第29話 榊2 右大臣の時代

 左大臣みちなが

 「暗い展開になって来てるけど、みんなついてきてるね。」

 左大弁ゆきなり

 「あの時代を思い出しますね。」


 「あの時代って?」

 「若い人は知らないかもしれないけど、あのおばさんたちの時代と思えば想像つくでしょ。」

 「そう、天罰が下った。」

 「あの病気の流行ね。」


 藤式部

 「さあ、秋も深まって来るけど、長い夜を物語で楽しもうね。」





 崋山院の病気は十月になってから、危篤状態に陥りました。


 世の中に惜しまない人はいません。


 内裏からも朱雀の御門みかどが深く悲しみながら行幸みゆきしました。


 すっかり気弱になりながらも冷泉院の春宮のことを大切にお世話するようくり返し命じ、更には源氏の大将ミツアキラにも話が及び、

 「今と変わらず、ことの大小に関わらず、何ごとも補佐してもらいなさい。

 年齢に似合わず、政治を任せるにしても、なかなか他に引けを取らないと見ている。

 必ず国家の最高の位を維持する相がある人だ。

 だからこそ、皇位争いの煩わしさを避けて、あえて皇子にはせず、臣下として朝廷を補佐させようと思ったんだ。

 それを忘れるな。」

と悲しげな遺言もたくさんありましたが、女が書き記し伝えるべきことでもないので、ほんの一部だけでお茶を濁すことにしましょう。


 朱雀の御門みかども大変悲しみながら、必ずその通りにすると何度も何度も約束しました。


 御門が大変凛々しい姿に成長なされたのが崋山院には嬉しくて、頼もしいと思いました。


 行幸みゆきの時間が限られていたので、急いで帰ってしまい、まだ言い足りないこともたくさんあったようです。


 春宮もご一緒にと思ってたのですが、そうなると行幸も大掛かりなものになりすぎるので、日を変えて対面させました。


 春宮はまだ数えで五歳ですが、歳のわりには大人びた整った顔をしていて、しきりに院に会いたがっていたところでしたので、無邪気に喜んで院のことを見ている様子がかえって悲しみを誘います。


 中宮ヤスコは涙にくれて、それを見守る崋山院も様々に心乱すばかりです。


 崋山院が春宮にいろいろなことを教えるのですが、まだ幼いのでじっと見守るしかなく悲しそうです。


 源氏の大将ミツアキラにも、宮仕えに必要な心構えや、春宮の後見となることを何度も何度も説きました。


 春宮は夜が更けてきたので帰りました。


 お付の者たちが全員で取り巻いて騒がしいのは、御門みかど行幸みゆきの時となんら変わりません。


 もう少し見ていたかったのに帰ってしまい、崋山院はとても残念そうです。


 皇太后リューコも来るはずだったのですが、中宮ヤスコが崋山院の所にべったりなのが気になって、どうしようか迷っていた所、院はひどく苦しむようなこともなくお隠れになりました。


 足が地に着かずあたふたする人がたくさんいました。


 皇位を去っていたとはいえ、実際の政治の中心を担っていたのは在世の時と同じだったし、御門はまだ歳も若く、祖父の右大臣タカミチは気が短くて人格の問題があり、天下がその右大臣タカミチの意のままになると一体どうなってしまうのか、上達部も殿上人もみんな頭を抱えるばかりです。


 まして中宮ヤスコ源氏の大将ミツアキラなどは、他の者にもまして頭の中が真っ白で、これからの葬儀や七日ごとの法要など行なう様子が一般の皇子達よりも立派に見えるのが、それが当然の務めとはいえ、世間の人を悲痛な思いにさせます。


 粗末な藤の繊維で織られた御衣おんぞを着てはいるものの、この上なく高貴な美しさを放ち、御いたわしい限りです。


 去年今年を立て続けに不幸が重なり、ひどく厭世的になるものの、この際いっそのこと出家でもしようかということになると、いろいろ振り捨てがたいものがたくさんあるようです。


