第24話 葵1 賀茂祭

 寛弘二年(一〇〇五年)、盛夏。


 「またこの暑い季節がきたわね。」

 「物語を聞くには夜は短いし、大殿油の灯りでは隣が誰かもよくわからないし。」

 「でも、人の数は戻って来てる。」

 「この前もまた左大臣殿と右大弁どのがいらしてたし。」

 「謎のやんごとなき姫君もね。」

 「あっ、式部だ。

 これからも物語は続くのね。」

 「式部、式部、式部、式部、式部、式部、式部、式部‥‥」





 あれから二年、父君の御門が春宮(朱雀院)に皇位を譲った後というもの、すっかり気の抜けたような状態になり、中将から大将となり、国政の要職に着いたこともあって、軽々しく遊び歩くこともできませんでした。


 源氏の通っていた女の方も逢うことのできない不満が積もり積もって、その呪いのせいでしょうか、藤壺の宮ヤスコからは相変わらず相手にされず、尽きせぬ思いに溜息をつくばかりでした。


 その藤壺の宮ヤスコは、今となってはなおさら四六時中単なる側近のようにいつも「華山院」となった先の御門と一緒にいます。


 今や皇太后となったかつての弘徽殿女御リューコも、崋山院には何か気に食わな所があるのか、もっぱら内裏にいるので、特に邪魔する人もなくて平穏な日々を送ってます。


 崋山院の方はというと季節の折々に音楽などを楽しみ、それもまた宮中を驚かすほど盛大で、退位したとはいえ今もなお華やかなものです。


 ただ、新たな春宮(冷泉院)となった藤壺の子のことが気がかりなようです。


 後見人がないのが不安で、源氏の大将ミツアキラの君にあれこれ声をかけていて、源氏としては痛い事情があるものの、嬉しいことではあります。


 そういうこともあってか、あの六条御息所タカキコには、華山院の弟で源氏の叔父にあたる今は亡きかつての春宮との間のできたアマネイコという姫君がいて、今は斎宮になることが決まっているのですが、大将になったとはいえ源氏の力もまったく頼りにならず、姫もまだ幼いということも気にかかって、それを理由に自分も伊勢へ行こうかとかねてより思ってました。


 華山院にもこうしたことを漏らしていて、

 「今はなき宮様が常に援助を惜しまず、この上ないくらいに持ち上げていたのに、お前が軽々しく十人並みの扱いをしているのは残念なことだ。

 斎宮も自分の皇子たちと同じように思っているし、どちらに対してもおろそかにしないように願いたい。

 気の向くままにあっちゃこっちゃの女に手を出していたんでは、それこそ世間で高貴な身分にふさわしくないということになるぞ。」

とご機嫌斜めとあっては、自分でもそのことを否定できず、すっかり恐縮しています。


 「人を辱めるようなことをせず、どの方面に対しても事を荒立てず、女の恨みを買わないように、わかったな。」

と説教されても、とんでもない身分不相応なことをしでかしたことがばれやしないかと恐くなって、平身低頭でその場を去りました。


 このように、院にまで六条御息所タカキコとの関係が知れてしまって、このようなことまで言わせてしまったとなると、六条御息所タカキコの名誉のためにも自分のためにもスキャンダルはまずいと思い、ますます軽くあしらうわけにもいかなくなります。


 それでも、常に気に掛けてなけらばならないならない血筋の者とは思うものの、まだ表立って妻としようとはしませんでした。


 六条タカキコの方も今さら結婚という歳でもないと恥ずかしく思っているのか、到底同意しそうにもない様子なので、それならばとばかりに放ったらかしにしてた所、院にも知れる所となり、宮中でも知らない人がいらないくらいに有名になってしまい、源氏の君のいいかげんさをひどく悲しく思うのでした。


 こんな噂を聞いてか、以前朝顔の花を捧げたことのある朝顔の姫君アサコは、

 「あんなふうにはなりたくないわね。」

と思ってか、そっけないそぶりの返歌すらすることもありませんでした。


 かといって人当たりは悪くないし、礼儀正しく振舞い続けるので、源氏の君ミツアキラも「ただ者ではない」とずっと思ってました。


 左大臣イエカネ邸の方では、こうした浮気心が不愉快でしょうがないのですが、当人はどこ吹く風で、言ってもしょうがないと思ってるのか、あからさまに不満をぶちまけることもありません。


