第53話 朝顔1 桃園宮

 長和3年(1014年)、秋の初め。


 「夏の間にこれまでの物語の読み聞かせもしたし。」

 「若い世代への布教もちゃんとしとかないとね。」

 「写本がまた増えた。」

 「今日はその成果が出てるかな?」


 藤式部

 「秋風も吹いてるけどまだ暑いわね。

 でも今日はちょっと人が増えたみたいで嬉しい。

 では、始まり始まり。」





 加茂の斎院アサコは式部の卿の親王の喪に服して賀茂神社を離れてました。


 源氏の大臣ミツアキラは例によって昔の恋を思い出したら止まらなくなる性癖なので、盛んに訪ねてゆきます。


 斎院アサコとしてはうざいだけで、返事もよそよそしくデレてくれません。


 とにかく癪に障ります。


 九月になって斎院が以前住んでいた桃園宮ももぞののみやに移ったと聞いて、そこに叔母の女五の宮のタダコが一所に住んでいたので、その訪問にかこつけてのことでした。


 亡き崋山院の兄弟たちの中でも特に大切にしていた妹でしたので、源氏の大臣ミツアキラも今でも親しく手紙のやり取りなどしてました。


 同じ寝殿の西の対と東の対に女五の宮タダコ斎院アサコが住んでました。


 式部の卿の親王の死からまだ日も経ていないのに、早くも屋敷が荒れ始めているような気がして、悲しい空気に包まれています。


 五の宮タダコと対面し、いろいろ話を聞きました。


 すっかり年を取ってしまったような様子で、話しながらも時折咳をします。


 源氏の大臣ミツアキラの最初の妻の母で、先日亡くなられた太政大臣イエカネの妻だった三の宮のムネコの方が姉でしたが、ムネコがまだ有り得ないくらい若々しいのに対し、五の宮タダコはうってかわって声もたどたどしく、動作もぎこちないのは、元からそういう性格でした。


 「院の上の亡くなられた後、何もかも心細く思えて、年かさの積るがままに涙ながらに過ごしてきたというのに、式部卿の宮までもが私を置いて行ってしまいもうどうしていいのかわからないままだったのを、こうして訪ねて来てくださって、これまでのことも嘘のようですわ。」


 すっかり年取ってしまったなと思いましたが、すぐに姿勢を正して、


 「院の崩御以来、すっかり世の中が変わちゃったみたいで、無実の罪に問われて見知らぬ遠くの地で悶々としてたところ、たまたま朝廷に復帰することが許されて、いろいろごたごたして忙しく、これまでここに来て昔の話などを語り合うこともできなかったのが気になったままになってたんだ。」


 すると身を震わせながら言います。


 「それはそれは大変なことで、どこもかしこも先行きの分らない世の中を、同じような苦労しながら過ごさねばならない命の長さを恨んでばかりいましたが、こうして政界復帰なされた嬉しさに、あの時死んでしまわなくて良かったですわ。

 何てまあ立派に成長なさったことでしょうか。まだ子供だった頃を見た時にはこの世にこんな光り輝くものが現れたことにびっくりしてましたが、それが見るたびに輝きを増して恐ろしいくらいでしたわ。

 今の内裏にいる人がそれに本当にそっくりだとみんなが噂してますが、やはり若干劣っているものと思われますわ。」


 そんなふうに延々と、面と向かって褒められたりすると、何だかこそばゆいものです。


 「俺なんぞすっかり山奥の賤民になって失意の日々を送ったあとだから、すっかりふけこんでしまってたからね。

 内裏のあの方の容姿は歴代のどの御門とも比べ物にならなくて、とにかく尊いとしか言いようがないし、何かの思い違いではないかと。」

 「時々お会いするだけでもほんととにかく寿命が伸びる気がします。今日は年取ったのも忘れて憂鬱なこの世の苦しみをみんな忘れてしまったみたいですわ。」

 そう言うと又涙ぐむのでした。


 「三の宮がうらやましくて、娘をあなたの正妻にすることができていつでも会えて親しくできて、うらやましいですわ。

 このたび亡くなった式部の卿の宮も同じことを言って悔しがることもたびたびありましたか。」

というと、源氏の大臣ミツアキラの耳もぴくぴくっとなり、

 「そんなに親しくできてたら、今頃思いどうりになってたのに、みんなつれなかったからな。」

とむすっと恨めしそうに言うのでした。


 向こう側の部屋を見ると、今にも枯れてしまいそうな前庭のたたずまいもよく見渡せて、静かに物思いにふける仕草、顔かたちを思い浮かべては胸がキュンとなり、ためらうこともなく、

