第31話 榊4 凋落

 藤式部

 「今年の冬に、何か発表があるかもしれませんが、今は言えません。

 この物語がいろいろな人に気に入ってもらえて感謝します。」


 「えっ、何、やっぱあの噂は本当なの?」

 「あのやんごとなき人はやはり‥‥。」


 藤式部

 「では始まり始まり。」




 年が変わって内裏の中も華やかになり、踏歌節会とうかせちえの日の内宴などの話など伝わってくるものの、出家した中宮ヤスコの我が身のみ悲しくて、仏様へのお勤めだけをしめやかに行いながら来世のことを思うと、頼りでもあり厄介でもあった源氏とのことも遥か昔のように思えてきます。


 いつもお勤めを果たす念誦堂ねんずどうはいうまでもなく、西の対の南に少しはなれたところに別に建てられた御堂にも行っては特別なお勤めを行ないました。


 源氏の大将ミツアキラがやってきました。


 まるで年が変わってないみたいに屋敷の中は静かで人の気配もほとんどなく、中宮ヤスコと親しかったお付の者だけがすっかりしょげ返って、どことなく痛々しい感じがします。


 白馬節会あおうまのせちえだけがまだ変わらずに行なわれていて、女房などが見物しています。


 かつては所狭しとやってきて集ってた上達部なども門の前を素通りして、向いの大臣タカミチの所に集っているのを、しょうがないとはいえ悲しく思っている所に、千人にも相当するような格好でわざわざ尋ねてくるのを見ると、わけもなく涙ぐんでしまいます。


 その客人もそのひどく寂れ果てた様子をさっと見回して、一瞬声も出ません。


 がらりと様変わりした部屋の中は、御簾の端、御几帳も青鈍あおにび色で、所どころ垣間見える薄鈍うすにび支子くちなし色の袖口などなかなか渋くて奥ゆかしい感じがします。


 「次第に解けてゆく池の薄氷や岸の柳を見ると、時間が冬のまま止まったわけではない。」

などといろいろ眺めて回り、

 「なるほど、有名な松ヶ浦島ついに来た風流を知る海女の棲家か。」

と小声でふと口ずさむ様子もまた渋さの極みです。


 「悩ましいアマの棲み家と見るからに

     塩水垂れる松ヶ浦島」


と歌を捧げると、どこもかしこも仏の棲家となった部屋なので、それほど奥の方でもなく、いつもより近く感じられる所から、


 「遠い世の面影もない浦島に

    波が寄るのも珍しいですね」


と返歌をするのが微かに聞こえてくれば、こらえていた涙がほろほろとこぼれました。


 この世のことをすっかり悟ってしまったような尼さんたちの注目を浴びているようで居心地が悪く、言葉少なに立ち去りました。


 「ほんと立派な大人になったわね。」

 「何不自由なく栄華を極め、時も味方してくれている時はいつでも自分が主役で、この世の苦しみなんてわかるはずもないだろうと思ってましたが、今は身をもって悟ったのか、些細なことでも悲しそうな顔をして、何かちょっと可愛そうだわ。」

などと、すっかり年老いた女房達は、涙を流し、源氏の君ミツアキラに同情しています。


 中宮ヤスコもさぞかしいろいろなことを思い出しているに違いありません。


   *


 司召つかさめしの除目の頃、中宮の周辺では期待されるような官位を授与されることもなく、常識で考えても、三宮(太皇太后、皇太后、皇后)の叙位権による年爵ねんしゃくによって当然あるべき加階かかいなどもまったくなく、溜息をついている人がたくさんいました。


 出家したからといって即座に中宮ヤスコの地位を失い、封戸支給が停止される何てことは本来ないことなのに、何か口実を作っては勝手に捻じ曲げられてしまうことがたくさんありました。


 こうしたこともみんな捨ててしまったと思っては見るものの、自分に仕えていた人たちが何を頼っていいのかわからず悲嘆にくれている様子を見ると、出家の決意が揺らぐこともしばしばですが、自分のことはともかく春宮の即位がスムーズに行くことだけを考えて、仏道の修行をこれまでどおり続けました。


 人には言えないようなうしろめたく気がかりなことがあるため、

 「その罪は私が背負いますから、春宮の方の罪はどうか軽くし、お許しください。」

と仏様にお祈りしては、すべてのことに関して心を静めています。


 源氏の大将ミツアキラもその姿を見届けては、全くだと思いました。


 源氏の周辺も全く同じで辛いことばかりなので、世の中の冷たさを肌で感じながら隠棲しています。


 左大臣イエカネも公私とも情勢がすっかり様変わりしてしまったのすっかり嫌気が差し、辞表を出したところ、御門は亡き崋山院が御門の欠かすことのできない後見人にとの配慮で、末永くこの国の政治の要とするように遺言してたのを反古にできないと思い、そのようにせずともと、何度も受理しないでおいたものの、無理にでもと申し出で隠棲しました。


