第59話 玉鬘1 九州脱出

 長和4年(1015年)、春。


 「春だけど、相変わらず御門の眼の病気は治らないってか、ひどくなってるというし。」

 「仙薬を飲んだからって噂もあるけど、どうなの。」

 「吉野の山のアレ?」

 「『あおによし』の『に』の方。」

 「中国じゃ仙薬で寿命を縮めた偉い人がたくさんいるというけど。」

 「日本でも昔は結構多かったって。」

 「吉野へ行幸してたしね。」

 「吉野といえばあのお方ね。今はちょっと名前を言ってはいけないけど。」

 「金峯山寺に経塚を建てたというあの人?」

 「まあ、陰謀論のたぐいだし、どこまで本当か知らないけど。」


 藤式部

 「今年はいよいよあの物語始めるからね。

 御門の方も大変な状態なので、あまり騒がしくせず、静かにいきましょう。」






 年月は流れても、思い残したままになってた夕顔のことは決して忘れたわけではありません。


 思うがままにいろんな人とつきあってきても、生きていたならと思うと、今も無念な記憶だけが残っています。


 右近は身分は低いけど、それでも夕顔の君の残していった人ということで、かけがえのないものと思って雇い続けたため、古くからの女房の一人となってます。


 源氏が須磨へ行ってた時も、二条院の女君サキコの所に女房たちを移動させていたので、そこで仕えていました。


 控えめな所は好感が持てると女君サキコも思っていましたが、心の中では、

 「亡くなったあの女がいたなら、あの明石の女への執心にも負けなかったわね。

 そんなすごく愛してるわけでなくても手放そうとしないだろうし、どっかに置いといたままいつまでもキープしたりしてそうね。

 もっとも高貴な部類には入らないから、この六条院の一角を占めることはなさそうだけど。」

と思うと、いつまでも心のしこりとなって残ってました。


 あの西京の乳母のモリコの所に住んでた若君は何処へ行ったのだかわからず、どこかでこっそり暮しているのかもと、右近としては気になるところです。


 もっとも、今さらどうしようもないことですし、「俺の名は人に漏らすな」と口止めされてたのを気にして、探しはしたけど訪ねてゆくこともないまま、その乳母の夫のマサヤスが太宰の少弐になって任地へ向かう時に、乳母も一緒に下向してしまいました。


 あの若君も一緒で、この時まだ四つで筑紫へ行きました。


   *


 その乳母モリコですが、母親の行方を知ろうとあちこちの神仏に祈り、昼夜恋しくて泣き暮し、心当たりのある所を聞いて回っても、ついに見つかりませんでした。


 「どうしましょう。

 若君だけでも母の形見として育てていかなくては。

 見知らぬ所へ連れて行っても、辺境の地で暮らすなんて悲しいですわ。

 あの父君にちょっとでも会えないかしら。」

と思ってはみても、向こうからは何の連絡もありませんし、母のいる場所もわからないのにそのことを聞かれたら、どう答えて良いものか。


 「まだ父親の記憶もはっきりしないこんな幼い子供を預けてしまうのも不安よね。」

 「それ知ったら、筑紫へ連れてゆくことを許してくれるはずないじゃん。」


 などと回りにいろいろ言われるがまま、とにかく可愛らしく、この年で気高く気品のある姫君を、特別な部屋などない船に乗せて旅立たねばならず、何とも可哀そうなことでした。


 子供心に母のことが忘れられず、何度も、

 「母さんの所へ行くのぉ?」

と聞かれて涙ぐまない時もなく、オモトとアテキという二人の少弐の娘たちもそのことで胸を痛めてては「船旅に縁起でもない」と諭されてました。


 景色の良い所を見ながらも、

 「好奇心旺盛な方でしたから、こういう所も見せたかったね。」

 「まあ、生きていたら旅になんか出なかったけど。」

と都の方ことを思うと、寄せては帰る波も帰る所があるのがうらやましく、不安になってると船乗りたちが荒々しい声で、


 ♪浦悲しくも、遠ざかる


と歌うのが聞こえてきて、娘二人、向かい合って泣きました。


 船乗りも誰が恋しいのか大島の

    うら悲し気な声が聞こえる


 どこから来てどこへ行くとも知らぬ沖

    行方不明のあなたはどこに


 辺境の地へ赴任する別れに、お互いを慰め合うようにそう言いました。


 瀬戸内海、関門海峡を経て宗像鐘崎を過ぎると、「ちはやぶる鐘の岬をすぎぬとも」と古歌にも歌われたように、「我は忘れず」と夜な夜な口にしているうちに現地に到着しました。


