第23話 花宴
寛弘二年(一〇〇五年)夏の初め。
「末摘花が終わって、だいぶ静かになった。
あの程度の反対運動では、この物語を止める力もなくて安心したぞ。」
「写本の方もなんのかんの言ってまたかなり増えてきました。
この前は
今の中宮様の公認ということで、だいぶ
「どうやら源氏物語は新しい平和な時代のシンボルになりそうだな。
それと君が女房の使う平仮名を書くことで、源氏物語とともに古い草仮名から平仮名への移行も進む。
君の功績も御門に高く評価されることになろう。
それと、あの藤式部を中宮様の所に呼ぶという話も出てきている。」
「御門の評価は光栄至極です。
ただ、正直平仮名はあまり好きではありません。
できれば後世に残らないことを願います。」
「まあ、そう言うな。
源氏の君が若草のために平仮名ばかりの文を書いて、それがお手本になる事もある。」
「末摘花が草仮名を用いていましたが、麿も草仮名には愛着があります。
物語も筆跡もみんなが自分の好きなものを真似て受け継いでくれればそれでいいのです。
たとえ後世の人が源氏物語を忘れたとしても、あの物語のいくつかの面白い画期的なパターンは、千年のちになっても用いられるのではないかと思います。」
藤式部
「それでは今日も始まり始まり。」
二月の二十日過ぎに、南殿の桜の宴が催されました。
皇后
よく晴れたいい天気で、空の色も鳥の声も心地良く、皇族、上達部をはじめとして漢詩の心得のある人はみな課題となる韻字を与えられ、その韻字を用いて詩を作りました。
「春という字を賜りました。」
という声までが、例によって同じ人間とは思えない美声でした。
次に
その他の人たちは皆緊張のあまり、青ざめた顔をしている人がほとんどでした。
まして本来昇殿を許されない
年取った博士達の着ているものはみすぼらしくていかにも胡散臭く、いかにも慣れた感じで詩を作ってみせるのも哀愁が漂い、それを皇族たちが眺めているのが笑いを誘います。
雅楽や舞なども、いうまでもなく準備されてました。
ようよう日も暮れかかる頃、『
「
遅いぞ。」
とあって、ようやく『
源氏の後ということで少し間をおいてからという心遣いがあったのでしょう、大変面白かったので
その他の上達部もみんな次から次へと出てきては舞ったものの、夜になってしまうと上手いのか下手なのかもよくわかりません。
漢詩文の審査をするときにも、源氏の作品に感銘するあまり審査員は涙で読み上げることもできず、一句一句取り上げては口々に賞賛しました。
博士達から見ても並々ならぬものでした。
こういう儀式の折々にも、御門はまず
何も知らず花の姿を見ていれば
不安だなんてつゆも思わず
心のなかで思っただけの歌なのに、どうしてこうして物語として伝わっているのかは定かでありません。
すっかり夜もふける頃、宴は終りました。
上達部は皆それぞれ退出し、后や春宮も帰っていったので宮中も静かになり、月の光が煌々と差し込んで明るいものですから、
奥の
こんなことだから男と女は過ちを犯すんだと思って、そっと登って中を覗きました。
人はみんな寝ているようです。
そこに、普通の人とは思えないくらいとても若くて奇麗な声で、
♪朧月夜はまたとないもの
と口ずさみながら、近づいてくる者があろうとは。
うれしくなって、さっと袖を掴まえます。
女はびっくりした様子で、
「やだ、きもい!