 四十九日までは女御や御息所やなにかがみんな院の所に集まっていたものの、それが過ぎればそれぞれ帰って行きました。


 十二月の二十日ともなれば、大体において世の中全体が暮れて行く空の景色になるもので、中宮の心の内はそれ以上に晴れることがありません。


 皇太后リューコが何を思っているか知っているだけに、この世を我が物顔にして自分に辛く当たって来て居心地が悪くなるのではないかという不安よりも、長年共に過ごしてきた頃の崋山院のことを思い出さない時はないというのに、いつまでもここにいることができなくて、皆それぞれ他の所へと移っていくことが、どうしようもなく悲しのです。


 中宮ヤスコは三条の宮にもどりました。


 兄の兵部卿がお迎えに来ました。


 雪は舞い散り風も激しく、崋山院の屋敷から少しづつ人も減っていってしーんと静まり返っているので、源氏の大将ミツアキラも三条の宮に移動し、昔話などをしました。


 前庭の五葉松は雪に枝を垂れ、下の方の枝が枯れているのを見て、兵部卿の歌、


 「頼ってた松の大樹も枯れてゆき

     下葉が散ってゆく年の暮れ」


 何ということもないけど、こういう時だけに物悲しくて、源氏の大将ミツアキラの袖もびしょ濡れでした。


 池もびっしりと凍っていて、源氏の歌は、


 「澄みわたる凍った池の鏡にも

     いつもの姿なくて悲しい」


と思ったことそのまんまで、ちょっと子供っぽすぎるのではないでしょうか。


 王命婦の歌は、


 「歳暮れて岩間の水も凍りつき

     浅くなり行くあの人の影」


 この時、その場の流れで他にもたくさんの歌が詠まれましたが、全部書き記すほどのものでもなくて‥‥。


 三条から中宮ヤスコはたびたび儀式のために院の所に通い続けているのが心なしか悲しげで、かえって三条に帰った時の方が外泊しているような気分で、いつも院の所にいてずっと三条の実家へ返ってなかった時のことが心から離れないのでしょう。


   *


 年が変わっても、世間では特に変わったことはなく穏やかでした。


 源氏の大将ミツアキラは塞ぎこんで引き篭もってました。


 春の除目の頃など、院がまだ在位だった頃はもとより、退位後も変わらず二条院の門の辺りは馬や車でごった返してたのが寂れて、宿直とのいの者の衣類や夜具を入れた袋すら見ることもなくなりました。


 親しくしている家司けいしたちだけが、特に忙しくしていることもない姿を見るにつけても、「これからはこんな調子なのだろうか」と先が思いやられて、寒そうです。


 皇太后リューコの娘の御匣みくしげ殿のハルコは二月には尚侍ないしのかみになりました。


 前任者が院に殉じてすぐに尼になってしまったため、その後釜です。


 右大臣タカミチが常に面倒を見ているし、人柄もなかなか良いということであれば、たくさんいる女御更衣のなかでも群を抜いていてました。


 皇太后リューコは実家にいることが多く、内裏に来るときには梅壺に寝泊りし、弘徽殿には尚侍ハルコが住むようになりました。


 弘徽殿の裏側の登花殿とうかでんは忘れ去られたような所だったのですが、急に脚光を浴び、女房など数え切れないほど集ってきて派手に華ぐものの、尚侍ハルコの源氏との関係などは見過ごすこともできず、悩みの種です。


 相変わらずこっそり手紙を交わしてました。


 皇太后リューコの耳に入ったらどうなることかと思いながらもいつもの癖で、スリルがあるほど気持ちが盛り上がるものなのでしょう。


 皇太后リューコは崋山院がまだ生きていた頃はおとなしくしていたものの、すっかり豹変して、あちらこちらに積もり積もったものを晴らそうと思っているようです。


 何かにつけてバッシングを受けてばかりで、「こんなもんか」とは思ってみても今までなかった世間の風当たりになすすべもありません。


 左大臣イエカネもすっかり怖気づいて、内裏に来ることすらありません。


 今は亡き姫君トーコを、今の御門との縁談をスルーしてまで源氏の君ミツアキラに嫁がせた意図が皇太后リューコにはわかっていたので、面白く思うはずがありません。


 大臣同士の仲も最初からつんけんしていて、崋山院がいた頃は勝手放題に振る舞い、時代が変わり、右大臣タカミチがどや顔するのを歯軋りしながらやり過ごすのも因果応報です。


