第63話 胡蝶1 春の宴

 長和4年(1015年)、春の終わり頃。


 「ペース早くなった。」

 「春だけで三巻行きそうね。」

 「瑠璃姫の方、そろそろ展開するのかな。」

 「栄華の描写が長くて、そっちのペースは緩い。」

 「極楽浄土のような六条院の瑠璃姫で、やっぱ略して浄土の瑠璃姫、浄瑠璃姫。」

 「月ならぬ内大臣家から落ちてきた。」


 藤式部

 「はい、では始まり始まり。」





 三月も二十日を過ぎる頃には、春の庭の様子も花の色、鳥の声がいつになく絶頂を迎え、他の所はまだここまでの春が来てないのかと、妙な感じにもなります。


 築山の木立や池の中島の辺りは苔のいろも鮮やかになり、若い人達はそれだけでは物足りなく思い、中国風の舟を造らせました。


 急いで装束を調え、進水式の日には雅楽寮うたつかさの人を呼んで、船の上で演奏させました。


 皇族や上達部など、たくさん見に来ました。


 中宮アマネイコもこの頃六条院に戻って来てました。


 あの「春が好きで待ち望んでるこの庭に」という挑発的な歌のリベンジもこの時かと思い、大臣の君ミツアキラも何とかしてこの花の満開の庭を見せてあげたいと思うものの、大義名分も無くて気軽にやってきて花を観賞するような身分でもありません。


 そこで、南側の池が南東から南西の区画に跨っていて、小さな築山を関山に見立ててましたが、その山の鼻の所から西南区画の若くて好奇心旺盛な女房たちを舟に乗せて漕いでいって、東南区画の釣殿に集めました。


 龍頭鷁首りょうとうげきしゅという舳先に龍やゲキという伝説の水鳥の飾りがある舟を中国風にギラギラと飾り付けて、舵取りや棹を差すわらわたちの髪を角髪みづらに結って中国っぽくして、庭の池の広い所に漕ぎ出せば、気分はすっかり異国にいるかのようで、こうした舟を初めて見た女房は心から楽しそうでした。


 中島の入江の岩陰に舟を漕ぎ寄せてみると、何ということのない岩の風情もまるで絵に描いたようです。


 あちこちの霞みがかかった木々は錦を織りなすようで、紫の上サキコのいる御殿も遠くに見えて、ますます色鮮やかになる柳は枝を垂らし、花も何とも言えぬ芳香を放ってました。


 余所では盛りを過ぎた桜も、今を盛りにほほ笑み、回廊に沿って植えられた藤の色も、深紫の花が咲き始めてます。


 まして池の水に影を映す山吹は、岸よりこぼれ出て、これも真っ盛りです。


 水鳥の雄と雌は一緒に遊んでいるかのように泳ぎ、細い枝などをついばんでは飛び交います。


 オシドリの波立つ水面の綾のような輝きに波紋を加え、それがなかなか絵になっているので描き写したいくらいで、いつの間にか斧の柄も朽ち果てみたいに、あっという間に日は暮れてゆきます。


 「風吹けば波の花まで色づいて

     これぞ名付けて山吹の崎」


 「春の池はあたかも井出の川瀬みたい

     岸の山吹は底まで匂う」


 「亀が背負う黄金郷の蓬莱の

     舟に不老の名を残しましょう」


 「春の日のうららに漕いでゆく舟は

     棹の雫も花と散ってく」


 こうした他愛のない歌でも、皆思うがままに詠み交わして、行く先も帰る里も忘れたかのようで、若い女房たちの心を魅了するのももっともな水鏡なのでしょう。


   *


 日が暮れかかる頃、『皇麞おうじょう』という曲でなかなか盛り上がってきた所で、残念ながら舟は釣殿に戻って来て女房たちも下船しました。


 ここの装飾はほんの簡単なもの済ませてるところが品が良く、あちら側の若い女房達の競うように飾り尽くした装束、容貌ともに、遠くからでも柳桜をこき混ぜた都の錦にも劣らぬように見えます。


 宮中でもあまり演奏されない珍しい曲なども演奏します。


 舞う人達も特別な人を選んで‥。


 夜になるとまだまだ飽き足らぬとばかりに、前庭に篝火を焚いて、正面の広い階段を降りた所の苔の上に楽師を呼んで、上達部、親王たちも皆それぞれの弦楽器、管楽器を思い思いにヘテロフォニックを奏でます。