 こうして右大臣タカミチの一族だけがどうしようもないくらいに限りなく繁栄を極めることとなりました。


 みんなの信望を集めていた左大臣イエカネのこうした辞任劇に、御門も心細く思い、世の人も良識のある者は嘆くばかりです。


 左大臣イエカネのご子息達もいずれも何不自由なく出世し気持ちよく仕事をしていたものの、すっかり意気消沈し、三位の中将ナガミチなどもすっかり世の中に失望してました。


 右大臣タカミチの四女の所には今でも途絶えがちながらも時折通うものの、冷淡にあしらわれるだけで身内として扱われることはありません。


 思い知れとばかりに今回の司召の除目からも漏れたものの、何の感情もありません。


 源氏の大将ミツアキラも、このようにおとなしくしている三位の中将ナガミチの姿を見るにつけてもこの世のはかなさを見る思いで、まあしょうがないかとあきらめ、しょっちゅう尋ねて行っては学問や音楽を共に楽しみました。


 昔はお互いにこれでもかと張り合ってたのを思い出して、今でもちょっとしたことで張り合ってみたりします。


 春秋の御読経みどきょう(大般若経の始めと中と終わりをかいつまんで読む法会)も宮廷とは別に独自に行い、それ以外の時にも様々な有難い法会を行なったり、また、同じように干されたか、暇をもてあましている博士達も召喚して漢詩を作らせたり「韻塞いんふたぎ」という韻字を当てさせるゲームをやったりして気晴らしにし、宮廷にはほとんど顔も出さずに勝手気ままに遊び呆けていると、世の中にはお節介なことを言う人もいろいろ出てくるものです。


 梅雨時の雨がしとしと降る退屈な季節に、三位の中将ナガミチが古今の漢詩集をたくさん持ってやってきました。


 源氏の大将ミツアキラ文殿ふどのを開けて、まだ開けたことのないいくつかの保管庫から見たこともないようなそれでいて由緒のある古い漢詩集を少しばかり選び出しては、漢詩の心得のある人たちを大勢個人的に招待しました。


 殿上人も大学寮の博士達もとにかくたくさん集り、左方と右方に組み分けして座らせました。


 賞品も二つとないような凄いもので、真剣勝負です。


 韻字を当てさせて行くうちに、難しい韻字がこれでもかとたくさん出てきて、博識を誇る博士でさえ考え込んでしまうような所でも源氏の大将ミツアキラがことごとく当てていってしまうのには、本当に天才としか言いようがありません。


 「うむ、こうも完璧なのは何でじゃろうな。」

 「天性のものじゃろうかのう、万事人よりも抜きん出ているのは。」

と褒め称えます。


 結局右方の負けとなりました。


 二日ほど後に右方の主将だった三位の中将ナガミチが、罰としてみんなにご馳走を振舞いました。


 そんな大袈裟なものではなく、しっとりと落ち着いた檜の駕籠に盛り付けた料理やゲームの賞品などもいろいろと用意され、今日も例によってたくさんの人が招かれ、漢詩などを作らせました。


 正面の階段の下にはイバラの花がわずかに咲いていて、春秋の花盛りに較べれば地味だけどなかなか面白い時期で、なごやかに楽器を演奏したりして楽しみました。


 三位の中将ナガミチの御曹司は八歳か九歳ぐらいで、今年童として殿上デビューすることが決まっていて、ボーイソプラノの声がなかなか美しく、笙を吹いたりもして可愛がられながら演奏に加わってました。


 右大臣タカミチの四女との間にできた次男でした。


 世間からの期待も大きく、特別大事に育てられてました。


 鋭敏な性格で見た目も丹精で、音楽演奏の少々脱線してきた頃、催馬楽の『高砂』を謡いだして、これがまた見事な美声でした。


 源氏の大将ミツアキラ、褒美として御衣おんぞを脱いで与えました。


 いつになく頬が緩んだその顔の色艶は、喩えようがありません。


 薄物の直衣のうしを一枚羽織っただけなので、透けて見える肌がやけになまめかしくて、年老いた博士なども遠目に見ながら涙を流してました。


 「今朝初めて咲いた百合の花を見たかったのに」という『高砂』の結びの部分で、三位の中将ナガミチが盃を持ってきて、


 「これでもかと咲いたばかりの初花に

     負けてないのは君の花の香」


 源氏の大将ミツアキラはにっこり笑ってその盃を受け取ります。


 この時勢花は咲いても夏の雨に

     萎れるだけだ香ることなく


 落ちぶれたもんだ。」

といかにも酔った勢いで乱雑に歌い上げるのを、まあまあと言いながら更に飲ませました。


 こうしたエピソードは枚挙に暇がないほどあったのでしょうが、不幸自慢は酒の席だけにとどめるべきもので、つらつら書き連ねるようなものではないと紀貫之も苦言を呈しているように、うざいと思われる前にこの辺でやめておくことにしましょう。


