第64話 胡蝶2 義父
四月の衣更えで季節も清々しく改まる頃、空模様すら何となく妙に心地良く思え、何事もなく長閑な日々にいろんな音楽を楽しんで過ごしていると、西の対の
兵部の卿の宮からも、たいして時も経ってないのにじらされて困ってるようなことを延々と書いた手紙を見るにつけても、
「兵部の卿は
やっぱ返事は出さにゃいかんな。
それなりに由緒のある女ならあの親王よりほかに歌を交わすようなひとはこの世にいない。
ほんとに風流の心ある人だ。」
と若い女なら食いつきそうなことを言っても、遠慮するばかりでした。
右大将スケザネという、糞真面目で見るからにくどい顔の男が、恋の山には孔子も倒れるを地で行くように、真顔で懇願するのもこの女には面白いかもと、他の手紙と見比べる中に、中国製の水色の紙になかなか惹き寄せられる深い香りが染みてる小さな結んだものがありました。
「これはどうしてこんな結んだままにしてるんだ?」
と思って開いて見ます。
なかなか面白い書体で、
《思ってると君は知らずたぎるよな
岩から溢れる水に色がないから》
今風の散らし書きで気取って書いてあって、
「これは何なんだ?」
と聞いてはみても、これといった答えも返って来ません。
右近を呼んで、
「このように手紙をくれた人をよく吟味したうえで返事を書かせなさい。
助平たらしい今どきの遊び人が困ったことをしでかすのも、必ずしも男の責任とはいえない。
自分のことを考えても、何だよ薄情な、そこまで冷淡にしなくてもと、そういう時に我を失うものだ。
思い通りにならない人ほど特別な人に見えてしまうもんでね。
特に深い意味もない季節の花や蝶にかこつけて書いた手紙などは、無視して怒らせたりすると、かえってならば何としても落してやろうとなるもんだ。
そういう一時の気持ちだとすぐに忘れてしまうもんで、それは男の罪ではない。
物のついでのようなどうでもいい手紙に素早く反応するのも、何でもないようでも後々こじれる元だ。
大体女は遠慮なしに思うままに人の心がわかったような顔をして、何か面白いことないかと思って返事したりすると、願いごとをむやみに聞いた神社が果てない嘆きの森になるみたいに収拾のつかないことになる。
だが、兵部の卿や右大将なら考えもなしにいい加減なことを言ってるわけでもないし、逆に人の心がわからないような顔をしてるのも、この状況にはそぐわない。
この二人より下の身分の者だったら、熱意に応じて愛情を判断すればいい。
苦労に応じてということだ。」
そう言うと
そうは言っても田舎に長く居た名残なのか、ただそれだけであまり主張のない感じに見えます。
六条院の他の人のファッションもいろいろ見てきて、体裁を取り繕って優雅にふるまい、化粧なども念入りにするようになって、ますます欠点もなくなり華やかで美しくなりました。
余所へやると思うと何だか勿体ない気がしてくるようです。
右近も、それを聞いてふっと笑い出し、「親にしてはやけに若いわね。こうやって一緒に並んでたら仲の良い夫婦みたい」と思いました。
「私は人の手紙を取り次いだことはしてませんわ。
これまでもあなたの知っていてご覧になった三四通は、返事を出しても気まずく思われてもいかがかと思って、あなたからの手紙だけ受け取ってますが、返事は言われた時だけにしてます。
それすらも辛いことではあります。」
「ところでこの結んであった初々しい手紙は誰からだ?」
何かうまいこと書いてあるじゃないか。」
と、にやにやしながら見せてやると、
「あれは断ってもしつこくやって来るもので。
内大臣の息子の中将がここに仕えている
特に見る人もなくて。」
と言うと、
「何だ可愛いじゃないか。
身分が低いとはいえ仕えてる人たちに気まずい思いをさせまいとはな。
公卿といってもこの中将には及ばない人も多い。
内大臣の息子の中でも、特にどっしりした落ち着きのある人だ。
自ずとわかる日も来るだろうけど、今は真相を明らかにできなので、何とか誤魔化しておこう。
なかなか歌も書も見事なもんだ。」
そう言っていつまでも手にしてました。
「このように何やかんや言えば、思う所もあるかと思うと心苦しいが、あの大臣に知ってもらわなくてはならない事情というのも、まだあなたは若いし身分も何もないし、長年経て既に他の婦人方とともに出世した家族の中に入って行くのも大丈夫かとあれこれ考えているんだ。
やはりここで伴侶を見付けて身分を定め、晴れて殿上人となった時、ついでに話してみようと思う。
兵部の卿の宮は独り者のようだけど、あれでいて結構遊んでいて、通ってる女もたくさん噂に聞く。
そんなことがあっても憎んだりせずに修復しようという人なら、穏便に上手くやってくれることだろう。
多少なりとも嫉妬の癖があるなら、あの人はそのうち自然と嫌気がさしてくるだろうから、覚悟がいるな。
