第21話 紅葉賀1 朱雀院の行幸
寛弘二年(一〇〇五年)、夏の初め。
「なかなかアンチが収まらなくて、でも上の方も収拾に乗り出したみたい。」
「旧定子(さだこ)派一掃のチャンスって、結局政治なんでしょ。」
「物語を政治に巻き込んだり利用したり、疲れる。」
「面白ければいいじゃん。」
「
藤式部
「では、または時間が少し戻るけど、年が明ける前の十月の
宮廷ももっと風流で輝かしい物であってほしいわね。」
朱雀院の
今回の催しは例年になく面白くなりそうだということで、禁中を離れられない後宮の女たちは、それが見られないことを悔しがってました。
『青海波』は二人舞なので、もう
夕暮れの傾く陽射しが鮮やかに射し込む中、楽の音も澄み切って最高潮に達する頃には、二人のぴったりとそろったステップ、表情など、この世のものとは思えません。
舞が止み、台詞の部分になると、浄土から聞こえてくる仏のカラビンカの声もかくやと思えました。
御門はすっかり感極まって涙を落としました。
上達部や親王たちも、皆泣きました。
台詞が終って衣装を変えると、ふたたび待ってましたとばかりに音楽が盛大に始まり、ふたたび舞い始める顔はさらに晴れやかになり、いつもよりさらに光る源氏となりました。
皇太子の母君である
「神様が空に連れてって手元に置いておくといいような美貌ね。
マジ危ないわ。」
と漏らすのを、若い女房たちは「うわー、やな奴」と思って聞き耳を立てました。
その夜、
「今日のリハは『青海波』に尽きるな。
どう思うか?」
と聞かれ、一瞬どう答えていいかわからなくなり、
「殊更でございます。」
と言うだけでした。
「もう一人のほうも悪くなかったな。
舞の仕草といい手の遣い方といい、さすが左大臣家の子だ。
世間でもてはやされている舞の師匠達も確かに上手いが、ああいう若々しい初々しさは無理だな。
リハの段階で全部見てしまうと、本番の紅葉の下で見るときの感動がなくなるとは思ったが、君に見せてあげたくて準備したんだ。」
とのお言葉です。
翌朝、
《どのようにご覧になられたことでしょうか、密かに心乱してまして、
苦しくて舞ってられない俺なのに
袖を振ってる気持ちわかりますか
ご無礼を。》
とあり、今も目に焼きつくあの光景を見なかったことにもできなかったのか、その返事に、
《
ただ振る舞いは奇麗でしたよ
一般論として。》
とあるのを、とてもびっくりして、女といっても『青海波』の舞をきちんと理解していて、中国の皇帝のことを気遣うお后様のお言葉を今から拝見できるとはとほくそえみ、経本を紐解くかのようにありがたそうに広げては眺めるのでした。
*
行幸には、親王たちをはじめとして、宮廷に残る人もほとんどなくお供しました。
当然皇太子様も出席します。
例によって、船首を龍などで飾った二艘の船の上にステージを組んだ楽団の乗る双胴船が漕ぎ廻り、
管弦の声、鼓の音、辺り一帯に響き渡ります。
先日の源氏の夕暮れに舞う姿に、神様に召されては大変ということで御門が人を呼んでお経を唱えさせて、皆もっともなことだと感銘に耽っている中で、
「いい気なものね」と憎まれ口を叩いてました。
舞の指導者も非凡な人材を集めて、それぞれ缶詰になって練習しました。
背の高い紅葉の陰に四十人の垣代を揃えて吹きたてる名状しがたい楽の音色は、折から吹く松風か
髪に刺した紅葉が散ってしまって、夕陽に赤く照った顔に圧倒されたような感じがするので、左大将が前にあった菊を折って紅葉の枝と差し替えました。
日が暮れかかる頃、天気までもが俄かに
本来参加を許されてない下々の人間も、木の下や岩の陰や山の木の葉に埋もれながら、ちょっとでも美を解するものなら涙を流してました。
この二つの面白さに眼を奪われてしまったのか、他の出し物は目に止まらず、むしろせっかくの感動を台無しにしたかもしれません。
その夜、
一体どんな前世の徳があったのか見てみたいものですね。
*
その上、あの若草を奪ってきたことで、「二条院に女を連れ込んだ」という噂を耳にすれば、不愉快なことこの上ありません。
「自分が内心何を考えているかはわからないだろうけど、まあ、そう思うのもしょうがないんで、もっと可愛げがあって普通の女のように不満をぶちまけてくれれば、俺だって心開いて話し合って、なだめてあげようという気にはなる。
それが自分でも思ってなかったようなことを勘ぐられたりして不愉快になるから、本当はしたくもない浮気心も出てきてしまうんだ。
別に見た目といい才能といいこれといった欠点もなければ、不満に思うようなこともない。
誰よりも早くから好きだった人だし、心惹かれいつだって大切に思っているというのに、それが伝わらなくてもいつかはわかってくれると、本当はどこかに落ち着きたくて、好きで軽々しくしているのではないことも、いつかは自ずとわかってくれる」
と期待するのもおかしなことです。
幼い方の人は、いつ見ても性格容貌とも不足なく、無邪気にまとわりついてきて離れません。
しばらくは二条院の中の人にも誰なのか知らせないようにして、西の離れた方の対にこの上なく調度などを飾り立てて、源氏自身も朝から晩まで入り浸って、いろいろなことを教え、字などもお手本を書いて練習させたりして、外で作った娘を引き取ったかのような感じです。