 「こうして訪ねて来た機会を逃しては、その気がないと思われちゃうからな。あっちの方にも顔をださなくちゃ。」

といって、簀子すのこを通って渡って行きました。


 暗くなってきた頃ですが、にび色の御簾みすに黒い几帳きちょうの透ける影が奥ゆかしく、香の匂いを乗せた風も品良くていかにもという雰囲気ですね。


 簀子すのこでは気の毒と思ってか南のひさしの方に案内されました。


 御簾の内から出てきた斎院アサコの女官のスズシコが対座して、斎院アサコからの挨拶を伝えました。


 「何だか血気盛んな若者がやってきたかのような対応だね。長年にわたり翁のようにふるまってきたんだから、今日は御簾の内にも許されるかと思ってたけど。」

と、不平を言うと、女官スズシコが一旦御簾の内に入り、戻って来て、

 「亡き院の時代はみんな夢のことのようですわ。今さら醒めても空しいものですと思うようにしているのですがそれも難しく、これまでの御恩のことは落ち着いてからにして、今はまだ定め難いことのように思えます。」


 まあ確かに世間も恋も定め難い「世の中」だからなと、塩対応ももっともかと思います。


 「人知れず神の許しを待ってたのに

     ここまで冷たいよを過ごすんだな


 今は何の禁制があって斎宮に願も掛けられないようにしてるのか。須磨へ追いやられたりいろいろあったというのに、帰ってからもいろいろ悩み事が絶えないなんて。せめてほんの少しだけでも。」

と、勝手なことを言う下心なども、昔よりもなお少し若々しい感じさえします。


 それはまあ、もういい歳になったというのに、とても大臣という身分にふさわしいとは言いがたいですね。


 「世の仲の哀ればかりを言ってたら

     誓いは何だと神がいさめる」


という返歌に、


 「うわー、そりゃないよ。昔のいろんな罪はみんなお祓いの科戸しなとの風と一緒に飛んでったと言うのに。」

となおも口説こうとするスケベ心も大したものです。


 「もう恋なんてしないなんて禊は神も絶対承らない、という古歌はどうするんだ。」

などとしょうもないことを言っても、真面目に考えれば痛いだけです。


 男になびかない斎宮アサコの独特な生き方は、年月が経っても確固としたものになるだけで、もはや返事すらないので、源氏も考え込んでしまいます。


 「ちょっと露骨に迫りすぎちゃったな。」

などと我に返ったようにそう呟くと立ち上りました。


 「人間年とると恥も外聞もなくなってしまうもんだな。

人知れず意気消沈して帰って行く愛しい人を、今だとばかりに呼び留めてくれてもばちは当たらないぞ。」

と言って出て行ったあと、女房達はここぞとばかりにあれこれうわさ話をしてました。


   *


 晩秋の夕暮れの残光も風情があって、風に吹かれる落葉の音を聞くにつけても、過ぎ去った昔の恋心を思い出しつつ、その頃の喜びや悲しみ、本当に真剣だった頃のことなど、思い出しては語り合ってました。


 もやもやした気分のまま帰って来たものの、寝るに寝れずに考え込んでました。


 早めに格子を上げさせては外の朝霧を眺めました。


 枯れた花の中に朝顔の蔓があちこちにからまって、あるかないかわからないような花を付けて、匂いもそれまでにないものなので、折ってこさせて手紙に添えて斎宮アサコに送りました。



 《きっぱりとした対応に周りの人はどう思ったかと、後ろ姿を一体どう見ていたのかと思うと残念です。

 そうはいっても、


 あの日見た朝顔つゆも忘れられず

     花の盛りは過ぎたのでしょうか


 長年のつのる思いを哀れだなんて、少しは思ったことはありますか。思ったのなら。》



などと書いてあります。


 すっかり若さを失ったような感じの手紙だし、返事をしないのも他人行儀かと女房達が硯などを用意したので、ならばと、



 《秋も終わり霧の垣根に絡みつく

     あるかなきかの朝顔なのね


 私にぴったりな喩えで、露の涙もこぼれます。》



とだけ書いた手紙は面白くも何ともなさそうですが、どういうわけか置くこともできずにいつまでも眺めてました。


 喪中の緑がかった灰色の紙に線の細い上品な筆使いもなかなかいいなと見入ってました。


 人というのは手紙を書く時には体裁を取り繕ろおうとするから、その時は何でもないことでも、周りを気にして遠回しに言ったりしてるうちに別の意味になったりして、それをまたこざかしくごまかしたりするから、真意が伝わらず曲解されることも多いものです。


 源氏の大臣ミツアキラの手紙もそうしたもので、だからといって今さら若造が書くようなストレートな求愛なんて分不相応なこととは思っても、昔から疎遠にしてたわけでもないのに虚しく時が過ぎていったのを思うとあきらめきれず、何度も手紙を書くようになりました。


