第32話 花散里
寛弘三年(一〇〇六年)、春。
「式部さんが中宮の女房に?」
「去年の暮れに慌ただしく決まったみたい。」
「だいぶやつれてたけど、大出世ね。」
「でもかえって大変そう。」
「ますますやつれたりして。」
「まあ、左大臣がちょくちょく見に来てたし、その娘だからね。」
「これで旧定子派も終わりね。あの少納言も帰ってこないし。」
「ナギコ、草萌ゆる。」
「何笑ってんの。
源氏物語なんて嘘八百じゃないの。どこにもほんとのことなんて書いてない。
それに比べて枕草子はちゃんと本当に有ったことを書いている。
正直者と嘘つき、どっちが上かははっきりしてるわ。」
「いくら本当のことを書こうにも、人間の書くことなんて大体良い所だけ切り取ったり、印象操作が付き物なのよ。
最初から嘘とわかってる物語の中にこそ、真実と言うのがあるもの。」
「本当のことは人を傷つけるけど、嘘は誰も傷つかない。」
「第一、嘘の方が面白い。」
「そう、面白いは正義。」
「枕草子だって面白いよ?」
「枕草子は嘘をついた部分だけ面白い。
源氏物語は全部嘘だから全部面白い。」
藤式部
「はいはい、いろいろ議論はあるとは思いますが、物語は邪魔しないでちゃんと聞いてね。」
誰も知らない自らの浮気性からくる悩みというのも今に始まったことではないのでしょうけど、こんなふうに世の中全体が病んでいてどうしようもないことばかりが増えてくると、すっかり世の中が嫌になるもんですが、実際には悪いことばかりでもありません。
妹の三の君のノブコは、宮中にいる時に少しばかり気のあるそぶりをしたこともあったものの、源氏の性格からして完全に忘れたわけでもありません。
ただ、ほとんど通うこともなく、待つ人の心を無駄に疲れさせるばかりでした。
それでも、この頃の何から何まで思うように行かない世の中に、何か面白いことはないかとばかり、ひとたび思い出すと居ても立ってもいられずに、五月雨の空の珍しく晴れた雲のない時に出かけて行きました。
みすぼらしい格好でこれといって着飾ることもなく、先導する人も特になく、お忍びでやってきました。
中川のあたりに来ると木々など品よく植えられているささやかな家があり、音色の良い筝を和琴の音階にチューニングして賑やかに弾き鳴らしていました。
かなりご無沙汰しているので覚えているかな、と気が引けるものの、通り過ぎるのも忍びなくたたずんでいると、ちょうどその時ホトトギスの声が響き渡りました。
これは寄って行けと言っているようなもので、車をバックさせ、例によって惟光を中にやりました。
「何回も鳴くことのないホトトギス
愛の記憶も微かな家に」
寝殿と思われる建物の西側の隅に女房達がいました。
以前にも聞いたことのある声なので、咳払いをして様子を見、挨拶を交わします。
大勢の若い女の気配がして、様子を伺っているようです。
「ホトトギスの尋ねる声はそれとして
何かあやしい五月雨の空」
何かごまかそうとしているなと思い、惟光も、
「何だ、植えた垣根はここではなかったか。」
と言って出て行くものの、内心悲しく残念に思うのでした。
「きっと言えないような事情があるんだな。
しょうがないとはいえ、心外だな。
こういう境遇だと筑紫の
と、真っ先に思い浮かぶのでした。
どんな女でも見境なく手を出すので、いくつになっても悩みがつきません。
結局このように、一度関係を結んだ女をいつまでもキープしようとするので、かえって多くの女性の悩みの種になるのです。
*
さて、本来の目的である
まず、麗景殿の女御のところで昔話などを聞くうちに、夜も更けていきました。
二十日の月の光が差し込んでくると、遥か高い木の姿が黒々と見えて、近くにある花橘の香りが懐かしく匂ってきて、女御の一挙一動は年はとったものの細やかな神経が行き届いていて、高貴な可憐さを具えています。
特にこれといって華やかなご寵愛を受けていたという記憶はないけど、崋山院も親しみを感じ離れがたく思っていたな、などと思い出話をするにしても、昔のことが次から次へと浮かんできては涙がこぼれます。
すると、ホトトギスがさっきの家の垣根で鳴いたのと同じ声で鳴きました。
「さては俺のことを慕って追っかけてきたな」
と思うあたりがさすが色男。
我が意を得たりとばかり、内緒話のように小声で口ずさみます。
「橘の香を懐かしみホトトギス
花散る里にやってきました
過去の栄光が忘れられなくて苦しいときには、すぐにでも駆けつけましょう。
気が紛れることもあれば、もっと悲しくなることもあるでしょうけど。
誰だって時の流れには勝てないもので、昔話をいろいろとたくさん出来る人が少なくなって、あなただってもう随分長いこと気を紛らわすことができずにいたんでしょ。」
と言う源氏を見ると、確かに世の中変わってしまったものの、こんなに何もかも悲しいと思い詰めた様子が尋常でないのも、この人の身分のせいかと思うとますます哀愁が漂います。
「誰も来ない荒れた家では散っちゃった
花だけが軒の妻なのでしょう」
と言うだけですが、それだけでもさすがに並の人ではないなといろいろ較べてしまいます。
例によってあれこれでれでれと口説き始める言葉も、満更嘘ではないのでしょう。
仮にであれ源氏が目をつける人というのは、並大抵の身分の人ではなく、何に付けても凡庸だと思えるようなところはないので、憎むようなこともなく、お互いに才気あるやり取りを楽しみながら過ごすのでした。
それだけでは物足りない人はいずれ心変わりしていくもので、そういう人は「常識的に考えればそんなもんだろうな」と思うことにしているようです。
さっき立ち寄った垣根の人も、そんな感じで心変わりしていった一人なのでした。
藤式部
「そういうわけで、これからは中宮様の女房として、いろいろ忙しく、筆が滞ることもあるかと思いますが、ご容赦願います。」
「このことは中宮様たっての願いで実現したもので、可能な限り執筆を優先させたいとの。
何よりも中宮様は続きが早く聞きたいとおっしゃっておられます。」
「つまり、一番最初に聞く権利が欲しいというの?」
「まあ、中宮様なら当然でしょうけど。」
「それって、中宮様が駄目出ししたら駄目ってこと。」
「おお怖っ。」
「まあ、今までも左〇臣がチェックしてたとか。」
「幻の巻があったわね。」
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