 源氏の大将ミツアキラは妻の生前と変わらず左大臣イエカネのもとに通い、仕えている女房達にもいろいろと気を使い、若君をこれでもかと可愛がっているので、なんて優しい心栄えかとますます源氏の君ミツアキラのことを深くいたわり、以前と同じような感じです。


 崋山院の限りない庇護のもとで、次から次へとうるさいくらい忙しくあちこち通い歩いていたところも、どこもかしこも音信不通になり、お気楽な忍び歩きも興味を失い、格別することもなくすっかりおとなしくなってしまった姿は、まったく源氏らしくもありません。


 西の対の姫君サキコにとって、これは自他ともに認めるラッキーでした。


 少納言の乳母もひそかに、亡き尼上の願いが天に通じたのだと思いました。


 父の兵部卿とも自由に会えるようになりました。


 本妻の子としてこの上なく可愛がる様子は必ずしもいいことばかりでなく、嫉妬をかうことも多くて、継母の今の妻からすればさぞ面白くないことなのでしょう。


 よくある継子いじめの物語の図式ですね。


 斎院を務めていた皇太后の三女、女三の宮が院の喪に服して引退したので、代わりに朝顔の姫君アサコが就任しました。


 加茂の斎院に天皇の孫がなることはあまりないことですが、他に適当な女皇子がいません。


 源氏ミナモト大将の君ミツアキラは、朝顔の君アサコとは久しく疎遠になっていたものの、それでも忘れてしまったわけではなく、このように清浄な生活を要求される方面に行ってしまったことを残念がってました。


 中将という女房に盛んに手紙を書くのは今までと変わらず、これからも手紙のやり取りは続くのでしょう。


 院のいた頃とすっかり勢力図が変わってしまったことは特に何とも思ってなくても、こうしたどうでもいいようなことの方が気になってしょうがなく、あれやらこれやら思い悩みます。


 今の御門は院の遺言をおろそかにしているわけではなく、源氏の君ミツアキラの今の状態を哀れに思ってはいるものの、若さのせいかひどく優柔不断であまり強いことも言えないのか、皇太后リューコや祖父の右大臣タカミチが勝手放題やっても逆らうこともできず、なかなか思い通りの自分の政治ができないようです。