 列席者は皆こうした源氏のことを誉めそやす方向で、和歌や漢詩を作り続けました。


 源氏の大将ミツアキラはすっかり上機嫌で驕り高ぶり、「文王の子、武王の弟」と史記の一節を暗誦し、自分のこととするあたりは本当にお目出度いものです。


 亡き院を文王に、今の御門を武王に例えるのでしたら、当然その次には成王の何ちゃらと言いたいのでしょう。


 それはちょっと問題がないではなくて‥‥。


 兵部卿宮もしょっちゅう源氏のもとを尋ねてきては、音楽なども大の得意の宮様なので、なかなか今風のお似合いのツーショットです。


   *


 その頃、尚侍ハルコが宮廷を離れました。


 マラリアにずっと罹っていて、加持祈祷などを気兼ねなく行なうためでした。


 験者の修法などをやって治ったので誰も彼もが喜んでいる時に、例によってまたとないチャンスとばかりに手紙で連絡取り合って、なりふりかまわず夜な夜な逢瀬を重ねました。


 女ざかりの豊満なボディーもちいっとばかり病気になったせいか痩せ痩せになり、それがまた美しくもあります。


 皇太后リューコも一緒に滞在しているので、ちょっと危険な匂いがするものの、源氏の君の女癖ミツアキラはその程度のことでめげるようなものではなく、いくらこっそりと忍び込んでもたび重なれば誰も気付かないはずはないのですが、面倒くさいことになるのでわざわざ皇太后リューコに報告するようなことはしません。


 右大臣タカミチもやはり気付いてなかったのですが、暁方急にどしゃ降りの雨になり雷がごろごろと大きな音を立てたため、右大臣タカミチの息子や娘達や屋敷に仕える職員達が大騒ぎをし、どこもかしこも人目が多く、女房達も恐がって近くに集ってきたため、こっそり出ていこうと思ってもどうすることもできないまま夜がすっかり明けてしまいました。


 源氏と尚侍ハルコの籠っている御帳のあたりにも人がたくさんいるので、源氏の大将ミツアキラも不安で胸が潰れんばかりです。


 二人ほどいた共犯の女房もうろたえるばかりです。


 雷が止み、雨の少々収まってきた頃に右大臣タカミチが駆けつけてきて、まず皇太后リューコの所に行ったのですが、村雨の音に紛れて気付かないうちにその右大臣タカミチが軽い気持ちで部屋に入ってきて、御簾を引き上げながら、

 「大丈夫か?

 今夜は随分ひどい天気だったから、心配になってすっ飛んできたんだぞ。

 中将や宮のすけは一緒だったか?」

などと言う声の調子が、早口で上ずっているを源氏の大将ミツアキラは物陰に隠れながら左大臣イエカネの落ち着いた喋りとついつい較べてしまい、あまりの違いに笑ってしまいます。


 ちゃんと御簾の内に入ってから言えばいいものを‥‥。


 尚侍ハルコが大変申し訳なさそうにすっと御簾の外に出て行くと、顔が真赤なのをまた病気がぶり返したと勘違いして、

 「何だ、顔色が尋常じゃないな。

 物の怪の病だったらやっかいなことになるから験者の修法を引き伸ばしてもらわにゃな。」

と言いながらも、薄二藍うすふたあいの帯が御衣おんぞに絡み付いて引きずっているのを見つけ、変だと思っていると、さらに畳紙たとうがみに歌などが書き付けてあるのが几帳の下に落ちてました。


 これは一体何だとびっくりして、

 「これは誰のだ!

 家にいるもんのじゃないな!

 よこせ!

