第55話 乙女1 文人擬生
長和3年(1014年)、秋の終わり。
藤式部
「さあ、秋の夜長、たっぷり物語楽しんでいってね。
「最近は偉い人達もあまり物語のことを言わなくなったんで、来年はいよいよ玉鬘行くよ。」
年が変わって
先の斎院のアサコも何となく空を眺めていると、庭の桂の木を吹く下風の心地良さに、若い女房達も賀茂にいた頃が思い出されます。
そこに
「賀茂の禊ぎの日は穏やかに過ごせましたか?」
と言いながら手紙を渡します。
《今日は、
思いがけず清流がまた波立って
君が
紫の紙で儀礼的な書状の体裁を整え、藤の花に添えて、あくまで季候の挨拶ということで返事がきました。
《昨日まだ
世の中禊ぎの流れになるとは
あっけないですね。》
とだけ書いてあるを、例によって
斎院の父宮の裳明けの
「いかにも口説こうとしてるような意味深な手紙などがあるなら、断る意味でこうした物も返せるんだけど、長年にわたって公式にいろんな節句や儀礼などの折にこうした世話を受けて来て、そういう所はまめな方なので、なかなか断る口実もないのよね。」
と処理に困ってました。
「源氏の君はつい昨日まで子供だと思ってたら、すっかり大人になって誇りですわ。
見た目もとても輝いてますが、心の方も同じ人間とは思えませんね。」
と褒めそやすので、若い女房達は苦笑いです。
「あの大臣からこんなに真心こもった扱いを受けているでしょ。昨日今日始まったことではないですわ。
今は亡き宮様も斎院になって結婚できなくなったことを歎いてらして、わたしの意図をあなたが身勝手に反故にしてしまったことを、いつも悔しそうにしてましたわ。
それでも亡き大臣と三の宮との間にできた娘が源氏の大臣の所に嫁いでた時は、三の宮に気を使って、特に何も言わなかったのですけどね。
その皇統の血を引くその娘さんも亡くなってしまい、まさに今こそあなたが本妻になってもおかしくないし、源氏の大臣が昔に戻ってこんなに熱心に訪ねて来るのですから、受け入れるべきだと思います。」
などと随分と昔のことを持ち出されて不愉快に思い、
「亡き父からも確かにそのように強情なとずーっと思われ続けてきたものを、今さら源氏と結婚なんておかしいんじゃない。」
とここまできっぱりと言われると
宮家の人達は身分の高い者も低い者もみんな源氏の側なので、縁談のことをどうなることかと気に病んでたけど、源氏自身は振り向かせようとあれこれ手を尽ししながら、
その亡き
若君の伯父にあたる
宮中全体でも大騒ぎしていて、あれやこれやせっつかれるままに準備が進められました。
最初は若君を親王の子に準じていきなり殿上人の四位からスタートさせようと思っていて、世間もそんな雰囲気でしたが、まだこんな幼いんだし、いくら官位など自分の思いのままにどうにかなるといえども、それなりの理由もなしにやるのは、みんなやってるようなことで嫌だな、と思いとどまりました。
六位の浅葱色の服で例外的に殿上に登る還昇の形になり、
「今はまだ無理を押し通してまで早いうちに大人にしてしまう必要もないし、思う所があって大学寮にいれてしばらく勉強させようと思ってるんだ。
これから二、三年、ちょっと回り道させて、自分から朝廷に仕えようと思える歳になったなら、その時に大人にすればいいのではないか。
俺は宮中に引き取られて育てられ、殿上全体のことを知らぬまま昼夜御門の所にいて、ほんのちょっとしか本を読んだりもできなかった。
御門直々に教わることができたとはいえ、幅広くいろんなことを知ってるわけではないので、漢文にしても七弦琴や竜笛高麗笛にしても不十分で至らぬ所ばかりだし。
子供が親を越えて行くなんてことはなかなかないことだし、まして亡き院から引き継いだものを息子に伝えても劣化していくだけで先行き不安なので、そうすることに決めたんだ。
高貴な家に生まれて官位も爵位も思いのままだと、そこにおごりが出て、学問のような苦しいことはやりたくなくなるものだ。