 源氏の正妻トーコが胸がむかむかするような感覚に悩まされ、何となく心細く思っていた頃のことです。


 源氏の君ミツアキラもたまには愛していたのでしょう。


 誰も彼もがご懐妊を喜び、流産を恐れて様々な加持祈祷をさせました。


 しかし、こうなってしまうとまたますます気持ちに余裕がなくなり、避ける気はなくても通わない日が多くなるものです。


   *


 そのころ加茂の斎院が引退して、皇太后リューコの娘である女三のチカコが新たな斎院になりました。


 今の御門と皇太后が特別大事にしている女三の宮なので、それが神に仕える生活に入ってしまうことは不本意なことだったのですが、他の皇族たちに適当な人材がなかったのでしかたなかったのでしょう。


 儀式なども通常の神事であっても、盛大に飾り立てます。


 祭ともなればできる限り宮中行事とリンクさせ、なかなか派手な演出をします。


 これも人柄によるものなのでしょう。


 四月のとりの日に行なわれる賀茂祭があり、その前のうまの日には斎院がみそぎを行なうのですが、この時、上達部かんだちめから決まった数の人間が選ばれて同行することになっていたので、特別に美形の人間を選びそろえて、下襲したがさねの色、表に着る袴の紋、馬の鞍まで皆新調しました。


 御門の特命によって、源氏の大将ミツアキラの君もその中に加わりました。


 沿道はただでさえ見物人の車を止める所に苦労します。


 一条大路には止められず、薄汚い路地裏まで大騒ぎです。


 あちこちに作られた桟敷はそれぞれに意匠を凝らし、そこから垂らしている女たちの見せ袖も見ものです。


 源氏の正妻トーコはこうした外出すらほとんどしたことがないうえ、悪阻もひどかったので、祭を見物に行くなんて思ってもみなかったのですが、若い付き人たちが、

 「そんなーっ、私たちだけでこっそり見に行ったってつまんなーい。

 そこいらの人だって今日のイベントは源氏の大将目当で大騒ぎだし、得体の知れぬ山から降りてきたような人だって見たがって、遠い地方からも一家引き連れてやって来るくらいだから、これを見ないってのは、そりゃあんまりですわ。」

と言うと母の宮様もそれを聞いて、

 「体の調子も今はいいんでしょ。

 お付の人たちもつまらなそうにしているし。」

と急遽支度をさせて見物に出かけました。


 日はすでに高く、それほど派手に飾り立てるふうでもなく出発しました。


 沿道には既にびっしりと車が止まっていて、左大臣家の立派な車の列も立ち往生です。


 立派な女房車が多く、その中でもさほど多くの番人のいない車を見つけては立ち退かせて何とか停めていくうちに、ややくたびれたような網代車あじろぐるまだけど下簾したすだれなどに高貴な風格があり、随分と奥に座ってほのかに見える袖口、裳裾、汗袗かざみなどの色がとても上品で、いかにも高貴な人がお忍びできましたというふうの車が二台ほどありました。


 「これはあんた等が勝手にどかしていいような類の車ではない。」

と高飛車に言い放って、触らせようともしません。


 どちらの側も、酔っぱらった若い衆がけんか腰になるのを止めることはできません。


 歳取った露払いの人たちが「まあまあ」などと言っても、どうにかなるものではありません。


 伊勢斎宮の母の御息所タカキコが、ちょっとした憂さ晴らしにもなるかと、こっそりやって来ているのでした。


 他人のふりをしていてもバレバレです。


 「妾のくせに何威張ってんだ!」

 「源氏の大将が何とかしてくれるとでも思ってるのか!」

など口々に罵られ、左大臣側に混じっている源氏のお付の人達もちょっと気の毒かなとは思ってみるものの、ここでかばったりしても面倒なことになるので見なかったことにしています。


 結局左大臣側の車が表にずらりと並んで、六条御息所タカキコはその従者たちの手車の奥に押しやられ、何も見えません。


 敗北感に打ちひしがれただけでなく、お忍びで来たのがばれてしまったのがひどく悔しくてしょうがありません。


 停める時に牛が引く取っ手の部分を乗せておく台はへし折られて、車軸の出っ張りにだらしなくぶら下げられていて、これ以上ないくらいに無残な状態で、くやしくて「何しに来たんだか」と思ってみても後の祭りです。