 持ってって誰のかつきとめてやる!」

と言い出すので、慌てて振り返ると確かにそんなものがありました。


 誤魔化しようがないし、何て返事すればいいのか‥‥。


 しどろもどろになっている娘に、大抵の親なら恥ずかしい思いをさせてはいけないなと思って遠慮する所でしょう。


 それなのに、せっかちで落ち着きのない右大臣タカミチは空気が読めず、畳紙たとうがみを引っ掴み、几帳の中を覗きこむと、不埒にも一緒に寝ていたと思われるやたらなよなよした男がそこにいました。


 今さらながらさっと顔を隠し何とかごまかそうとします。


 右大臣タカミチはあきれ果て、この野郎やりやがったなと思ってはみても、相手が相手だけに面と向ってどうこうというわけにはいきません。


 眩暈めまいがするような気分でこの畳紙を拾って、寝殿の方へと消えて行きました。


 尚侍ハルコは呆然と立ち尽くし、死んでしまいたいと思いました。


 源氏の大将ミツアキラも自分が嫌になり、積もり積もった不用意な行動の報いを受けるのかと思うものの、女君の悩み苦しむ様子を見るとひたすら慰めごとを言うのでした。


 右大臣タカミチは自身の感情を抑えることのできない性分なうえに、さらに老いの僻みもあって、何一つ躊躇することはありません。


 すっかり頭に血が上った状態で皇太后リューコに怒りをぶちまけます。


 「とにかくこういうことがあって、この畳紙はあの右大将ミツアキラの書いたものに間違いない。

 最初っからつきあうことなど許可した覚えのないのに、先帝の子だからということで黙認され、ならばあやつを婿にしようかと一度は言ってみたけど、そん時は気のないそぶりで放ったらかしにされていて穏やかでないと思っていたけど、それならと疵ものにされたとはいえ御門に無理を通して頼んで尚侍ないしのかみにしてもらったというのに、やはりその負い目があって堂々と女御に推薦することもできずに悔しい思いをしてきたというのに、またこんなことになったなんて、これでまた頭が痛くなる。


 浮気は男の甲斐性とは言うものの、それにしてもあの大将はけしからん。

 加茂の斎院アサコにも禁忌を犯し、こっそり手紙のやり取りをして誘惑しようとしていることなどみんな噂していたけど、世のためだけでなく本人にとっても良いはずのないことなので、まさかそんな思慮分別のないことをしでかしているなんて、今を時めく有識者として天下にその名をとどろかす人だけに、大将がそんなことをしているなんて疑っても見なかった。」


などとまくし立てると、皇太后リューコはただでさえ源氏を憎んでいたので、何やら考えがあるような様子で、


 「御門とはいっても、昔からみんな密かに見下していて、この前やめた左大臣イエカネもまたとないくらい大事に育てていた一人娘を春宮の所に出仕させず、弟の源氏がまだ幼いというのに元服の時の添い寝役にし、またあの子も春宮のところにと思ってたのにあんな馬鹿なことになっても、何で誰も変だと思わなかったんでしょうね。

 みんな源氏の方に味方して、今の御門に仕えてはいても本心からではなく、可愛そうに。

 そんな御門の下でも誰にも負けないように気配りしてあの妬ましい人を見返してやろうと思ってたというのに、あの子までも結局源氏の方になびいてしまったのね。

 斎院とのことも、いかにもありそうなことね。

 今の御門の治世を何かにつけて快く思わないというのも、あの春宮の御世みよになることを願う人ならば当然のことなのでしょうね。」

と歯に衣着せぬようなこと話し続けるので、さすがに困り果て、知らせない方が良かったかと思い、


 「ともあれしばらくはこのことを内緒にしておきましょう。

 御門にも言わない方がいい。

 あんなふうに悪さばかりしていても御門に許してもらえると思って甘えてるだけなのでしょう。

 娘にはもうあやつと付き合わぬように言っておく。

 それで治らないようなら責任は私が取ろう。」

などと言い直したものの、皇太后リューコの機嫌は直りません。


 こんなふうに一緒に住んでいて隠しようもないのに、堂々とそんなことをするということ自体、軽く見られたもんだと思い、機嫌がますます悪くなるばかりで、こういう次第なら例の計画を実行に移す絶好のチャンスだと、思いを巡らしていたのでしょう。




 「ついにバレた。」

 「源氏ざまあ。」

 「これでみちのく行き。」

 「みちのく一人旅よろしく。」

 「みちのくで落馬して死んだりして。」

 「それこそ天罰。」

 「みちのくでもどうせ女作るんでしょ。」

 「くたかけ《糞ニワトリ》女、草萌ゆる。」

 「だったら安達ケ原で鬼一口がいいんじゃない?」

 「源氏物語これで終了。」

 「清原の少納言の復活ね。」

 「源氏推しもだ。」

 「源氏推しだも。」

 「源氏推し、だもまり。」

 「あくまでこれは物語なのにね。」

 「何盛り上がってるんでしょう。」

 「主人公がそんな簡単に死ぬわけないでしょ。」

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