だれなの!」
と言うものの、
「何を嫌がってるんですか。」
とばかりに、
「この深い夜の哀れをともに知る
前世の縁はおぼろではない」
と言って静かに抱きかかえては部屋に下ろし、扉を閉めました。
突然の恐怖に呆然としている様子がかえって痴情をそそり、可愛く思えます。
震えわななきながら、
「ここには‥‥
人がいます‥‥」
とは言ってみるものの、
「
ただ、黙っておいた方がそなたのためでは。」
と言う声に、例のあの君だとわかり、ほんのちょっと気持ちが落ち着きました。
逆らう気力も失せたせいか、冷淡に身を固くしているようには見えません。
そして‥‥‥‥。
*
可愛いなと思っているうちに、ほどなく夜も明ければ気持ちもせかされます。
まして女の方はどうしていいかわからない様子です。
「せめて名を聞かせてくれ。
どうやって連絡を取ればいいんだ。
まさかこれっきりなんて言わないでしょうね。
不幸にもこのまま死んでしまっても
草葉の陰を尋ねてくれますか」
という様子が、言うに言われぬ思いを押し殺したようで、あでやかです。
「なるほど。
誤解を招く言い方だったな。
どこなのか露の棲家を探す間に
小笹が原に風が吹いたら
煩わしいと思っているのでないなら、隠すことはないだろう。
それとも気のあるふりをしただけか?」
と言い終わらないうちにお付の人たちが起き出す物音がして、
*
源氏の宿所である桐壺には、お付の者がたくさん控えていて、源氏の朝帰りに驚いて目を覚ます者もいるものの、「またいつもの夜遊びでしょ」と互いに小突きながら寝たふりをしてます。
源氏は部屋に入り横になっても、眠れません。
「なかなか面白そうな女だったな‥‥、弘徽殿女御の年下の兄弟だったりして。
まだ結婚してないのは五の君と六の君か‥‥、大宰の
六の君は春宮の妻にしようと
厄介なことになるな‥‥、確かめようにも五の君と六の君は似ているし、これど終りにするという風でもなかったけど、どうして手紙を交わす方法を教えてくれなかったのだろう。」
などとあれこれ考えるのも、興味を引かれたからでしょう。
こういうことになっても、まずあのときの女の様子を思い出しては、あれくらい慎ましかったらなと、誰かさんと比べているのでした。
*
その日は打ち上げがあるので、気を紛らわして過ごしました。
筝の演奏を命じられてました。
昨日の形式ばった催しよりは地味だけど面白いと思いました。
あの有明の月が出てくるかもしれないと気もそぞろで、何ごとにもぬかりのない
「ただいま北の玄輝門の方から密かに出て行く車があります。
女御更衣の実家の人が来ている中に、四位の少将、右中弁などが急いで出てきて送って行ったのが
いかにもただならぬ感じで三台の車が出て行きました。」
と聞いて、胸が潰れる思いでした。
「どうすれば誰だかわかるのか。
父の
まだあの人の本性がよくわからない以上、面倒なことになりそうだ。
だからといってわからないままに終るのもまた残念だし、どうすればいいのか。」
といろいろ悩んでも結論の出ぬまま、ぼんやりと横になりました。
「
もう何日も経つから塞ぎこんでいないだろうか。」
とちょっと気がかりなようです。
例の誓いの徴の扇は白と紅と青の三重の桜襲ねで、青の方に霞んだ月が描いてあって水に映る月を表す趣向はありきたりではあるけど、昨日のこともあって大事そうに抱きしめてました。
「草葉の陰を」と歌に詠んでいたのをふと思い出して、
世のものと思えないよな有明の
月の行方は空にかき消え
と書き付けて、下に置きました。
「
と思ってはみても、若草を残してきたことにも胸が苦しくなるので、何とかご機嫌を取らねばと思い二条院へ行きました。
見るからに超美人へと成長し、気品も具わり優雅な身のこなしなど、やはり普通ではありません。
これといった欠点もなく、自分の思い通りにいろいろなことを教えていこうと思うのに不足はありません。
男が教えるため、少々男っぽくなったりしても困るなという心配もあります。
