第50話 薄雲1 着袴
長和3年(1014年)、夏。
藤式部
「前よりはだいぶ楽に描けるようになった。
玉鬘の物語に早く進めるよう、ペースを上げてゆくね。
今日も始まり始まり。」
日に日に冬めいてくる頃、河辺の住まいは次第に忘れ去られたようになり、途方に暮れながら日々を過ごしていると思うと、
「このまま放置しておくわけにもいかない。
近くに来る決心を付けてくれ」
と勧めるのですが、近くに行ったからと言って通って来なければもっと辛いことにもなって、完全に詰んでしまいそうで、どうしようもないことになると、思い悩むばかりでした。
「せめてこの若君だけでも。
このままでは可哀想だ。
こちらに思う所もあるんで、それが無駄になってもいけない。
うちの者もこの子のことを知って早く会いたがっているので、少し馴染ませておかなくてはいけないし、三歳の
と一生懸命説得を試みます。
それをやらなくちゃとずっと思っているだけに、ますます気詰まりに思います。
晴れて養子になって源氏の君の奥さんに世話してもらうことになっても、その子の出自について良からぬ噂が広まってしまうことを、なかなか止めることはできないのではないかと思うと、自分の元に置いておきたいとナミコは思います。
「その辺の事情もわからないではないが、悪い方にばかり考えないで、俺を信じてくれよ。
こっちには何年も一緒にいても子供がなくて、物足りなく思っている人がいて、前の斎宮のようなすっかり大人になった人でも一途に世話してきたんだから、こんな誰が見ても憎むことのできないような子をほったらかすことなんかあるはずがない。」
と
「確かに以前は人から聞いた噂でも、浮気ばかりして一体どこに落ち着くものやらと言われておったものの、今はその頃の俤もなく浮気心も収まったゆうのやから、あの奥さんとの前世の宿命というのは半端なく、人柄の方も他の女よりも優れていたんやろうな。」
と思ってはみるものの、
「そんな立派な人に対抗できるなんて思わないし、まあ、そんな人の前にしゃしゃり出ても、その人も面白くはないやろな。
どっちにしたってこの私の扱いは同じなのよね。
まだまだ遠い未来のあるあの子も、結局はその人の気持ち次第やしね。それならまだ物心つかないうちに譲った方がええわな。」
と思います。
「それでも手放してしまったらその後のことが心配でしょうがないやろうし、何もできずにもやもやしたまま途方に暮れそうだし、どうやって生きて行けばいいのやら。わざわざこっちに立ち寄ってくれる理由もないやろな。」
など、あれこれ悩むばかりで頭が痛くなるばかりです。
尼君は思慮深い人なので、
「悩むだけ無駄よ。
逢えなくなるのは本当に胸の苦しいことやが、とにかくこの子のためにどうすればええかだけを考えるとええが。
同じ御門の皇子でも、母方の身分でいろいろ決まってしまうこともあるんや。
あの源氏の大臣の君も、この世に二人といない逸材なのに臣下として仕えているのは、今は亡き大納言の身分が今一つだったせいで、更衣の生んだ子と言われ続けて差別されてしまったんやろが。
皇子でさえそうなんやから、下々の者はその程度で済むはずもない。
たとえ親王や大臣を生んだ人だって、正妻に比べれば一段落ちるもので、世間も見下し、父親の可愛がり方も同じということはない。
ましてこの姫君なんぞ、やむごとなき筋の娘が入内してくれば、どこかに消し飛んでしまうわな。
でも、ほどほどの身分しかなくても、父親に特別に守ってもらえるなら、いつかは貶められなくなっていくはずや。
ただお任せして、守ってもらって、行末を見守りなさい。」
と
よく当たる占い師に聞いてみても、やはり「転居、大いによろし」というだけなので、気持ちも揺らいできます。
「袴着のことはどうするんだ。」
と言うその返事に、
「いろんなことでこんなふがいない私のもとにいても、これから成長していけば可哀そうなことになるのは同じだし、宮廷に行ってもみんなに笑われるだけやし。」
というばかりなのを、ますます残念に思います。
とりあえずは日取りを決めて、密かに手はずを整えさせます。
娘を手放すのはどうしようもなく悲しいことですが、我が子のためにはこれでいいんやと、自分に言い聞かせます。
「乳母も連れていかれると思うと、日がなその憂鬱さを語り合っては慰めあうこともできなくなるし、ますます心の拠り所を失って、どつぼやなないか。」