 夢などにごく稀に夕顔の君を見る時などもありました。


 変わらないその姿が枕元に出て来た時には、その気配に悪寒がしてひどくうなされることから、やはり亡くなってしまったんだなと思えてくるのも、忌まわしいことです。


   *


 月日は流れ、少弐のマサヤスの任期が終わり上京の準備をする頃になると、また長旅ということになります。


 ことさら財産をこしらえたわけでもなかったので、帰るのも躊躇せざるを得ず、なかなかすっきりと旅立つこともできません。


 そうこうしてるうちに思い病気になって死にかけてた時になっても、十歳になった姫君のその危険なまでの美しくさを見るにつけて、

 「俺がここで死んで取り残されてしまったら、一体どんなことになるやら。

 辺境の地で埋もれてしまうのは流石に勿体ないことだし、これから京に連れてって然るべき人に知らせて、その人に運命を委ねようとするつもりだったんだが。

 そうする分には都は広い所で安心なんだけどな。

 でも意に反してこんな所で命が果てるなんてことになれば。」

と不安になります。


 男の子が三人いるので、

 「どうかこの娘を京に連れて行くことだけを考えていてくれ。

 葬式のことなど気にすんな。」

と遺言を残しました。


 その姫君についてはたちの人にも知らせてなくて、ただ「乳母の孫のようなもので訳あってたいせつにしなければならない」と言っていただけで、誰にも見せず大切に育てていました。


 それが少弐マサヤスの急死で悲しい上に不安に駆られ、京へ早く出発したかったのですが、この国には少弐マサヤスと仲の悪かった人がたくさんいて、いろいろな問題を恐れて帰るに帰れくなって不本意にも時が流れて行きました。


 姫君も成人を迎える頃になり、母の夕顔を凌ぐような美人となり、父の大臣ナガミチの血筋もあってか可愛らしさにも気品が備わってます。


 性格も温厚で、理想的です。


 女好きの田舎者たちが噂を聞き付けたのか、下心を抱いて手紙の取次ぎを迫る人もたくさんいました。


 「見た目は十人並みだし、訳ありの事情もあって、誰にも会わせずに尼にして、生きてる間は私一人で面倒見る。」

と触れて回れば、

 「少弐の孫は障害者かいな。」

 「残念やが。」

と噂されるのも不愉快で、

 「いったいどうすれば都に連れていけて、父親の大臣に知らせればいいのか。

 まだ幼い頃にとても可愛がってくれていたから、そんな邪険にいらないとは言わないはず。」

 そう言ってため息つきながらも神仏に願を掛けて祈りました。


 少弐マサヤスの二人の娘オモトとアテキも三人の男の子マサタカ・マサヤス・マサナカも、その土地の人達と結婚したりして、すっかり棲み着いてしまってます。


 心の中では早くここを出ようと気は急くけれど、京はますます遠ざかって行くように思えます。


 姫君も事情のわかる年になり、厭世観を募らせ、年三ねそうの精進などをしています。


 二十歳くらいになると、すっかり成長しきって、美人なだけにとにかく残念です。


 この頃は肥前の国に身を寄せてました。


 この辺りでもやはり女漁りに余念のない人たちがいて、すぐにこの少弐マサヤスの孫の噂を聞きつけて、相変わらず何度も訪れるものですから、危なっかしいし、とにかくうざいものです。