   *


 思うように行かないことばかり増えてゆく中で、尚侍ハルコとは人知れず相思相愛なので、なかなかチャンスがないとはいえ、まったく会えないわけでもありません。


 五壇の御修法みずほうがはじまり、御門が物忌みのためにお籠りしているその隙を狙って、源氏の君ミツアキラは例によって夢見心地で尋ねてゆきます。


 幼い頃に院に連れられていった思い出のある弘徽殿の細殿ほそどの宿直室つぼねに、中納言の君がうまくごまかして中に入れてくれました。


 人の目にもつきやすい頃なので、いつもよりも廊下に近い所にいるのが何となく不安です。


 朝夕見慣れている人ですら見飽きることのない源氏のルックスだというのに、まして滅多にないご対面とあれば、一体何の不足があるでしょうか。


 尚侍ハルコの姿もまさに女ざかりでそそられます。


 身持ちが固いかどうかはわかりませんが、人を惹きつける不思議な子供っぽさがあって、目が離せない感じです。


 すぐに夜も明けて行くと思っていると、ちょうどそこで、

 「夜の勤務に入ります。」

と警備の者のかしこまった声がします。


 「また、このあたりに近衛司このえづかさがこっそり忍んで来ているな。

 意地の悪い同僚がちくってよこしたのだろう。」

源氏の大将ミツアキラは思いました。


 「笑えるけどうざいな。」


 あちこち捜し歩いては、

 「午前四時です。」

と時を告げました。


 尚侍ハルコは、


 「心から誰もが袖を濡らすのね

     明けたと告げる声がしたなら」


と歌う様子は、アンニュイで心惹かれます。


 「この俺に悲しく生きろというのかな

     飽くこと知らぬ胸の思いに」


 のんびりとしてもいられず、出発しました。


 まだ夜も深いあかつき月夜は何とも言えぬ霧が立ちこめ、ひどく粗末な身なりでカムフラージュしてこうして事に及んではいたものの、その容姿は間違えようもなく、承香殿じゃうきゃうでん女御の兄にあたる頭中将が藤壺から出てきてやや月の陰になっていた立蔀たてじとみ(庭を区切る衝立)の所に立っていたのを知らずに通り過ぎてしまったのが失敗でした。


 スキャンダルになるのは避けられないでしょう。


 こういうことをやってはいても、距離置いて決して靡こうとはしない中宮ヤスコのことを、一方では立派だと思っていても、本音では冷たいひどい女だと思うこともしばしばです。


 その中宮ヤスコは内裏に登ろうにも何をするでもなく窮屈な感じで、冷泉院の春宮がどうなっているか見ることができないことを不安に思うばかりです。


 また、拠り所とする人もいなくなったまま、ただ源氏の大将ミツアキラだけが何かにつけて頼りになる存在なのに、相変わらず性的に迫ってくるので、何かの弾みでひどく胸を痛めることもあるのですが、そんなことが表に出てしまったらと思うととても恐くて、この上また変な噂が立ってしまったら自分だけでなく春宮にも迷惑をかけることになると思うとそれもとても恐ろしいので、祈祷をさせたりして源氏の横恋慕をやめさせたり、あの手この手でその魔の手を逃れてきたのですが、ちょっとした隙があったのか卑劣なやり方で近づいてきました。


 用意周到に周りの人を騙して誰も気がつかなかったので、まさに悪夢のようでした。


 ここではとても書けないようなことを言い続けたけど、中宮ヤスコは毅然とした態度で断ったものの、心臓にひどい異常をきたしたようで、側近の命部や弁などがびっくりして介抱しました。


