第28話 榊1 野々宮

 寛弘二年(一〇〇五年)、秋。


 左大弁ゆきなり

 「あれから写本の数も50を越えるようになりました。

 源氏物語もますます佳境に入って何よりです。」

 左大臣みちなが

 「それはそうと右大弁から左大弁に昇進したってな。

 おめでとう。

 これからも頼むぞ。

 あと、あれの準備な。

 今年中に実現したい。」

  左大弁ゆきなり

 「御意。」


 「源氏の君が死ぬことはないのは、玉鬘の物語があるから間違いない。」

 「親になった源氏が登場するからね。」

 「そこまでの間の空白がどう展開するのか。」

 「何か段々暗くなってゆくような。」

 「あれは別の世界の話ってことも。」

 「多分繋げるでしょう。」

 「そろそろ始まるね。」





 斎宮が伊勢へと下る日が近くなるにつれ、御息所タカキコは何とも不安な気持ちになってきます。


 いつも鬱陶しく思っていた左大臣イエカネのあの娘もいなくなった後、それならば後妻にと世間の人々の噂にもなっていて、野宮ののみやにいても胸をどきどきさせていたものの、あれからというものの源氏の君ミツアキラは来ることもなく、冷たくあしらわれていると思うと、本当に憂慮すべきことが起こっていたんだと悟り、すべての悲しみを断ち切るためにもこれはもう伊勢へ行くしかないと思ってました。


 親が一緒に付き添って伊勢へ行くことに前例があるわけではないけれど、娘がまだ若くて放っておけない年頃なのを口実にして俗世を振り捨てて行こうと思っていると、源氏ミナモト大将の君ミツアキラともさすがにこれっきり離れ離れになるのも残念と思って、手紙だけはいかにも悲しげなふうに度々送ってよこします。


 御息所タカキコも、今さら直接会うことはないと思います。


 相手にしてみればすっかり気持ちも醒めるようなことがいろいろあったはずだし、むしろ自分の方にそれ以上にまだ思う気持ちが残っていることを、これじゃいけないと強く自分に言い聞かすのでした。


 元の六条の屋敷に時折戻ることもあるけれど、ごくごく内密にしているので、源氏の大将ミツアキラもそのことは知りません。


 かといって、野宮ののみやは軽々しい気持ちで尋ねていけるような所でもないので、どうすることもできないまま月日が経つばかりでした。


 崋山院の方も大騒ぎするほどの病気ではないにしても、いつになく時折具合の悪くなることがあるので、なおさら気持ちの余裕もなく、だからといって薄情な奴だと決めつけられるのも嫌だし、世間も容赦しないだろうなと思うと居ても立ってもいられず、野宮に出かけてゆきました。


 九月の七日ともなれば斎宮の下向まで十日の猶予もないということで、御息所方の女房達も気持ち的には今日明日にでも出発するかのように気が急くばかりで、「せめて立ち話程度でも」と何度も手紙をよこされても「そんなあ」とうざがりながらも、放っておくのもあまりに可愛そうなので、物を隔てての対面ならばと密かに待ち受けてました。


 遥かな野辺に分け入ると、そこはなんとも物悲しげです。


 秋の花はみんな終りかかっていて、チガヤの生い茂る原っぱもあちこち枯れた虫の音に松風が寒々しい音を加え、さらにそれに紛れるかのようにいろいろな楽器の音色が切れ切れに聞こえてくるのが、それとはなく華やいだ雰囲気にさせてくれます。


 馴染みの者十人かそこらに先導させて、従者たちも正装はせずにあくまで身分を隠してはいても、着物の端々をきちんと整えればなかなか堂々たるもので、ナンパな従者などはえらいところに来たなと身にしみて思うのでした。


 源氏の君ミツアキラも、「何で今までここを踏破しようとしなかったのか」と過ぎ去った日々が惜しまれてなりません。


 何の変哲もない小柴を編んだ垣根で周囲は覆われていて、板葺きの屋根も所々破れて応急措置が施されています。


 皮を剥いでない丸太で作った鳥居などもいくつも建ち並べばさすがに神々しく見えて、近寄っていいものか悩んでしまうような雰囲気で、神官たちがここかしこで咳払いをして、内輪で何やらひそひそ話してている気配なども、いつもと勝手が違います。


 火焼屋ひたきや(忌火を焚く小屋)が微かに光って見えて、ひとけもほとんどなくしんみりとしていて、ここに何ヶ月も世間から遠ざかって物思いにふける人の境遇を思うと、ひどく胸が痛む所です。


 北の対の隠れるのにちょうどいい所を見つけ、中の人に取次ぎを頼むと、音楽の音がパタッと止まって、不安そうな様子が至るところから伝わってきます。


 あれこれ人づてに返事が返ってくるだけで自分からは会おうともしない様子なので、一体何なんだと思って、

 「こうやって歩いてくるなんてことは、今の身分にはふさわしくないということをおわかりいただけるなら、このような注連縄の外に立たしておいたりしないで、何とかこのもやもやを晴らしてもらいたいものなんだが。」