と泣き出すと、乳母も、
「こんなふうになるのも思いがけないことで、あなたとお会いしてから長いことお世話になったことは、忘れることはできないかけがえのないこととは思いますし、それがここで終わりになるなんてことはないものと思います。
いつかまた一緒にいられることを信じながら、しばらくは離れ離れで慣れない奉公になりますので、不安に思うのも当然でしょう。」
など、泣いたりしながら過ごしているうちに十二月になりました。
*
雪や霰がぱらつく季節になり、ますます心細くなって、何でこんなに憂鬱なことばかりなんやとため息をついては、今まで以上に若君の髪や身なりを整えてました。
雪の陰鬱に降り積もる朝、これまでの事やこれからの事あれこれ考え続けては、いつもは特に庭の方に出てくることはないのですが、水の流れる
こぼれる涙をぬぐいながら、別れた後にこんな日が来たなら、どうなってしまうのか想像もつかないといじらしくも涙ぐみ、
「雪深い山奥の道は晴れなくても
手紙は絶えることなく届けて」
と歌えば、乳母も涙ぐみ、
「雪降らない日はないという吉野でも
心通わす跡は途絶えない」
この雪の解け始める頃、
いつもなら待ちに待ったというところですが、これから起こることを思うと胸が締め付けられるように痛み、自責の念にかられます。
自分で決めたことやしな、断わっても無理強いはしない、何でこうなるんや、と思ってはみても、ここで気弱になってはいけないと自分に言い聞かせます。
とにかく可愛らしく前にちょこんと座っている姫君を見た
今年の春から伸ばしている髪の毛も肩の辺りの
余所へと手放してしまう側の心の悲しみを推し量ると、とにかく心苦しくて、繰り返し抱きしめて夜を明かしました。
「とにかく、こんな残念な身分にならないように大切にしてくれたら。」
と言ってるそばから堪えきれずに泣き出すあたり、悲しいものです。
姫君は何も知らぬままに、慌ただしく車に乗せられてゆきます。
車の停めてあるところに、母親自ら抱いて出て来ました。
ようやく言葉を覚えた声はまじ美声で、袖を掴んで「乗りなさい」と引き寄せると、
「いとけない二葉の松を引き裂いて
いつか立派な木を見れるのか」
これ以上何も言えず泣きじゃくるばかりで、「そりゃ、まじ苦しいよな」と思って。
「武隈の二本の松の根は深い
小松もいっしょに千年生きよう
落ち着きなさい。」
と慰めました。
こうするしかないと思って心を鎮めようとしますが、それでも堪えることができません。
乳母と少将という人柄の良い人ばかりが、賜った太刀や厄除けの人形などの皇女にふさわしい物と一緒に乗り込みます。
もう一台の車には、それ相応のお付の若い女房、遊び相手の童女などを乗せて、あとを追って出発しました。
着くまでの道すがら、残された人の悲しみを思うと、「こんなことして後生にどんな罰を受けるのだろうか」と思います。
到着した頃には暗くなっていてましたが、車を寄せるとそこは華やかな別世界で、すっかり田舎に慣れ切った感覚では、不釣り合いでやっていけるのかと思うものの、西面の部屋を特別に用意して、子供用の調度なども可愛らしいものを作らせていました。
乳母の部屋には西の
姫君は来る途中の道で寝てしまいました。
抱き下ろされても泣くようなこともありません。
二条院の
ただでさえ侘しい山里はこれからどうなるのかと心配になるのは残念ですが、これから毎日思うままに育て上げ一緒にいられると思うと、これで良かったんだという気分になります。
「どうしでなんだか、誰が見ても文句のつけようのない身分の子になるというのに、こっちじゃ生れないんだな。」
と悔しい気もします。
しばらくは、今までいた人たちを探して泣いたりもしてましたが、大方人見知りもなく陽気な性格なので、新しい母にもすぐに馴染んで、「やばい、まじ可愛い子ができちゃった」と思いました。
当たり前のように抱きしめては一緒に遊んだりして、乳母とも自然と親しくなりました。
もう一人高貴な出の乳母が加えられました。
調度や飾りや何かは雛遊びをイメージしたもので、なかなか興味深いものです。
参列した客人たちもほとんどいつもの延長のようなもので、特に目立ったものではありません。
ただ、姫君の