遊んでばかりで思いのままに出世して行っても、世間の時流に流され、下の者は鼻であしらい、力のある者に追随してはご機嫌を伺い、そうやって何となくいっちょ前に偉くなっても、時流が変わって、付いてった人が亡くなり権勢が衰えてゆけば、今度は人から手のひら返しされて何も残らないなんてことになる。
やはりしっかり知識や技術を学んだ上で、大和魂でもってこの国を治めて行くのが最強だ。
六位スタートだと出世するまでの間じれったいと思うかもしれないが、これから朝廷の重鎮となるための基礎を学んでおけば、俺の死んだ後も安心していられる。
最初の内は仕事がなくても、俺が育てるんだからそこいらの貧乏学生とは違うんで、馬鹿にして笑う人もまずいないと思う。」
それを聞くと溜息をつきながら、
「なるほど、そこまで考えていたのね。
うちの右大将なんかもあまりに突飛なことなので首をひねっていたけどね。
おさな心にも悔しい思いをして、うちの大将や
それを聞くと笑って、
「ほんと、大人になったのにそんなこと気にしてるようだね。確かに残念だ。まあ、まだそんな年頃だ。
(それもまた可愛いじゃないか)
これから勉強して、少し物事がわかってくれば、そんな不満もいつの間に消えてると思うよ。」
*
大学寮に入るなら中国式の
そのための準備に東の対が充てられました。
博士たちも気後れしそうです。
「遠慮しないでしきたりに従って、妥協なしで厳格に遂行してくれ。」
と
若い
一方では、そんな笑ったりしないような歳の行った落ち着いた人を選んで瓶子取りにしましたが、儒者のしきたりは宮中とは違うため、
「そもそも宴席での正客でない便乗した者がはなはだ多く、前代未聞なことと見受けられます。
朝廷に仕えようというものが右大将・民部卿などの高い地位の人物を知らないとでもお思いでしょうか
とんだ茶番です。」
そういうと緊張が解けたのか、みんな一斉に笑い出したので、
「騒々しいぞ。静まりなさい。はなはだ前代未聞な。退席願いたい。」
などと大声出すのも笑えます。
こういうしきたりの違いを知らない人は何か珍しい面白いものを見たと思い、大学寮出身の上達部などはやっぱりそうかと吹き出しながら、よくこんな所に好き好んで息子を入れる決心をしたなと、ますます尊敬することとなりました。
ちょっとした私語も止められ、礼儀がなってないと言っては咎められる。
口うるさく大声を出すこうした人達も、夜になると、次第に煌々と明るく見えるようになった灯しの光に余興の猿真似芸か何かのように侘し気で、不似合いな衣装などどれもこれも通常とは異なり、異様な世界を見るかのようです。
「とにかくだらしなく頑固な連中が、化粧して騙そうとしているみたいだ。」
と言って、御簾の内に隠れて様子を見てました。
席が限られていて会場に入れず、帰ろうとしてた大学寮の衆がいたことを聞いて、釣殿の方に呼んでいろいろ物を下賜しました。
事が終わって退出する博士や才人を招いて、今度は詩文を作らせました。
上達部や殿上人も詩文を得意とする人は皆残るように言いました。
博士達には律詩、そうでない人は
興のある題の文字を選んで、
夜の短い季節なので、夜がすっかり明けてから披講します。
左中弁が読み上げます。
見た目も小綺麗で声の調子も堂々としていて、古式ゆかしく読み上げれば、なかなか風流なものです。
並の博士ではありません。
このような高貴な家に生まれて、世界の栄華を遊んで暮らせる身分にあるのに、あえて蛍の光を窓に仲良くし、枝の雪を手なづけようという志の高さを森羅万象の興を借りて、それぞれの作者が思い思いに作った詩はどの句も面白く、中国に持って行って広めたいくらいの夜の詩文だと当時の人達は絶賛しました。
親としての深い愛情に溢れてるのは言うまでもなく、それが誦じられると涙の渦になりましたが、女は漢詩などが学ぶのはいかがなことかということで、不快に思う方もいるので、作品の方は書き漏らしたことにしましょう。