右大将の方は、長く連れ添った人がすっかり年取ってしまって、そこから逃れようとしてるのだろうけど、それも周囲との厄介ごとになりそうだ。
そういうこともあっていろいろあるから、俺の中でも決めかねてるんだ。
こういったことで、親なんかにはっきりと自分の考え言うのは難しいことかもしれないが、もうそんな年でもないだろう。
今は自分で決められないこともないと思う。
俺を昔あなたが慕ってたような母親だと思ってくれ。
期待に添えなかったら済まないが。」
などと、真剣に語って聞かせると、考え込んでしまい、返事も出来ませんでした。
このまま返事しないのも何か子供っぽくて良くないと思い、
「物心つかぬ頃から親というものを見たことがないのが当たり前になっていたので、どうにも想像がつきません。」
といかにも穏やかにそう言うと、なるほどと思って、
「ならば世間でよく言う所の『新しい父さん』とでも思って、半端な気持ちで言ってるのではないことを証明しましょう。」
そういったことを語り合いました。
下心の方はみっともないので表には出しません。
仄めかすような言葉を時々交えてはみたけど反応がないので、何とはなしに溜息をつきながら帰ろうとします。
前庭に近い所の淡竹がみずみずしい若葉を拡げ、風に揺れ動く様子に目が吸い寄せられ、立ち止まると、
「同じ庭の根から育った竹の子が
それぞれの恋に離れ離れか
子を思うのも悲しいばかりだ。」
それを御簾を引き上げて聞いていたのか、膝で歩いて出てきて、
「それぞれの恋って今さら若竹が
生まれた根っこを欲しがるはずも
そんなことになっても困ったことでしょ。」
そう言われると、とにかく悲しく思いました。
本心は違っていて、本当の父を求めているのでしょう。
いつかきっと本当の父に伝えてくれることがあると待ち望むのも悲しいけど、この大臣の心遣いも有り難くないわけではなくて、実の親とはいってももとよりいきなり現れた見知らぬ娘に、これだけ大切に扱ってくれるかどうかと、昔の物語などを読んでも、だんだん人間がどういうものか、世間がどういうものか理解してたので、自分から名乗り出ることは難しく、ここは大人しくしてた方が良いと思います。
「不思議な魅力を持った人なんだな。
昔の女の方はどこかはっきりしない所があった。
この姫君は物事がよくわかってるみたいで、人を恐れないしあまり心配することがない。」
などと褒めてました。
ただでは済みそうもない性格を知ってるので、思い当たることもあって、
「そんな賢い方だというのに、すっかり信用して仲良しになって頼り切ってるなんて気の毒ね。」
「だって、本当に頼もしいだろ。」
「それはどうだか。
私だって父親のように思ってたのに、いきなりひどいことされて悩んていた頃があったし、思い当たるふしがあるんじゃない?」
と笑みを浮かべてそう言われてみると、あっ(察し)と思い、
「いやなこと蒸し返すなあ。
あの姫君はそういうことを知らない年でもないし。」
そう言うと面倒くさくなって、途中で言葉を飲み込んで、心の中で、
「こいつがそう思うくらいだからな、どうしたものか」とあれこれ考え、その一方では、自分で言うにも常識がなくて怪しからんことを考えてるなと自覚するのでした。
*
そんなことが心に引っ掛かったまま、何度も西の対に通い、
雨がひとしきり降った後のむわっとする夕方、庭先の若葉の楓や柏の木などが青々と茂っていて、何となく気持ちのいい空を眺めやれば、
「四月の天気和してまた淸し」
と白氏文集の詩句を口ずさんで、まずはここの
字の練習などして隙だらけの所の訪問に、体を起こして恥じらう表情がなかなかそそられます。
物腰の柔らかさに、ふと昔の女を思い出して我慢できず、
「初めて会った時はこんなにも似てるとは思わなかったけど、時々なぜかそのものではないかと思うこともあってな。
奇跡としか思えない。
息子の中将に昔の母の面影が少しも感じられないから、親子というのは似ないものだと思ってたけど、こんな人もいただなんて。」
と言って涙ぐみました。
果物を乗せた箱の蓋のなかに橘の実があるのを手に取って、
「橘の袖の香りの歌のように
昔と違うとは思えないんだ
いつになっても心に引っかかって忘れることができなくて、それをなだめることもできず長年過ごしてきて、今こうしてお会いすると夢かと思えて、ますます気持ちを抑えることができないんだ。
冷たくしないでくれ。」
そう言って手を握ると、
「袖の香に喩えられてた橘は
そのみもはかなくなったというわ」
うざいと思って下を向いてしまう様子さえ、とにかく抱きしめたくなり、握った手のふっくらと柔らかな感触、体つき、肌のきめ細かな美しさなど、このままでは満足できないという気持ちになり、今日初めて少しながら思いを告げてみました。
「何をそんな嫌がってるんだ。
こっそり入って来たので、人に見つかって咎められる心配はない。
何事もないかのように愛し合おう。
