第52話 薄雲3 凝りもせず
藤式部
「悲しい話があっても、物語は終わらない。
昔の恨みも時が経てば懐かしさにも変わるもので、近頃は『枕草子』もあらためて読み返したりもして、今回はまだどこかに隠棲している少納言の君に捧げたいと思う。」
秋の
「亡き院の気持ちとしては、沢山いる親王の中で自分のことを特別大事にしてくれていながら、皇位を譲るなんてことは微塵にも考えてなかった。
どうしてその意思に反して登ってはいけない位に就くことができようか。
今はただ、最初から決まっていた通り、臣下として朝廷に仕え、今少し歳を重ねたなら引退して仏道に専念しようかと思っている。」
と今まで通りの主張を繰り返すだけなのを、
太政大臣就任の決定があり、ちょっと待ってくれとという源氏の意向で、とりあえず官位だけ従一位になり、牛車での参内を許されることになりましたが、御門はそれに飽き足らず申し訳ないように思って、なおも
亡き
王命婦は
「あのことをひょっとして、何か物のついでに、ほんのちょっとでも口外するようなことはなかったかい。」
と問い詰めてみましたが、
「とんでも。ほんの少しでも御門の御耳に触れることがあったら天地がひっくり返ってしまいます。
そうはいっても、このことで御門自身も罪に問われることはないかとずっと心配はしていました。」
と言うのを聞いて、あらためて亡き中宮が本当にうまくやってくれたんだなと、惚れ直す思いでした。
*
宮中での気遣いや立ち居振る舞いも思った通り理想的なので、どこへ出しても恥ずかしように精いっぱいの援助をしました。
秋の頃二条院にやってきました。
用いてなかった中央の寝殿に調度などしつらえて、更に輝くばかり豪華絢爛にして、今はすっかり親になったかのようにふるまい、お世話しました。
秋の雨がしとしとと降って、前庭の植え込みのいろいろな花に露がびっしりときらめいていて、昔のこともいろいろ思い出されます。
袖を濡らしながら
深みのある濃灰色の直衣を着て、世間が不幸続きなのに紛れるように亡き
几帳を隔てるだけの所で、直接話しかけます。
「前庭の植え込みでは、どの花もみな衣の紐を解いてる。
このような穏やかならぬ年でも花というのはわきまえたもので、癒される。」
と言って柱に寄りかかる
昔話のついでに、あの野々宮に母の
直に見ることができないのが残念と胸が締め付けられるのか、不服なようです。
「若かった頃は、そんなに悩むようなことがないように見えても、ついつい浮気心で悩み事が絶えなかった。
やるべきではなかった悔やまれることもたくさんある中に、ついに未だに心のしこりになっていることが二つある。
その一つは今言ったことだ。
一途に思い詰めて心を痛めたまま亡くなってしまったことで、生涯に渡る遺恨をのこしてしまったが、こうやってあなたのお世話をして、その姿を見ることがせめてもの慰めになっている。
ただ、昔の恋の炎の烟が、今でも心のつかえになっていて、もやもやしたままになっている。」
そうは言っても、もう一つのことは言いませんでした。
「須磨に隠棲していた時には、今まで迷惑をかけた人達のことを思い、少しづつでも償っていこうと思った。
東の院にいる人も、中途半端な状態にして悪いことをしたと思っていたが、今はちょと一安心というところだ。
邪気のない人なので、お互い恨みっこなしで今はさっぱりとしてものだ。
今思ってみるとな、朝廷の後見など務める悦びもさることながら、まあこうした浮気者というのは、なかなか抑えることのできない思いを普段は抑えて後ろ盾になっているもので、わかってるよね。
その気持ちを可哀想とすら思ってくれないなんて虚しいなあ。」
と口説き始めたので、さすがにうざいと思って答えないでいると、
「ああああ、何か愚痴になっちゃったなああ。」
と言ってごまかしました。
「今は何とか波乱もなく、生きている間は悔いのないように、後生へのお勤めなども思う存分やりながら引き籠って過ごしたいなと思っているが、この世の思い出にできるようなことがないのが残念なんだ。
今は取るに足らぬ幼い姫君でも成長するのをずっと待たなくてはな。
恐縮だけど、この源氏一門の繁栄のために、俺がいなくなってもわすれないでくれよな。」
返事は大変控えめな感じで、やっとのことで一言ばかりかすかに聞こえてくるような状態で、愛しくてしょうがないとばかりにそれに聞き入って、日が暮れるまで静かにそこにいました。
「後を託す人への望みはともかくとして、一年のうちに移り変って行くその時々の花や紅葉や空の様子などをながめても、心を満たすのも悪くはない。
春の花の林、秋の野の花盛り、どっちが良いかなんてちょっとした議論になるけど、その二つの季節のどっちが趣きがあるかと言うと、なかなか決められないものがある。