と真面目な口調で話すと、女房達の、

 「ほんと、傍で見てても痛々しいわ。」

 「立たせたまんまじゃ辛いでしょうに。」

などと話す声がして、

 「そんなこと言ったって、人から見て何言われるかわからないし、伊勢へ下ろうと思ってたのにここで軽々しく出て行ったのでは今さら気恥ずかしいし」と、そう思うと悩む所ですが、薄情に突き放すほど高飛車にもなれず、ふっと溜息一つついて心を落ち着けると、膝まずいたままこちらへ寄ってくるあたりがいかにも大人です。


 「なら、こちらも簀子すのこの上へ失礼するとしようか。」

と言って上がりました。


 夕暮れの月の光が差し込んで華やぐ中、優雅に振舞う様子がいつになく明るく照らし出されて眩しいくらいです。


 日頃積もり積もった思いをそれっぽく伝えようにも、この神聖な場にそぐわない状態なので、さかきの枝を少々折って携えていたの差し入れ、

 「変わらないという証拠があるからこそ、忌垣いがきの内側にも入れるのですよ。

 それなのに、つれないですね。」

と言うと、


 「稲荷社のしるしの杉とまちがえて

     この野の宮のさかき折るとは」


という歌を詠むのが聞こえたので、源氏の君ミツアキラも歌を返しました。


 「神聖な処女はここかと榊葉の

     香りを慕い折ったまでです」


 あたりの雰囲気にはそぐわないものの、御簾だけを隔てたまま、源氏の大将ミツアキラ簀子すのこひさしを隔てる長押なげしに寄りかかって座ってました。


 気の向くままに通ってみては、相手もいかにも慕ってくれているように思えてた頃なら、すっかりその安心感にひたって、そんなに愛に溺れるようなこともないものです。


 それに心中、あの何だかわからない事件に悩まされたあとには、多少気持ちも醒めて疎遠になっていたものの、今度のまたとない再会に昔のことを思い出し、愛しさがこみ上げ、すっかり気が動転して止みません。


 今までのこともこれから先のことも次々頭に浮かんできては、気弱にも泣いてしまいました。


 御息所タカキコは、涙なんて見せるものかと思ってこらえてはみたものの、隠しきれない様子で、源氏の君ミツアキラもますます心取り乱し、何とか伊勢下向を思いとどまるように頼みこんだみたいです。


 月も沈んでしまったか、寂しくなった空を眺めながら不満を漏らしているうちに、あれほどまでに積もり積もっていた辛い気持ちも消えてしまったのでしょう。


 やっとさよならして思いを断ち切ろうとしていたのに、次第にそれでもと心は揺れて、迷うばかりです。


 殿上の若い公達が連れ立ってやってきたら身動き取れなくなるという庭のたたずまいも、確かに思わず目をひきつけるもので、でしゃばった感じのするものでした。


 いろいろなことがありすぎた二人の間にこのあと一体何があったのか、それはここで再現するわけにはいきません。


 ようやく明け始めた空の様子は、まるで特注して作らせたかのようです。


 「暁の別れは悲しいものだけど

     この秋空はこれまでになく」


 出て行くときも手をずっと握りしめたまま、どうしても離れることができません。


 吹いてくる風はとても冷ややかで、松虫の声もすっかり枯れ果て、やがて来る季節を知ってるかのようで、特に何も思ってなくても耳に感じ入るものがないでもないのに、まして、恋の道に迷ってどうしようもなくなっている人たちには、なかなかその気持ちを歌にできません。


 「秋といえば別れの季節悲しさに

     鳴かないでくれ野辺の松虫」


 後悔することばかりたくさんあっても、今さらどうしようもなく、明け行く空も空気を読んではくれず、源氏の君ミツアキラは帰ってゆきます。


 道は露で湿ってます。


 御息所タカキコも決して心が鉄でできているわけではなく、去って行く源氏の姿を悲しそうに見送りました。


 若い女房達は、チラッと垣間見た月影に映る源氏の姿や、未だに残っている薫物の匂いなどすっかり体に染み付いて、何か過ちをしでかすのではないかというほど褒めちぎってました。


 「あんな様子の源氏の大将を見捨てて別れようと思ったら、一体どこまで遠くへ行けばいいのかしら。」

と他人事ながらもみんな涙ぐんでいます。


 あとで届いた源氏からの手紙はいつになく細やかな心遣いを感じさせるもので、ついついその気になってしまいそうですが、だからといって一転して伊勢下向を白紙に戻すわけにもいかないし、そうしたからといってどうなるものでもありません。


 男というのはさしたる気持ちがなくても、女のこととなると甘い言葉をささやき続けるもので、まして宮中に普通にいる女とは違った特別な人だったにもかかわらず自分から離れようとしているとなると、悔しくて辛くてさぞかし思い悩んでいることでしょう。


 旅行用の衣装をはじめ、女房達の分まであれこれ身の回りの品など例を見ない立派なものを餞別に送ってきても、もはや心は動きません。


 軽はずみな振る舞いで世間の浮いた噂ばかりを流してきた、自分でも嫌になるようなこの状態が今に始まったかのように、伊勢下向の日が近づくにつれて寝ても醒めても溜息をつくばかりです。