 男は「嫌だ辛い」とさんざんごね続けた上、後先も何もわけがわからくなってすっかり理性を失ってしまい、夜がすっかり明けたというのに帰ろうとしません。


 病気と聞いてびっくりしてたくさんの女房達が集ってきて、何をどう間違えたのか、いつのまにか源氏の君ミツアキラは塗り壁で囲まれた部屋に押し込められていました。


 源氏の御衣おんぞをこっそり持ってきた人も内心ひどく迷惑そうです。


 中宮ヤスコは体中の力が抜けたような感じですっかりのぼせてしまっていて、未だにぐったりとしています。


 兵部卿宮や中宮大夫などがやってきて「坊主を呼べ」などと騒いでいるのを、源氏の大将ミツアキラもすっかり茫然自失の状態で聞いてました。


 やっとのことで日も暮れる頃、中宮の病状もおさまりました。


 源氏の君ミツアキラが閉じ込められているとも知らず、周りの人たちも中宮ヤスコに心配をかけないように、このことについては一言も言いません。


 中宮ヤスコは昼の間過ごす所に膝で歩いて出てこられました。


 もう大丈夫と思って兵部卿宮も帰ってゆき、中宮ヤスコの傍も人が少なくなりました。


 いつも近くにおいている人は少ないので、女房たちはそこらじゅうの物の後などに控えています。


 命部の君などは、

 「どうやって騙して源氏の君を追い出せばいいのか。

 今夜もまたのぼせたりしたら困るし‥‥。」

などとぶつぶつ言いながら看護しています。


 源氏の君ミツアキラは閉じ込められていた所の戸がほんの少し開いたので、すかさず押し開けて屏風の間を伝って部屋の中に入りました。


 ずっと会いたかったので嬉しくて、中宮ヤスコの姿を見つけると涙がこぼれました。


 「まだひどく苦しいの。

 このまま死ぬのかしら。」

と言って部屋の外を眺める横顔が言いようもなく奥ゆかしく見えます。


 ナッツ類を持ってこさせ、源氏の前に置きました。


 硯箱の蓋などもなかなか興味をそそられそうなものですが、目には入りません。


 この世をすっかりはかなんでいるような様子で、ぼおっと眺めている姿がひどく弱々しく見えます。


 髪の生え際、顔全体の輪郭、髪のかかり具合、真赤に上気した顔など、あの対の姫君サキコに瓜二つです。


 この頃はやや忘れがちになっていたものの、「あきれるほどそっくりだ」と見とれていると、ちょっとはこの恋の苦しみにも救いがあるという気がします。


 高貴で上品な感じもまた、対の姫君サキコと別人とは思えず、子供の頃から深く心に刻まれた中宮ヤスコへの思いから、気のせいか、こんなにも立派な大人になったかと誰にも代え難く思い、ついむらむらっとしていきなり御帳の内に這い寄って、御衣の袖を引き寄せようとします。


 源氏のミツアキラの薫物があまりにも露骨にもやっと匂うと、どうしようもなく気色悪く思い、パタッと倒れ伏してしまいました。


 「せめてこっちを向いてくれよ。」

と打ちひしがれた苦しさに袖を引き寄せようとすると、御衣おんぞを体から滑らすようにして離れようとするので、思わず袖と一緒に髪の毛を引っ張ってしまい、中宮ヤスコはすっかり嫌気がさし、前世からの運命を思い知らされるかのように、「もう嫌っ!」と思いました。


 男もこれまで抑えてきた感情が爆発してすっかり壊れてしまい、あれこれ泣きじゃくりながら不満をぶちまけたのですが、中宮ヤスコはすっかりドン引きで返事もしません。


 ただ、

 「気分がひどく悪いから、別の機会でもあったら聞きましょう。」

と言ってはみても、男はいくら話しても話足らずに喋り続けました。


 さすがに春宮のことを言われると無視できない所もあったのでしょう。


 確かに何の関係がなかったわけではないけど、今さらながら悔しく思うばかりで、べたべた寄ってくる源氏の君ミツアキラを何とか逃れて、夜も明けてゆきました。


 ここで力ずくで押し倒してしまうのも醜悪で見苦しいと思ったか、

 「ただこうしているだけでも、常々込み上げてくる激しい心の内を晴らすことができたし、別に大それた事をしようなんて思っていません。」

と相手の油断を誘うようなことを言います。


 男と女というのはたとえいいかげんな浮気の仲でも情が移ってしまうもので、ましてこの場で起こったことはとても言えません。


   *


 外はすっかり明るくなり、二人のお付の人がやってきて大騒ぎになるし、中宮ヤスコは半分死んだような状態でどうしていいかわからず、

 「生きていて大変すみませんが、すぐに死んだところでまた来世で罪を重ねるだけだし‥‥。」

と居直るあたり、醜悪なまでに思いつめていました。


 「かなわない恋が今日だけでないのなら

     何度生まれて苦しみゃいいの


 これも因果か。」

と歌うと、さすがに中宮ヤスコも深く溜息をついて、


 「永劫に恋の恨みが残っても

     それはあなたが悪いのですよ」


 元も子もないような言い方に返す言葉もないような気分で、それでも相手の気持ちだけでなく自分自身も苦しいので、不本意ながらも出て行きました。


 どんな顔をしてこの次逢えばいいのか、さぞ迷惑だと思うだろうな、と思って後朝きぬぎぬの手紙も出しませんでした。


 ぷっつりと内裏にも春宮の所にも行かなくなりました。


 家に引き篭もって寝ても醒めても「何て冷たい女なんだ」とみっともなく未練たらたらで、心も魂も抜け落ちてしまったのか病人みたいです。


 何とも心細くなって、「どうしてこう生きていると満たされぬ思いばかりが積もり積もっていくのか」とは思うものの、出家してしまうにはここにいる姫君サキコが可愛くてしょうがなくて、悲しげに自分を頼っているものを振り捨てることなんてとてもできません。