中国では春の花の錦に如かずと言うし、日本の古歌では秋の哀れが勝ると歌われている。
どちらも毎年のように見てきているんだが、どれもこれも風情があって、花も鳥も甲乙つけがたいんだが。
狭い垣根の内側でもその季節の情のわかるように、春の花の木も植え、秋の草をも移植してそこいらの野で捕まえた虫でも棲ませて、見る人を楽しませたいんだが、どっちの方がよろしいかと。」
と尋ねれば、
そう言われてもよくわからないと思いながらも、返事しないのもなんなので、
「でしたら私なんぞに聞かれてましても。
どちらとも言えませんけど‥‥。秋の夕べは不思議と人恋しくて、儚く消える露のように胸が詰まります‥‥。」
と消え入るような頼りない声がまた可愛らしくて、我慢できずに、
「その情をともにしたいな俺だって
人知れず秋の風は身に染みる」
「それはちょっと容認できないわね。」
と言っては、返す歌もないという様子でした。
ここで一気に迫ることができなかったのは、痛恨の極みでしょうね。
もう少しで間違いをしでかす所でしたが、
こそっと奥の部屋に下がってしまった様子なので、
「どんなけ俺のことが嫌いなのかよ。
思いやりのある人ならこんな仕打ちはしない。
これから先憎んだりすんなよ。
お前だってつらいだろっ!」
と捨て台詞を言って帰って行きました。
源氏の焚き染めた香の匂いが残ってるのも気色悪いでしょうね。
お付の女房達は
「この敷物の移り香、初めて。」
「どこからこんな柳の枝に桜を咲かすようなことを思いつくのかしら。」
「危険。危険。」
などと言い合ってました。
西の対の方に戻ってきてもすぐに寝殿に入ろうとはせず、庇の端っこの方に寝っ転がってました。
灯籠を遠くにおいて、近くの女房などを集めて何か面白い話でもさせてました。
「こんなふうに無茶なことをして後悔する癖がまだ直ってなかったか。」
と我ながらあきれてます。
「これは身分違いのことをした。
これ以上ないくらいの重大な罪であっても、昔だったら若さゆえの思慮不足ということで神仏も許してくれた。」
とは思うものの、それにしてもあの子は思慮深くて先行き安心だと思い知るのでした。
西の対の
「あの女御が秋の淋しさに心を寄せているのも風流なことだが、お前の春のあけぼのをこよなく愛するのもよくわかる。
季節ごとの木や草の花を興にして、夢中になれるような音楽の宴などしてみたいな。
公私ともに忙しい今の自分にはなかなか難しいが、何とかしたいもんだ。
ただ出家してしまったら淋しくなると思うと悩んじゃうな。」
などと語らいながら‥‥。
*
「あの山里の人はどうしているか」と常に思い出してはいるのですが、いろいろ肩身の狭い立場なだけに、訪ねてゆくことも難しくなってます。
「世の中を不条理で鬱陶しいと思っているようだが、どうしてそんなふうに思うんだろうか。
気安く二条院にやって来て特別扱いされて暮らすのは身分不相応と思っているのが何とかならないか」
と、また例の念仏三昧にかこつけて出かけてゆきました。
あれからずっと住み続けていたせいか、ぞっとするような荒れ果てた家の様子は、たとえすっかり忘れていた人の家だったとしても悲しくなることでしょう。
ましてや深い仲になって子供まで作り、その子供と引き離される、そんな辛いことばかりあったことを思うと、簡単に慰められるとも思わないし、どう取り繕っていいやらわかりません。
木々の鬱蒼と茂った中から桂川の鵜舟の篝火の光が漏れる様は、遣り水の蛍みたいで心打たれます。
「こんな家でさらに潮風に打たれたなら、もう言うことないでしょう。」
と言うと、
「漁火の光りが忘れられなくて
浮き船の私を慕ってきたの?
あの火は私の『おもひ』なの。」
ならば源氏も、
「この俺の深い思いを知ってるから
あの篝火もあんなに揺れる
俺を悲しませないでくれ。」と歌を返して恨み言を言います。
多分秋は心も物静かになる季節なので、「とうとい」ことに魅せられていつもより長く念仏の日を過ごし、少しは気もまぎれたのではないかと思います。
「本当懲りない。」
「これでこそ光の君。」
「また女御孕ませて、次の天皇も源氏の息子だったり。」
「本当、草萌ゆるを通り越えて草茂き。」
「何かその言葉、年がわかる。」
「まあ、年取ったのはお互い様。」
「我々の世代なら、『春はあけぼの』も壺。」
「で、秋は夕暮れ。」
「懐かしいわね。定子彰子戦争。」
「ここではサキコアマネコ戦争になるのかな。」
「その秋の寂しさをともにしないか?」
「わあ、やだーーー。」
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