 斎宮アマネイコは子供心にも、どうなるかわからなかった母の付き添いがこうして本決まりになってゆくのを、ただただ嬉しく思っています。


 世間では前例がないということで、非難する者同情する者様々です。


 何をやろうが世間の批判を浴びることのないような身分というのは気楽なものです。


 世間から突出した人間だからこそ、風当たりも強くなるものです。


   *


 十六日、桂川で御祓いをしました。


 これまで以上に盛大に行なわれ、斎宮を伊勢に送り届ける役割を担う長奉送使ちょうぶそうしは中納言、参議など上達部の中では位の下の方から選ばれるのですが、その中でも定評のある優れた人材を選ばせました。


 それも崋山院の特別な思いがあってのことです。


 野宮を出たあたりで源氏の大将ミツアキラから、相変わらず未練たらしい手紙を受け取りました。


 「かけまくもかしこき御ん前に」とばかりに、伊勢神宮の大麻に用いられる木綿ゆう(楮の糸)にくくり付けられていて、



 《雷のように心を引き裂かれて、

 

 この国を守る神様お願いだ

     むごい別れのわけ教えてよ

 

 どう考えても納得できない気分なんだ。》



と書いてあります。


 穏やかでないお歌ではありますが、お返事がありました。


 斎宮アマネイコの歌を女別当が書き留めたものです。



 《国津神の天の裁を乞う前に

     浮気心をまず直しなさい》



 源氏の大将ミツアキラ御息所タカキコ斎宮アマネイコの様子が気になって内裏に行きたかったのですが、振られたのに見送りにいくというのもかっこ悪い気がして思いとどまり、物思いに耽りながらうだうだとすごすばかりです。


 斎宮アマネイコの妙にませた感じの返歌を、ニヤニヤ笑いながらしばらく見入ってました。


 「歳のわりには良く出来ているといったところかな。」

と満更でもありません。


 こういった斎宮アマネイコのような普通と違う難易度の高い相手となると、必ず気持ちがふらふらと動く癖があって、

 「見ようと思えば見れたはずの幼い姿を見逃したのは悔しいな。

 ただ、世の中どうなるかわからないから、逢うチャンスもきっとあるだろうな。」

と思うのでした。


 桂川での御祓いは奥ゆかしく品のある演出がなされていたため、見物の車の多い一日でした。


 午後四時くらいになって斎宮の一行は群行ぐんこうの儀を行なうために参内しました。


 御息所タカキコ斎宮アマネイコと一緒に特別な御輿の乗るにつけても、大臣だった父に皇太子の妻にすべく大切に育てられたものの、その皇太子とも死別して内裏を去らねばならなかった運命を恨み続けていたため、こうして参内できたことで尽きせぬ思いに感慨もひとしおです。


 東宮妃となったのは数え十六の時で、二十歳にして未亡人となりました。


 そして今日、三十にしてまた九重を見ることができたのでした。


 「その過去を引きずるまいと堪えても

     わだかまってるものが悲しい」


 斎宮アマネイコは数えで十四歳になってました。


 とても可愛らしい所に立派な衣装をお召しになった神々しいお姿を見ると、朱雀の御門みかども心動かされ、お別れのしるしに櫛を差し上げては、とても悲しそうに涙ぐむのでした。


 大極殿の裏で出発待ちで並んでいる車も御簾から御息所方の女房達の袖がはみ出していて、その色合いも他にない珍しいものばかりでそそられる景色なのか、その女房達と個人的な別れを惜しむ殿上人もたくさんいました。


 暗くなってから内裏を出て、洞院のある二条の大通りを東に行くと二条院の前なので、源氏ミナモト大将の君ミツアキラも別れを悲しく思ったのか、榊に手紙をつけて、


 《俺を振って出発しても鈴鹿川

     八十瀬の波で袖が濡れるのでは》


という歌を届けたものの、あたりは真っ暗で喧騒に紛れて、次の日に逢坂の関のはるか向こうから返事が返ってきました。


 《鈴鹿川波に濡れても袖は濡れず

     伊勢まで誰を思い出すのか》


 何の趣向もない手紙で、字のほうもいかにも上品で控えめな書体で、もう少し感情を込めてもいいのではと思いました。


 霧がもうもうと立ちこめた、いつもとちがう朝の景色をふと眺めては独り言のように歌を詠みます。


 「この秋の暮れ行く先を見送ろう

     逢坂山を霧で蔽うな」


 西の対へも行かず、ただ自分の意思で物寂しげにそのまま外を眺めて一日過ごしました。


 源氏でさえこの有様なのですから、ましてや旅の空ではどれほど心を悩ませていることでしょうか。




 「別れちゃったね。」

 「トーコの次はタカキコ。」

 「こっちはどうせまた会うんでしょ。」

 「神社でとか、神をも恐れず。」

 「穢れじゃないの?」

 「出産と死と懐妊と経血は穢れになるけど、あっちの方はどうだっけ。」

 「『延喜式』にあったっけ。」

 「漢文だから読めませーん。」

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