この浅からぬ思いを受け入れるなら、この世に他にないような気持ちになれるというのに、ここに手紙を書いてきた人たちよりも落ちるとでもいうのか。
ここまで深く愛してる人はこの世に他にいるわけないんだから、他の人には任せられない。」
ほんと余計な親心です。
雨は止んで、竹に風が生じると、月の光が華やかに射してきて、美しい夜の景色も静まり返る中、女房達は親密な語らいということで気を利かして、近くにいるようなことはしません。
いつも会ってる二人のことですから、こんな良い機会もなかなかないので、口にしたことによって止めることの出来なくなった感情のままに、体から滑り落ちる着物の気配をうまくごまかすように隣に横になれば、女君はとにかく情けなく辛く、女房達に気付かれることもなさそうなのも最悪です。
「本当の親だったなら遺棄や虐待はあってもここまで嫌悪すべきことはしません。」
と悲しくて、いくら堪えても涙が溢れ出て、本当に痛々しくて、
「そんなふうに思われてしまう俺の方が辛いじゃないか。
見ず知らずの他人でさえ、世間の理屈では皆許されてるというのに、何で長く仲良くしてきたのにそんなふうに思うんだよ。
一体何が嫌なんだよ。
こんな一途に思う気持ちは誰も見せたことはないだろう。
気まぐれに通って来る男以上の気持ちなんだから、それを満たして何が悪い。」
と狂おしくひたすら求めて何度もこうした言葉を繰り返しました。
ただそんな衝動に加えて、こうしていくら愛を叫んでも返ってこないことが、夕顔の亡くなった時と同じような気がして、どうしようもない悲しみが込み上げてきます。
われながら、「これはいきなり考えもなしにやってしまった」という自覚が出てくると深く反省し、女房達に変だと思われてもいけないので、まだ夜も更けぬうちに出て行こうとします。
「嫌いだというなら、こんな残念なことはない。
他の男だったら、こんな途中でやめるような馬鹿なことはしないもんだ。
底のない淵が静かで浅瀬が騒がしいようなもので、俺の底なしの愛情は誰も咎めることはない。
ただ、昔の恋の慰めにでも、これからも他愛のない話をしようと思う。
同じように他愛のない話で返してくれ。」
と十分気を使って話しかけたものの、心ここにあらずの状態なのでますます辛い気持ちになって、
「おれのことをその程度にしか見てなかったなんて、ほんとそこまで蔑んで嫌っていたのか。」
と溜息をつくと、
「このことは絶対に知られないようにしろよ。」
と言って出て行きました。
「源氏の大臣殿の御配慮こと細かく行き届いて有難いもんですね。
実の親だって、ここまで気を使って大切にすることはないでしょう。」
などと、
*
またの朝、御文とくあり。
気分がすぐれないと言って寝てましたが、女房達が硯など持って来て、早くお返事をと言われたので、しぶしぶ読みました。
白い紙は表向きは普通で特に何てこともなく立派な筆跡です。
《普段とは違うご様子のようだが、俺だって辛かったことはまだ忘れられないんだ。
果たして人はどう思うかな。
抱き合って寝たわけじゃない若草が
何を悩んでそんな顔する
子供のように拗ねてるのかな。》
こんなあくまで父親づらした言葉で、嫌悪以外の何もないけど、返事を書かないのも人目もあることですし、分厚い陸奥紙に、ただ、
《御手紙拝見。
病気なので返事は御勘弁を。》
とだけでした。
「こういうところは本当、真面目なんだな」
とにんまりして、かえって落し甲斐があると思ったのでしょう。不気味です。
こうやってはっきり行動に出たあとは、恋に悩む大田の松の「いつか行動に出して逢おうと言おう」なんて悠長なことはせずに、その後もしつこく迫ることが多かったので、ますます居場所がなくなり、どうして良いかわからずに思い詰めてゆき、本当に病気になってしまいました。
真実を知る人は少なく、親しい人もそうでない人も源氏を実の父と疑ってないので、
「こんなあわや父子相姦なんてことがあったというのが知れ渡ったら、人から忌むべきものとして嘲笑の的となり、一大スキャンダルになるにちがいない。
本当の父の大臣の耳に入ったとしても、真面目に相手してくれるとは思えないし、ましてこんな浮ついた噂を聞いてからだと、やはりそうだったのかと思われるだけだし。」
と八方ふさがりで出口がありません。
兵部の卿の宮や
かつて「岩から溢れる水に色がないから」の歌を届けてきた
「やっぱりね。」
「お約束だし、最初の伏線もわかりやすいし。」
「拒めば拒むほどぐいぐい来る。」
「でも拒まなくてもぐいぐい来る。」
「進むも地獄、退くも地獄。」
「式部様の得意パターンね。」
「絢爛豪華な玉の台の裏側で、誰も助けに来ない秘密の情事。」
「六条院の姫君になるなんて羨ましいと思ったけど、普通の女房で良かったわ。」
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