この数日にあったことを話したり、琴を教えたりして夕方にまた外出するとなると、いつものようにがっかりはするものの、今はちゃんと学習したのか、無闇にくっついてきて離れないなんてことはありません。
やることもないままいろいろ考えた末、筝を爪弾いて、
♪
柔らかに寝る夜はなくて
と唄いました。
「この歳まで四代に渡る明王の時代を見てきたけど、今回のように立派な詩文に舞楽や演奏などもしっかりしいて、寿命も延びる思いをしたのは初めてだった。
どの分野でも傑出した人間のそろっている今日この頃だけに、本当によく勉強し、練習なさった。
この老体もよっぽど何か舞ってみようかとおもった。」
と言うので、
「特別な練習はしてません。
ただ公の行事なので、ちょっといかがわしい先生の所をあちこち訪ね歩いただけです。
そんなことより、『柳花苑』は本当にこれから舞う人の見本になるのではないかと思いましたし、その上左大臣殿に舞われてしまい、この世の春の栄華の頂点に立たされてしまったら、一生自慢しちゃいますよ。」
と答えました。
弁の中将などもやってきて、高欄に背中を押し付けながら、いろいろな楽器を一緒に演奏したりしました。
それはそれは楽しいことです。
当の有明の姫君はというと、儚い夢を思い出してはとても悲しげに物思いにふける日々でした。
四月には春宮のもとに
桜の季節は過ぎたけど、他が散るのを待ってから咲く方が賢明だと教えられたのか、遅れて咲く二本の桜がみごとです。
新築した寝殿は、
派手好きの
我が庭の花がそこらの色ならば
君を待ってるわけもあるまい
源氏が宮中にいるときだったので、御門に報告しました。
「どや顔だな。」
と御門は笑い、
「わざわざこんな歌まで送ってくるんだから、早いとこ行ってやれ。
娘皇子たちも大きくなっているし、軽々しく扱ってはいけない。」
と言いました。
楽器の演奏などしながら楽しく過ごし、夜もややふけてゆく頃、
寝殿には女一の宮と前斎宮の女三の宮がいました。
東の戸口の所にやってきて、寄りかかって座りました。
藤はこっちの端っこにあるので、格子を片っ端から開け放って女房達が格子際まで出てきてました。
袖口など
「調子悪いのに酒を強いられて、困ってます。
恐縮ですが、こういう宴席ですので藤の影にも隠れさせてください。」
と言って、妻戸の御簾をつまみ上げれば、
「そりゃ困ったわね。
身分の低い人が高貴な家に来たのをいいことに、藤の栄華にあやかろうと言うならわかりますが。」
と答える様子を見ると、そんな歳な感じではないけど、そこいらの若いねーちゃんとは違ってました。
上品な感じがにじみ出てます。
室内用に焚かれた
本当はこんな所を覗いてはいけないんだけど、さすがに例のことが気にかかって、
「どこにいるのか。」
と胸がキュンとなり、
♪石川加茂の
扇取られてひどい目にあった。」
と催馬楽の『石川』の「帯」のところを「扇」に変えて、とぼけたような声で口ずさみ、姫君たちのところに近づいていきました。
「なーに?
歌詞が違っているじゃないの。」
という反応は、事情がわかってない証拠。
返事もせずにただ時々溜息ついているような人を見つけると、そこに這いより、几帳ごしに手を握り、
「弓を射る
ちら見した月を見ようとしたら
何でかなーー。」
と、これだと思ってそう話しかけると、ごまかすこともできません。
「心中に月があるなら弓張りの
月すらなくても迷わないはず」
という声は、まさにその人です。
嬉しくてしょうがない所でしょうが‥‥。
「またやらかしたか。」
「今度は右大臣を敵に回す。」
「『麿は万人に許され』って、やばくない?」
「はた、いかなるや。」
「旗?」
「『今はた同じ』ですわね。身を尽しても『我は恋ふらく』ですわ。」
「潮満てば入りぬる磯の草なれや見らく少なく恋ふらくの多き‥‥坂上郎女?」
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