 楽師たちの中でも一番の名人が基音を奏でると、階段の上にいる人たちはそれに合わせて弦楽器をチューニングし、盛大に弦を掻き鳴らして呂の調べの『安名尊あなとうと』を演奏すると、「生きてて良かった」と何の音楽かも知らない庶民が門の辺りの馬や牛車を止める所に入り込んで、顔をほころばせて笑ってました。


 湿った空気に籠る楽器の音は春の呂の調べに相応しく、その響きは全く違うものであることもこうした人々は識別できるのでしょうか。


 夜通し演奏は続きました。


 転調して律の調べの『喜春楽きしゅんらく』が付け加わり、兵部の卿の宮は同じく律の『青柳』を繰り返し繰り返し楽しそうに歌いますと、ここの主の源氏の大臣ミツアキラの声も加わりました。


 夜が明けました。


 朝ぼらけの鳥の囀りを中宮アマネイコは隣の区画で妬ましく思って聞いてました。


 源氏の大臣ミツアキラとその奥方サキコはいつも春の光を独り占めしてるかのようですが、結婚したくなるような女性がいないのを不満に思ってる人もいたところ、西の対にやって来た姫君ルリは娘だから手を付けないで、源氏の君ミツアキラも距離を置いて大切にしてるようにみんなに思わせていて、そのかいあってか飛びついてきた男たちも多いようです。


 我こそはと自負するだけの身分の人はいろいろ伝手をたどってその思いをほのめかし、口にも出して言うこともありましたが、その陰には言い出すこともできず心中密かに恋焦がれてる若者たちもいたことでしょう。


 内大臣ナガミチの息子の中将ミチヨリなども、そんな中で異母兄弟とは知らず源氏の娘だと思って思いを寄せてるようです。


 兵部の卿の宮はずいぶん前に奥さんを失くし、この三年ばかり一人身で気落ちしてましたが、今はこの姫君ルリへの思いを隠すことができません。


 ただ源氏の娘で同じ王家の同族だと思うと悩むところです。


 今朝もひどく酔ったようなふりをして藤の花の髪飾りをして、なよなよと陽気にふるまうさまは笑えます。


 源氏の大臣ミツアキラは作戦通りと密かに思ってはいますが、そんなことはおくびにも出しません。


 昨日の舟遊びの宴席で酒を注いでやろうとしたところ、もじもじ困ったような顔をしながら、

 「こんな気持ちになってしまって、逃げだしたいところです。

 もう我慢できません。」

と言って酒を断ります。


 「紫の同族に心ときめいて

    ふち(藤・淵)に沈んでも名は惜しくない」


 そう言って源氏の大臣ミツアキラに同じ藤の髪飾りを渡しました。


 すっかり上機嫌に微笑みながら、


 「ふちに身を投げるべきかはこの春の

    逃げたりせずに花をよく見ろ」


 そう無理言われて引き留められて、立ち上がるわけにも行かなくなって、今朝まで続く音楽には別の面白さもありました。


   *


 今日は中宮の春の御読経みどきょうの初日でした。


 兵部の卿もすぐに帰らず、お付きの者ともども休息所を作ってもらうと、昼の装束に着替える人もたくさんいました。


 用事のある人は帰ったりもしました。


 正午になると、残った人は皆中宮アマネイコのいる南西の区画に行きました。


 源氏の大臣ミツアキラを始めとして、みな隣に到着しました。


 殿上人なども皆やって来ました。


 そのほとんどは源氏の大臣ミツアキラの権勢の恩恵を受けてこの上なく誇らしげな姿でした。


 春の女王ともいうべき紫の君サキコからの贈り物で、仏様に献花が行われます。


 鳥の装束と蝶の装束とに分かれた童部八人、容貌など特に美しいものが選ばれ、鳥の装束には銀の花瓶に白い桜、蝶の方には金の花瓶に黄色い山吹を挿して、どちらもたくさんの花のついた花束で、なかなか他にないような芳香を添えてました。