 見物をあきらめて帰ろうにも、車を外に出せるような隙間もなく、

 「来たーーー!」

と言う声がすれば、ついついあの恨めしい人が前を通るのを心待ちにしてしまうのが、人間の弱い所です。


 せめて雰囲気だけでもと思ってみても、無情にも通り過ぎて行くだけで、心は乱れるばかりです。


 実際、いつもよりもあれこれ趣向を凝らして飾り立てた車がずらっと並び、見物する女房達はこぞって簾の隙間から自慢のかさねの裾を覗かせ、源氏の大将ミツアキラも何食わぬ顔で、微笑んでは流し目を送ったりします。


 ただ、左大臣家の車はすぐにわかるので、そこだけは真面目な顔をして通り過ぎます。


 源氏のお供の人たちが敬意を込めて挨拶しながら通り過ぎるのが切れ切れに見えて、六条御息所タカキコは違いを見せ付けられた思いです。


 加茂の禊の行われる御手洗みたらし川に掛けて、


 影だけをみたらし川のつれなさに

     我が立ち位置を思い知るのみ


と涙を流すのを、お付のものに見られてしまうのも恥ずかしく、眩しいほどの源氏の君ミツアキラの晴れの舞台で、さらに輝く姿なんか見なければ良かったと思いました。


 行列の他の人たちも、それぞれ衣装も立ち居振る舞いもしっかりしていたし、上達部ともなれば並々ならず立派だったのですが、ただ一つの光にかき消された感がありました。


 源氏の大将ミツアキラの行列の時だけの一時的な随身に、地下じげ将監しょうげんではなく殿上人の将監がなることは普通ではありません。


 特別な行幸みゆきなどの場合に限られることなのですが、今日は五位の右近うこん蔵人くろうど将監しょうげんチカノブが担当しました。


 他の随身たちも、姿形をまばゆいばかりに整えて、今の源氏の君ミツアキラの権勢には草木もなびかぬものはないほどです。


 壺装束と呼ばれる旅姿のそこそこの身分の女房や、また世俗を絶ったはずの尼さんまでもが押し合いへし合いで見物に来たりしているのも、普通なら「しょうもねえな、困ったもんだ」となるところですが、こんな日ならそれも理解できるところで、髪の毛を着物の内側に入れたどこから来たとも知れぬ女たちが、額の上で手を合わて拝んだり、いかにも頭の悪そうな下層の男たちまでもが、すっかり緩み切った間抜けな顔になっているのも知らずに満面の笑みを浮かべてました。


 源氏の君ミツアキラからすれば攻略対象外の成り上がりの受領の娘が、きらびやかに飾り立てた車を連ね、いかにもという感じで気を引こうとしているのがおかしくて、なかなかの見ものです。


 まして、あちこちにいるちょくちょく通っているような女の所では、みんなひそかに自分など物の数でもないと深く溜息ついていたことでしょう。


 式部卿の宮が桟敷で見ていました。

 「ほんとにまばゆいばかりのすがたに成長したもんだな。

 神様に目を付けられて天に召されてしまうのではないか。」

と危惧してました。


 その娘が朝顔の姫君アサコで、長年にわたって文などを貰っていて、その感覚の並外れているのは無視できないところで、ましてこんな姿を見せ付けられては、さすがに心に留まりました。


 もっと近くで見ようとまでは思いませんが‥‥。


 お付の若い女房達は、うるさいくらいに褒めちぎりあってました。


   *


 賀茂祭の当日は、源氏の正妻トーコも見物には行きませんでした。


 源氏の大将ミツアキラの君に、例の車の場所取り争いのことを知って報告する人がいたため、

 「そりゃマジひどいし惨たらしい。」

と思い、さらに、

 「堅苦しい所に慣れてしまったあまりに、どうにも融通の利かない人たちだから空気が読めなくて、自分たちはそんな御息所のことを特別どうこう思ってなかったのだろうけど、こういう微妙な人間関係でも相互に立場を理解しあわなくてはいけないという感覚の欠如が蔓延してたんだろうな。

 お付の者たちもこんなひどいことをするようになるなんて。

 御息所はひどいコンプレックス持ちで体裁を気にする性格だから、どんなに落ち込んでいることか。」

と気の毒に思って尋ねて行くものの、娘の斎宮アマネイコがまだ伊勢へ行かずに都に留まっていることから、神前での逢瀬が憚るべきことなのを口実に簡単には逢ってくれません。