 大夫監たいふのげんという、肥後の国に広く勢力を持つ、地元では有名な見るからに厳つい武士がいました。


 むさい上に助平ったらしく、美人を集めてハーレムにしようと思ってました。


 この姫君の噂を聞きつけて、

 「障害者だろうが俺は目をつぶってやる。」

と馴れ馴れしく使いをよこすのがとにかくうざくて、

 「聞いてなかったんですか、尼になるってこと。」

と使いの者に言うように言ったんですが、ますます気になってか、強行突破とばかりに肥前にやってきました。


 少弐マサヤスの息子たちを呼び出して、

 「うまくいったら、お前らと軍事同盟を結んでやろう。」

と持ち掛けて、次男のカツヤス三男のカツナカは取り込まれてしまいました。


 「一瞬釣り合わないし姫君には可哀想だと思っちゃったんだけど、俺たちどっちも地元に確たる基礎がない以上、味方になれば頼れる人なんだよ。

 逆に睨まれちゃったらこの界隈じゃ暮していけなくなんでしょ。」


 「高貴な血筋とはいってもよ、親からも見捨てられたまま誰にも知られてないんじゃ、何のメリットもないじゃん。

 ゲン様がこんな熱心に欲しがってる今が花ってもんだろ。」

 「それこそ前世からの縁があったんじゃないのかなあ。逃げ隠れしても良いことなんてないよ。」

 「やつは負けを認めないし、怒らせたら何すっかわからないぞ。」


 そんなふうに脅されれば、「まじやばい」と聞きつけた長男の豊後の介のカツタカが、

 「そりゃとにかく穏やかでないし、残念なことだな。

 父上の遺言もある。

 とにかく支度して京に上ろう。」


 二人の娘も泣き悲しんで、

 「母さんが空しく落ちぶれて未だに行方不明な分、あの子だけはちゃんとした貴族になってほしいと思ってたのに。」

 「あんな奴らの手に渡すなんて。」

と悲しみに暮れるのも知らずに、俺は偉いんだぞとばかりに手紙をよこします。


 字はそれほど汚くもなく、中国製の色紙に香ばしい香りを薫き込んでは、おしゃれに書いたつもりなのですが、何しろ訛りがひどい。


 自ら次男カツヤスを説き伏せて、家に連れてこさせます。


 年は三十ばかり、背が高く筋肉太りで不細工ではないけど、考えることが嫌らしいし、粗野な態度で、見るからに危険な感じがします。


 いかにも機嫌良さそうに、ひどくしゃがれただみ声でごたごた言い出します。


 懸想人は夜に紛れて来るからこそ夜這いというもので、なんでまあ春の夕暮れに来るんでしょうか。


 秋の夕暮れに人恋しくなるならまだわかりますが。


 機嫌を損ねないようにと乳母モリコがが出てきて会いました。


 「亡き少弐は情に篤く、素晴らしいお方だとお聞きし、いつかこのことをきちんと相談しようと思ってましたが、そうした気持ちを伝える前に大変悲しいことにお亡くなられてしまいまして、その代わりとして、直接申し上げようと気持ちを奮い立たせ、今日はひたすら無理を押して参上しました。