   *


 二条院の東の対の離れた所に、例のあの女官のスズシコを呼んで話し合いました。


 斎院アサコに仕える人たちは下の方の身分の者まですっかり源氏の君ミツアキラに魅了されていて、間違いを起こしそうなくらいめろめろですが、斎院アサコは昔からまったく関心がなく、まして今はそういう年齢でもないことを自覚していて、深い意味のない草木のことを書いた手紙などでも、すぐ返事すると曲解される恐れがあるので、その辺の警戒心を緩める様子もないのですが、源氏の君ミツアキラはそんな周囲のめろめろの人たちとは違う、昔から変わってない斎院アサコのことを愛しくも悔しくも思うのです。


 世間の噂では、源氏の君ミツアキラ斎院アサコにぞっこんなようで、女五の宮タダコもよろこんでいたし、お似合いなんじゃない」

なんて言われてるのが二条院の女君サキコのいる対にも伝わり、

 「嘘でしょ、そんなことがあったらちゃんと言ってくれると思うわ」

程度に思っていたものの、よくよく注意して見てると様子が何かいつもと違い、うわの空になってるのが心配になり、

 「まーた真剣に考えなくてはいけないことを、冷たく遊びか何かのように言っているんだわ。

 同じ皇族の血筋とはいえ、自分はその前の御門の血筋であっちは亡き院の血筋で格は向こうの方が上だし、これで心移りされたらその下の扱いになるというのに。

 連れ添ってきた年月という点では自分が一番なのに、そんなことを通り越して圧倒されてしまうじゃない。」

などと人知れず思い悩んでました。


 「完全に捨てられて何も残らないなんてことはないとは思うけど、まだ物心つかない頃からずっと一緒にいたから当たり前になっていて、軽く見られてしまってるんだわ。」

などとあれもこれもどうすればいいのかわからず、いつものようなことなら嫉妬も可愛らしいですまされるものですが、悩みが深刻なだけにそれを表に出すこともできません。


 源氏の方はというと、ぼんやり外を眺めるばかりで、内裏に泊まることも多くなり、何かをするかと思えば手紙を書いていて、

 「どうやら噂は嘘ではないようね。何か少しでも話してくれればいいのに。」

と、面倒くさいなと思ってました。


   *


 夕暮れになっても喪中なので神事なども中止になって物寂しく、退屈を持て余していて、五の宮タダコを日課のように訪ねていきました。


 雪がはらはらと舞って華やかさを添える黄昏時に、ちょっと形の崩れたいい感じに古びた御衣おんぞに香を焚き込んで、念入りに身なりを整えた姿を見れば、心の軽い女房達はますますくらっときてしまいます。


 さすがに出て行く時には一応、

 「女五の宮の具合が良くないので見舞いに行ってくる。」

と一旦座ってそう告げると、振り向きもせず小さな姫君をあやしてごまかそうとして視線を逸らすあたりがただならないと思い、

 「何かこの頃不機嫌そうだな。

 俺は何もしてないぞ。

 長く一緒にいると汐焼き衣のようになれてしまって貧相にみえるというから、それで家を空けるようにしているんだけど、だめかなあ。」

 「汐焼き衣のようにこれが二人のなれの果てなんて、悲しいことばかりね。」


 それだけ言うと顔を背けて臥せってしまったので、見捨てて行くのも心が痛むものの、五の宮タダコに手紙で約束してしまったので出発しました。


 「こんなことになるなんて思いもしないで今までやってきたのに」と煩悶しながらそのまま臥せってると、喪中のにび色を基調として色をかさねた御衣おんぞで、その色合いのセンスの良さが雪の光の中で華やいでいるのを見て、

 「本当に遠ざかってしまうのね。」

と涙をこらえきれません。


 源氏の方はこそこそするばかりで、

 「内裏以外の所に行くのは面倒くさいけどね。

 でも桃園宮様(五の宮タダコ)が先行き不安で、式部の卿が長年経済的に支援してたけど、今は俺が頼みの綱だと思うのも当然で、ほっておけないんだ。」

なんて直接言わずに女房などに言っていて、女房達も、

 「まあ、どうせまた昔からの女癖が治ってないだけで、残念。」

 「またスキャンダルが起きそうね。」

などと呟きあってました。





 「朝顔の君、そう言えばいたね。」

 「まだ回収されてなかった。」

 「崋山院の弟の娘。ってことは従弟。微妙な所ね。」

 「紫の上は崋山院の前の御門の孫だから、その分遠縁になる。」

 「それで格下かあ。」

 「五の宮は兵部の卿の妹で、朝顔の叔母。」

 「結局また王家の者か。源氏に降下したから一応姓は違うけど。」





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