 「そりゃそうだけど‥‥。」

とは思いながらも、

 「なんでこんなにツンデレなんだ。」

とつぶやくのでした。


   *


 当日、源氏の君ミツアキラは二条院の方にいて、祭見物に出かけます。


 西の対の方に行って、惟光コレミツに車の手配をさせました。


 「女房達も一緒に行くのかい?」

と言いながら、西の対の姫君わかくさが美しく身支度しているのをにんまりとしながら眺めてました。


 「君は来てくれ。

 一緒に見よう。」


と言って、いつもよりも奇麗に見える髪の毛をわさわさと撫でて、しばらく髪を梳いてなかったのを今日はハレの日なんだからと思って、暦に詳しい人を呼んで占ってもらいながら、

 「まず、女房たちから出発しなさい。」

と言っては童たちの着飾った姿を眺めてました。


 可愛らしい髪の先の方の毛をばっさりとそぎ落として、浮紋うきもんの礼装用の袴にはらりと落ち、鮮やかに広がります。


 「君の髪は私が梳く。」

とは言うものの、

 「それにしても凄いボリュームだ。

 どんな風に伸ばして整えればいいのやら。」

と梳ぎながら悩んでしまいます。

 「思いっきり長く伸ばしている人でも、前髪はやや短めに切ることが多いし、全部梳いて短く切りそろえてしまうのはいかにもダサいな。」

ということで、髪を梳き終わると、

 「千尋ちひろにながくなあれ。」

と呪文を唱えたので、少納言の乳母(今では乳母ではないですが)はありがたいやら申し訳ないやらです。


 ♪果てしない千尋ちひろの海の底の海松みる

     どこまで伸びて行くか俺は見る」


と歌い上げると、


 《千尋なんて深さかどうか知りません

     満ちたり引いたり潮は気まぐれ》


と紙に書いてよこす様子がけなげなので、若くて可愛いというのはいいもんだなと思いました。


 今日も隙間なくびっしりと車が止まってました。


 一条大宮の北の競馬くらべうまが行なわれる右近馬場の乙殿おとどのあたりで立ち往生して、

 「上達部の車が多くて、やっかいな場所だな。」

と様子を見ていると、たくさんの女房達の乗っているそこそこ立派な女車から、扇を差し出して招きよせ、

 「今どかすからここに来なさいな。」

という声がします。


 どこのスケベ女かと思うものの、確かになかなかいい場所なので車を引き寄せて、

 「どうやってこんないい場所取ったんだ。

 癪だな。」

というと、こじゃれた扇の端を折って、



 《むなしいなあ、連れと逢う日を見せつけて

     あうひをかざす今日を待ってたのに

 

 結界を張りおって。》



と書いてある筆跡で、どこかで見たことがあると思ったら、あの典侍ないしのすけのマチコでした。


 びっくりしたなあ、年取るのが嫌であんな若作りしてと、むっとしながら素っ気無く、


 ♪あうひの葉なんて信用できないな

    だってみんなに逢う日なんでしょ


と歌うと、やなこと言うなと典侍マチコは思いつつ、


 「あうひなんて名ばかり『逢う日』というだけで

     そんなの当てにしたのが悔しい」


と言い捨てました。


 女連れで乗っていながら簾すら上げようとしない源氏の君ミツアキラの車に、反感を覚える人もたくさんいたことでしょう。


 「禊の日にはあんなにりりしいお姿を見せておきながら、今日はふしだらに遊び歩いて、一体誰なのよ。

 一緒に乗っている人はさぞ凄い人なんでしょうね。」

と勘ぐる声が聞こえます。


 「葵のかざし飾りの争いとしては今一だったな。」

源氏の君ミツアキラは拍子抜けのようですが、こういう懲りない女とはいえ、相乗りしていることを気遣って、素っ気無い返歌も軽く受け流すあたりは立派なものです。




 「典侍ないしのすけ再登場。」

 「レギュラーになるのかな。」

 「それはそうと千尋ってどんな髪型?」

 「髪のボリュームが多いと、髪の毛が扇型に広がって重くなっちゃうでしょ。

 だから、頭頂部の髪だけを残して、下の方を削ぎ取るのよ。

 それで頭頂部の髪だけを長く伸ばせば、軽い感じのまま長い髪になる。」

 「なるほど、やってみよう。」

 「これは髪の毛の量の多い人には朗報。」

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