 こちらにいらっしゃる姫君は特別な血筋の方と伺っておりますので、大変勿体ないことだと思います。

 ただ、それがしが我が主君と思い、一族の頂点に君臨するにふさわしいお方です。

 姥殿が不服なのも、良からぬ女ども何人も知り合いになっていると聞いて嫌っているからだと思います。

 しかし、そんな連中と同等に扱うなんてことがありましょうか。

 我が君を皇后様の地位にも劣らない物としてあつかう所存です。」

などと、何とも言葉巧み並べ立てます。


 「何とまあ。

 そうおっしゃられても、またとない幸運なこととは思いますが、何分前世の業を背負ったお方です。

 表に出すことも憚られるもので、どうして人にお見せすることができようと人知れず悲しむばかりで、とにかく気の毒で途方に暮れてます。」

 「だったら遠慮することはない。天上天下たとえ目を失い足を失ったとしても、それがしは神仏に仕え、その業を止めて見せよう。

 肥後国内の神仏はすべて我に屈服する。」

 まあ、大した自信です。


 「ではその日にでも」と婚姻の日を言うと、「三月は季節の終わりで縁起が」などと田舎者じみたことを言って何とか逃れます。


 去り際に歌を詠もうとして、ややしばらく案じた末、


 「君をもし裏切ったなら松浦の

    鏡の神にかけて誓おう


 この日本式の歌を捧げたいと思います。」


 そう言って微笑むのも宮中の文化に疎くて無器用な感じです。


 啞然呆然で返歌も思いつかず、娘たちにふるのですが、


 「まろも無理。」

と言って黙ってしまい、あまり長考もするのもいけないので、思いつくままに、


 「長いこと祈った結果と違ってて

    鏡の神はむごいと思う」


と震えながら詠むと、


 「ちょ待て、どういう意味だ。」

と一気に間を詰めてきたので、乳母モリコは恐怖で固まってしまいます。


 娘たちは機転をきかして、笑いながらきっぱりと、

 「姫君が体が不自由なので、ご期待に添えなくて辛いと思うのを、ちょっととぼけてみて神様のせいにして、神様に文句を言ったのでしょう。」


 「おう、そうかそうか。

 なかなか面白い歌だ。

 それがし、田舎者とは言われるものの、蛮族ではありません。

 都の人だってそんなもんでしょう、わかってますよ。

 馬鹿にしないでもらいたい。」


 そう言ってもう一首詠もうと思いましたが難しかったのか、そのまま行ってしまいました。


 次男カツヤスが懐柔されたのも脅威で心配の種なので、長男の豊後の介カツタカに上京を急かすと、

 「さて、どうしたもんだか。

 相談できる人もいない。

 唯一の身内の二人の弟とも、大夫の監のことで仲違いしてるしな。

 大夫の監に敵視されたら全く身動き取れなくなるし、難しい所だ。

 かえってまずいことになる。」

と思い悩んでましたが、姫君が人知れず悩んでるのが可哀想で、生きててもしょうがないと思い詰めるのも当然だと思えば、決死の覚悟で旅立ちを決意します。


 二人の妹も、何年も通ってきてくれた夫を捨てて、姫君にお供するつもりです。


 下の方のアテキは今は兵部の君と呼ばれてましたが、一緒に行くために夜逃げして船に乗りました。


 大夫の監は肥後に帰ったあと、四月二十日に日取りを決めてやってくるということで、その前に逃げることとなりました。


 姉のオモトは子供がいたため、結局来ませんでした。


 互いに別れを惜しみ、再び会うことの難しさを思うものの、何年も暮した故郷とはいっても未練はありません。


 ただ、松浦の宮の前の渚と姉のオモトと別れることだけが気にかかって悲しいことでしょう。


 浮島を漕ぎ離れても行末は

    どこの湊かわからないまま


 行く先も見えない波に船出して

    ただ風任せに浮かび漂う


 とにかくどうなるかわからない不安な気持ちのまま、背中を丸めて寝ました。


   *


 こうして逃げたことは自ずとどこかから伝わるもので、負けを認めたくない大夫の監は追って来るに違いないと思うと気が気でなく、魯を多く備えた早船を特別に用意した上、風も思うように吹いてくれて大丈夫かと思うくらい快走します。


 鐘崎を過ぎ、響灘ひびきなだもすいすい進みます。


 「ありゃ海賊船か?

 小さな船が飛ぶようにこっち来るぞ。」

などと言う者もいます。


 海賊が襲って来るよりも、あの恐ろしい人が追って来る方が恐いので、仕方ないことです。


 胸騒ぎする心臓のひびきには

    ひびきの灘も及ばないわね


 「摂津の川尻ももうすぐだ。」

と船頭が言うと、ようやく生きた心地になります。


 船乗りたちが、


 ♪唐泊まりより、川尻へ行けば


と唄う声が、無情にも悲しく聞こえてきます。


 豊後の介カツタカも悲しくて会いたい気持ちで、続きを唄います。


 ♪愛しい妻子も忘れたよ


 「そうだ、みんな捨てて来たんだ。

 どうなったんだろうか。

 護衛として役に立つような男達はみんな連れてきてしまったし。

 大夫の監が俺を憎んで追いかけたけど見失ったとなれば、残った家族に何するかわからない。」


 そう思うと、衝動的に深く考えずに家を飛び出しちゃったなと、少し冷静になってくると情けなくて後悔ばかりで、ついつい弱気になって泣き出すのでした。


 ♪胡の地の妻子を虚しく


と白楽天の『縛戎人ばくじゅうじん』の一節を節をつけて唱えるのを兵部の君アテキが聞いて、


 「まじ、とんでもないことしちゃった。

 何年も連れ添った人をいきなり裏切って逃げてきて、どう思われてるのか。」

とそれぞれ思うことは絶えません。


 帰る所といっても、どこそこという辿り着くべき故郷もありません。


 知ってる人もいないし、誰かに頼ろうにもそんな人も知りません。


 ただ一人のために、これだけの人が住み慣れた土地を離れて、波風の中に浮かび漂って、どうしていいのかもわかりません。


 「この人をどうやって父に会わせるのよ」

と途方に暮れていても、結局どうしようもないと思っているうちに京に到着しました。





 「いわゆるクマソね。」

 「クマソそのものというよりは、それを束ねる大和人じゃないの?」

 「ハーフとか考えられるわね。」

 「まあ、半分独立国のようなもんね。みちのくもそうだけど。」

 「肥後の守も妥協しながら収まってるんでしょうね。」

 「でも、都人の娘を嫁にすれば、中央とのコネができるって、結構魅力的な話じゃない?」

 「まあ、邪険には扱われないわね。切り札になるし。」

 「ましてその子が大臣の娘だと知ったら。」

 「ナガミチ涙目。」

 「クマソの株爆上げ。」

 「戦争になるかもよ。」

 「無理よ、人質取られてるから。」

 「誰かそっちの世界線の物語書かないかな。」

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