 この童部は南東の区画の庭の築山の所から舟に乗ってやって来て、南西の庭に降り立った時には風が吹いて、花瓶の桜を少し散らしました。


 麗かによく晴れた霞の間から現れた童部は、何とも優雅で美しいその姿を見せます。


 あえて待機のためのテントを持ってくることもなく、御殿の方へ渡る廊下を控室のようにして、折り畳み椅子を並べました。


 童部達は正面の階段の所にやって来て、花を捧げました。


 香を配る役目の殿上人がそれを受け取って、閼伽棚に並べました。


 紫の奥方の手紙を源氏の息子の中将カタトシが持ってきました。


 《花園の胡蝶でさえも下草で

    秋まつ虫は興味ないのか》


 中宮アマネイコは「あの紅葉の仕返しね」とにっこり笑いながら読みました。


 昨日の女房達も、

 「確かに春の風情を侮ってはなりませんね。」

と花に心まで折られてしまったのでしょう。


 鶯の麗らかに囀る声に、鳥の楽である『迦陵頻かりょうびん』の演奏が続けられ、池の水鳥もそこはかとなく囀るうちに楽曲も最後の「急」の楽章になり、その面白さは飽きることを知りません。


 それに続く『胡蝶楽』の演奏ともなると、童部もひらひらと飛び立って、山吹の垣根に咲きこぼれる花の陰で舞い始めました。


 中宮職ちゅうぐうしきすけを始めとする殿上人達が次から次へと禄を受け取り、童部に渡されました。


 鳥の童部には桜の細長、蝶の童部には山吹のかさねが与えられました。


 かねてから用意されてたようです。


 楽師達は白い上下の衣や巻絹など次々に与えられました。


 中将の君カタトシは藤の細長付きの女の装束を左肩に掛けてもらいました。


 中宮アマネイコの先ほどの歌のお返しは、



 《昨日は声を上げて泣きたい気持ちでした。


 胡蝶にも誘われてみたい気になって

    八重山吹の壁がなければ》



 二人の立派な上臈でさえ、こうしたバトルはなかなか心労も大きいようで、歌の方もそれほど快心の出来ではなかったようです。


 そういえば、昨日舟遊びに誘われた中宮アマネイコの女房達には、皆趣向を凝らした贈り物をしました。


 どういうものかはくだくだ言うのも面倒なので割愛。


   *


 明けても暮れてもこうした何てことのない音楽など楽しみ、気晴らしをしながら生活してると、仕えてる人たちも自ずと難しく考えずに手紙の取次ぎなどもして、妻達の間の手紙のやり取りも盛んになりました。


 西の対にいる玉鬘ルリも、あの男踏歌の時に紫の奥方サキコと対面した後は、手紙を交わすようになりました。


 深くものごとを考えられる人は、意図的に浅く振舞うだけの精神的な余裕があるものです。


 人懐っこくも振舞えば、人と距離を置くことも普通にできる性格なので、どの方面でも皆好感を持って迎えられてます。


 言い寄って来る男もたくさんいます。


 そうは言っても源氏の大臣ミツアキラはその場の流れて決めてしまうようなこともなく、心の中ではまだ、頑なに親の勤めに徹することもできず、多少色気が残ってるのか、内大臣ナガミチにも知らせた方が良いのかと思うことも度々です。


 息子の中将カタトシはやや馴れ馴れしく、御簾の傍にまで寄って来て、女房を介さずに直接声を聞こうとしたりするので、女房の方も困惑しますが、実の兄弟だと女房達には言いくるめているので、中将カタトシも素っ気なく、特に恋心も起こさないようでした。


 内大臣ナガミチの息子たちは中将の君カタトシに仲立ちしてもらいつつ、それぞれ言い寄って来ては気落ちして帰って行くのですが、別にその方々が悪いのではなく、兄弟だからと心の中では申し訳なく思ってることでしょう。


 実の親にこのことを知ってほしいと人知れず気に病んでいますが、そのことは表には出さないようにしています。


 源氏の大臣ミツアキラをひたすら信頼してるところなど若くて可愛らしいですね。


 母君に似てるわけではないけど、やはり母君のしてたことなどよく覚えていて、それにやや才気があって尖った所が付け加わってます。






 「瑠璃姫になって物語のテンポが随分と変わって来たね。」

 「ディティールにこだわるようになったというか。」

 「それでいて中宮を曇らす展開。」

 「そこは変わってない。」

 「式部さんの癖がかなり前面にでてきたような。」

 「あの黒歴史の浅水姫でしょ。」

 「これからが本番ね。浄瑠璃姫もやはりそうなるんでしょうね。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る