*
それに続いて、学問を始めるということで、すぐに二条院の東院に若君の部屋(御曹司)を作って、真面目で学識の高い教師に頼んで学問をさせることになりました。
祖母の
夜昼となく溺愛し、今でも子供のように接しているので、そこで学問は難しく、静かな所に閉じ込めておこうということです。
「一月に三回ぐらいならOK。」
と、それくらいは許しました。
おとなしく籠ってるのが嫌になって来て源氏に、
「こんなの虐待だよ。こんな苦労しなくたって、高い地位について朝廷で働いてる人だっているじゃん。」
とぶーたれてるけど、大体においては根は真面目で浮ついたところがないので、じっと我慢して、
「とにかく課題の本をみんな読んじゃえば、宮廷の人達にも会えるし、官位も貰えるんじゃないか。」
と思って、なんと四、五ヵ月で『史記』を全巻読んでしまいました。
そういうことで寮試という
あの時集まっていた
「なるほど大学寮に入れようというだけのことはある。」
とみんなが涙ぐむほどでした。
まして伯父の
「左大臣だった父君に見せたかった。」
と言って泣いてました。
「世間じゃ子煩悩などというけど、子供が立派に成長するのと引き換えに親が老いぼれて行くというのを見ると、まだそんな年じゃないとは言いながらも、俺も世間並みの親なんだな。」
世間から変人扱いされ、才能があるにもかかわらず出世コースからはずれ、人を避けて貧乏暮らしをしてたところ、源氏の目に留まって特別採用された者でした。
身に余るほどの待遇を受けて、若君という才能に出会い、一躍脚光を浴びたことを思えば、これから先の名声は約束されたようなものですね。
大学で試験を受けに行く日には、大学寮の門に
宮廷の人が残らず来たみたいで、最高の待遇で衣装を整えた六位無官の若君は、どう見ても儒者の交わりにはふさわしくないくらい美しくも高貴な姿でした。
ここに普通にいるみすぼらしい人たちの中に加わり、末席を汚すのを辛いと思うのも当然です。
この時もまた、礼儀のことで大声で注意する者がいてギクッとすることもありますが、少しもおくすることなく書を読み終えました。
昔が忍ばれるような大学の栄えていた頃たったので、これを機に身分の上中下を問わず我も我もと学問を志して集まって、知識を持った有能な人材がたくさん育っていくことでしょう。
源氏の家でも漢詩文が流行し、博士や才人なども鼻高々です。
文芸の様々な道すべてに渡って、その道の才能のある人が表舞台に出る時代になりました。
「赤染衛門に和泉の方の式部と、最近大江家の人が目につくようになったし、あのころは大学も注目を浴びてたけどね。」
「今は両方ともいなくなって。」
「ほんと、あの勢いが続いてたらね。」
「紫の方の式部も親が大学の出だし。」
「学校ってあまり身近ではないけど、何か浮世から隔絶されて、閉鎖的な世界という面白さもあるわね。」
「これから流行るのかな。」
「どうかしら。
やはり大事なのは生活で身に着けたことだし、人づての知識って使えそうで使えないし。」
「やはり経験は何よりも大事。これはいつの世も変わらないと思う。」
「学校って発想は面白いけど、多分これが大流行するとしたら千年後の世界ね。」
「いろいろな子弟が学校で一度に会して、そこで恋をしたりとか。」
「みんなで
「
「やはりそこでみんな史記や三国志の話とかするのかな?」
「変な漢詩とか出てきて‥‥。」
「でも礼儀とか厳しいだろうね。」
「規則とかたくさんあって、それを取り締まる人がいたりして。」
「大体みんな世間から隔絶されて世間知らずの人達ばかりで、変な規則とかたくさんできたりして。」
「平民の子が出世しようと集まってる中に、高貴な人が入ってくると、大学内にカーストが出来たりして。」
「まあ、今の我々には縁のないことね。」
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