 中宮もこの前の病気が未だ尾を引いていて、なかなかいつもの生活に戻れません。


 こうあてつけがましく引き篭もって来なくなってしまったのを、命婦などはいかにも気の毒そうに見守ってます。


 中宮ヤスコも春宮のことを思えば、源氏の君ミツアキラの気持ちを引き止めておく必要があったことを思うと困ったことになってしまったし、人生を空しく思うようになったらそのまま真直ぐに出家することもと、さぞかし深く思い悩んでいるのでしょう。


 かといって何度も通ってこられても、そうでなくてもこの時勢に変な噂が立ったりしたら、皇太后リューコがとんでもないと思っているこの中宮ヤスコの地位も捨てなくてはならないと、それもまた困ったことです。


 崋山院があれこれ考えそれを伝えようとした時の様子が真剣そのものだったことを思い出しても、万事あの頃と違ってどんどん変わって行くこんな時代だから、漢の戚夫人せきふじんが受けたような両手両足を切り、目耳声を潰し、厠に投げ落として人豚と呼ばせるようなことはないにせよ、必ず笑いものにされるのは間違いないし、それが嫌になり耐えられなくなったら世を捨てようと思うものの、春宮の姿を見ることもなく髪を切ってしまうのも中宮ヤスコが悲しむと思い、ひそかに参内して春宮に会いに行きました。


 源氏ミナモト大将の君ミツアキラは些細なことでも見逃さずにお供してたというのに、気分がすぐれないという理由で送り迎えもしません。


 このご訪問は大体いつもの通りでしたけど、すっかり気落ちしていると事情を知るものたちは大変気の毒に思ってました。


 春宮はいかにも可愛らしく成長し、いつになく嬉しそうにじゃれるのが悲しく思えて、出家してしまえばもう逢うことができないと思うと決意も揺らぐものの、内裏の中を見回してみてもすっかり様変わりしていて、悲しく空しい気持ちになるばかりです。


 皇太后リューコも悪意に満ちた執拗さでもって、内裏に出入りするにも非礼で何に対しても辛く当るので、春宮のためにも危険で気がかりで、すっかり取り乱して、

 「これからしばらく逢わないうちに、姿形がすっかり変わってしまっていたらどうなさいますか?」

と話しかけると、春宮は中宮ヤスコの顔をじっと覗き込み、

 「あの式部さんみたいに?

 どうしてそんななっちゃうの?」

と笑って言います。


 どう言っていいかわからず悲しくて、

 「それは年とってよぼよぼになったという意味でしょ。

 そうではなく、髪がもっと短くて黒い服を着て、祈祷をしに泊り込むお坊さんのようになったら、逢いに来ることもずっとできなくなってしまうの。」

といって泣き出したので、真顔になって、

 「ずっと逢えないなんて寂しいよお。」

と涙が落ると、それを恥ずかしいと思って顔を背けます。


 髪の毛はゆらゆらと美しく、目元を人懐っこそうに赤らめる様子が成長するにつれ、ただあの男の顔を小さくしたみたいです。


 歯の神経が切れているのか、少々朽ちて口の中が黒ずんでいて、笑う時のほのかな美しさは、女にしてみたいほど清楚です。


 ほんと、こんなにもよく似ているのが情けないと玉の瑕に思うのも、世間のしがらみの恐ろしさを知っているからなのです。




 「確かにここんとこ式部さんやつれた。」

 「いろいろ言われたし、苦労があったのね。」

 「まだ四十にはなってないよね。」

 「自虐ネタ。」

 「そう言えば前回御門が大した病気ではないと言ってたが、伏線だったか。」

 「それで、今度は中宮の出家。」

 「みんないなくなって、何かどんどん寂しくなってゆくね。」

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