桂川の方では、子供のことをいろいろ思っては、自分にもっと何かできなかったのか、更なる悩みが加わりました。
そういえば尼君もますます涙もろくはなったものの、
こちらから贈るようなものは何もなかったので、ただ姥を初めとするお付の人達のことを思って、特別の色合いの装束を急いで送ってやりました。
以前にもまして淋しくなった住まいでは、一日世話をしていた子供もいなくなって、また自虐的になってないかと思うと心苦しくて、手紙も欠かさずに届けさせていました。
二条院の
*
年が明けました。
二条院では麗らかな空に何も思うこともないといった感じで、さらに磨きのかかった装束を着ていつになくお目出度く、七日には官位を賜った重鎮たちがぞろぞろと年賀のお祝いにやってきました。
若くして官位を得た人は満面の笑みを浮かべています。
下々の人達はいろいろ心の中では思うこともあるのでしょうけど、こういう御時勢なのでどこか誇らしげに見えます。
二条院東の院に移ってた花散里の人達もご機嫌で、願いがかなったような様子で、仕えている女房や
それでも穏やかな性格なのか無邪気に、「こうなるのは当然のことよ、ほほほ」とばかりにすっかり満足しきった様子で、折々の社交儀礼なども
山里の憂鬱のことが頭から離れず、公私ともいろいろ忙しい中で、通わなければという思いも募り、桜色の
姫君は無邪気に指貫の裾にを掴んですっかりなついていましたが、外に出るときには立ち止まって、まじ可愛いと思いました。
なだめながらも
♪明日帰ろうか
と、そう言いながら待たせる男のはやり歌を口ずさんで出発しようとすると、
《船を止める遠くの人もいないから
明日は帰るといつまでも待つのね》
すっかりお約束になった反応に、何やら嬉しくてしょうがないというふうに微笑み、
《行ってみて明日は帰るさなまじっか
遠くの人が引き留めたとて》
何のことかわからずに遊びはしゃいでいる子供がとにかく可愛くて、遠くの人が妬ましくても、まいっかと許しちゃうのでした。
「さぞかし恋しがってることでしょうね。
私だってやばいと思うもの。」
と目で追いながら懐に抱きよせると、出てこないおっぱいを口に含むのも可愛らしくて、見てて飽きません。
女房達は、
「これが本当の子でしたらねえ。」
「まったくよねえ。」
などと言ってました。
あちらでは大変長閑に至れり尽くせりの生活をしていて、家の様子も他とは違う一風変わった造りで、住む人の立ち居振る舞いも見るたびに皇子や大臣クラスと言われてもわからないくらいに欠点がなく、容貌も仕草も大人の風格が出てきています。
「そこら辺にいるような女性であればその程度と思う所だが、これだけの人が偏屈な親の評判や何かで埋もれてしまったのは残念なことだ。
家柄も悪くないのにな。」
などと考えます。
ほんのちょっと会うだけではやはり飽き足らないし、このまま悶々として帰るのも不本意で、これも「夢のわたりの浮橋か」と悩みつつ箏があったのを引き寄せて、明石の夜更けの入道とのセッションのことも思い出して琵琶を弾くように勧め、少し合わせて見て、「やっぱ同じように弾きこなすんだな」と思いました。
姫君のことなどもいろいろ語り合ったりしました。
こんな田舎ではあるものの、こうして泊って行く時があればちょっとした酒のおつまみや
近くにある嵯峨野の御堂に用があるので桂に建てた別邸に行くと言ってごまかして、まじに熱を入れ挙げているわけではないけど、明らかに中途半端な十人並みの扱いをしない辺りは、世間も特別な人だと思っていることでしょう。
皇族の娘の所に行くときでさえ、こんな打ち解けた態度をとることもなく、紳士的にふるまっていると聞いていたので、近い所で一緒に暮らしたらかえって馴れ馴れしくしているように見えて人に見下されることもあるし、時々こういうふうにわざわざ来てくれるくらいの方がちょうどいいんだと思いました。
明石入道も仏道に専念するようなことを言ってたけど、源氏の意向やこちらでどんな暮らしをしているか気になってしょうがなくて、人を遣わしてはやきもきしていて、嬉しく晴れがましく思うこともたくさんありました。
「とりあえず娘の方だけ回収ね。」
「入内させて后になる人なのでしょうね。」
「占い通りなら。」
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