんと子供のような無邪気さすら感じさせます。
溢れ出るような色つやの
兵部の卿の宮から手紙がありました。
薄い鳥の子紙に見事な筆跡で書いてあります。
こういうのは見るだけだから面白いんで、真似しようとすると悲惨なことになりそうな。
《今日でさえ引く人もない水に隠れ
生えてる菖蒲のねを上げて泣く》
和歌でもしばしば引き合いに出させる菖蒲の根に、結び付けてあったので、「今日は返歌をしろよ」とそそのかしておいて、
女房達も「その通りよ」と言うので、
《見てみたら何だか浅いみたいじゃない
あやめか知らないけど泣いてた根を
お若いですね。》
とだけ幽かに書いてあります。
「もう少し気取って書いてくれたらな」と兵部の卿の宮は気に入ったようで、これで熱が冷めることはなさそうです。
端午の節句の薬玉なども見事なもので、
長年苦労してきた頃の面影はすっかりなくなったかのようで、気持ちが緩むことも多くて、「できれば相手方も傷つくことなく終りにできたらな」と願わない日はありません。
「息子の中将が今日の左近の司の
まだ明るいうちに来るはずだ。
なぜかここには目立たないように隠れ住んでいても、親王達が聞きつけて訪ねてきたりするんで、自ずと盛大なものになるから、心してかかれ。」
と言います。
馬場の御殿は東の対のこの廊下から見えるくらい近くにあります。
「若い女房達は、渡殿の戸を開けて見物すると良い。
左近の司には家柄の良い官人がたくさんいるはずだ。
下層の殿上人にも劣ることはない。」
と言えば、見物に興味を持ちました。
西の対の方からも
親し気で好感の持てる四人ほどの下仕えは、
東の
まだ若い殿上人などは、目を釘付けにして見とれてます。
昼過ぎの未の刻に、
見物する女性陣は競技のことなど「あやめも知らぬ」とはいえ、近衛府の下級の舎人までもがきらびやかな衣装を着て、身を賭したアクロバット的な秘術を尽すだけでも楽しめます。
馬場殿は南東区画の境界線まで南北に長く作ってあり、その向こう側でも同じように若い女房や童女たちが見物してました。
中国風の衣裳で
舎人達も褒美の禄や様々な品々を賜りました。
すっかり夜も更けて、見物の人達も戻って行きました。
大臣はこの北東区画の
いろいろな話などを聞くと、
「兵部の卿の宮はなかなか他の人よりも良さそうだな。
見た目は老けてて今一だけど、立ち居振る舞いなどは優雅で愛嬌がある奴だ。
覗いてみて、見えただろう。
悪くはないがあと一歩ってところか。」
「あなたの弟さんだと聞いてますが、あなたよりもずいぶんと年上に見えますね。
この頃はこんな頻繁に通って来るので、親しくなさってると聞いてますが、昔の内裏の辺りではほんのちらっと見ただけで、よくわかりません。
ほんと良い意味で大人の風格がありますね。
もう一人の弟さんの
「よく見てるもんだな。」
そう言って笑って、
人のことを難癖つけて貶めるようなことを言う
今はただおざなりの夫婦仲で、寝床も別々にして眠りました。
なんでこんなに冷めてしまったのかと
「馬ですら食べない草と言われてる
汀の菖蒲を今日は刈る日ね」
と穏やかに歌います。
何てことはないと思っても悲しくなったのでしょう。
「鳰鳥のように一緒の若い馬は
何で菖蒲を刈って別れる」
まあ、遠慮のないやり取りですね。
「いつもは遠い所にいるようでも、こうして会えば心が休まる。」
本気で言ってるとは思えない言葉ですが、そこは穏やかな人柄の
寝床の方は
添寝するのも今さら似合わないとあきらめて、
「結局語り交わしたのね。」
「馬も食わぬあやめを刈っちゃった。」
「珍獣?」
「添寝まではしない、微妙な距離感ね。」
「『聞こえ
「どっちとも取れる。」
「ルリはどうなったの?相変わらず寸止め?」
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