家財の管理をする
実の父もあずかり知らぬことです。
若草の姫君は、今でも時々尼君のことを思い出しては恋しがることが度々あります。
二、三日参内したり
尼君の法事をする時も、盛大に執り行いました。
「会わせないようにするつもりだな」と不愉快に思うもののそこは抑えて、ごく普通に世間話をしていると、兵部卿の宮がやってきました。
なかなかの美形でなよなよとして色っぽく、女だったら美人だろうなと密かに思いつつ、お互いに親しみを感じるのか、いろいろこまごまとした話をしました。
兵部卿の宮の方も、源氏の容姿をいつになく間近で親しげにしながら見るにつけ、「すげー美人」と思い、自分の娘の婿になっているのも知らずに、女にして愛してみたいなどと思ってました。
日が暮れて兵部の卿が
「本当はもっとちょくちょく参上すべきなのだけど、大した用もないので何となくサボっていただけで、用があるときは遠慮なく言ってくれれば嬉しいのだけど。」
などと形ばかりの挨拶をして帰りました。
王命部も会わせる手筈をつけようもなく、
短い間の恋だったと苦しく思い悩むのは、源氏の方だけではありません。
*
少納言の乳母は、
「思いもよらなかった良縁に恵まれたもんだ。
これも亡き尼君の若君のことを心配して、お勤めを欠かさなかったからこそ、仏様に祈りが届いたからに違いない。」
と思いました。
とはいえ、
「本妻は本当に高貴な家の出だし、あちこちにたくさんの女と関係しているから、本当に若君が大人になったときには苦労するんではないか。」
とも思います。
だけど、こんなに特別に大事にされていることを思えば、十分期待が持てそうです。
裳の期間は母方の祖母なので三ヶ月間ということで、大晦日には喪服を脱がせたものの、実の親に育てられてこなかったので、あまり派手な色ではなく、薄紅、紫、山吹の無地の
「今日からはちゃんと大人らしくしてくれるのかな。」
と言ってにっこり笑うさまは、なかなか愛らしくて好感がもてます。
と、言ってるそばからせわしく紙人形を並べて雛遊びを始めてます。
一メートル近い戸棚などの一揃いにいろいろなものが入れてあって、小さなドールハウスのようなものを作りそこに並べ立てて、所狭しと広げて遊びます。
「昨日大晦日の鬼やらいだといって、
と、真剣な顔で言います。
「そりゃひどいことする奴だな。
今から元通りにするように言うから。
今日は正月なんだから悪いことを口にするのはやめにして、泣いたりもするんじゃないぞ。」
と言って出発しようとする様子を、所狭しとみんな端のほうに出てきて見ているので、若草の姫君も出てきて見送ったあと、雛遊びセットの中の源氏の君の紙人形を正装させて、参内ごっこをしてました。
「今年こそ少しは大人になりなさい。
十歳を過ぎて雛遊びなんてするものではありません。
ましてこのように結婚なさったのですから、女らしくおしとやかにしてみせなさい。
櫛で髪を梳くのも面倒くさがって。」
などと、少納言の乳母は言いました。
雛遊びにばかり夢中になっているのを少しは恥ずかしいと思わせようとしていったのですが、若草の方はというと、心のなかで、
「そういえば私には夫がいたんだ。
少納言や他の女房も結婚しているけどみんなぶっ細工。
私にはこんなに若くてイケメンの人がいるんだった。」
と今さらながら気付くのでした。
こんなことでも、一つ年を重ね、また一つ大人になった証拠なのでしょうか。
こんな幼い様子がことにふれて知られてくると、二条院に仕える人たちも、変だなとは思っているものの、ここまで色気のかけらもないと、夫婦関係だとは思いませんでした。
源氏の方は、内裏から
トーコは例によってつんと取り澄ました様子で、それでいてこれといった感情を表すわけでもなく、息が詰まるので、
「今年こそは少しは夫婦らしくしようと心を入れかえてくれればどんなに嬉しいことか。」
などと言っては見るものの、わざわざ女を呼んできて傍にはべらせていると聞いて以来、本妻の地位を脅かすのではないかと戦々恐々で、ますます接することをためらいがちになっているようです。
それでもまったくバレてないかのようになれなれしく振舞われると、頑なに口を閉ざすわけにもいかず、ついつい返事してしまうあたり、あの姫君とはまったくちがいます。
四つほど年上なので、大人びて、まぶしいくらいに成熟し完成された女に見えます。
「本当に非の打ち所のないいい女なんだな。
完璧すぎるからついついそこから逃れて勝手気まましたくなって、こんなふうに恨まれちゃうんだろうな。」
と納得しました。
同じ大臣の中でも常に高い評価を得て止まないあの
翌朝出て行くところにも顔を見せ、着替えを手伝う時に、由緒ある宝玉を用いた玉帯を自分で持ってきて後で締めてあげるなど、靴まで履かせてあげかねない様子で、哀愁すら漂います。
「こういうものは内宴のような華やかな席で身に着けるもので、その時にしてほしい。」
などと
「そのときはもっと凄いものを用意します。
これはただ、あまり知られてないものなので。」
と言って、無理やり着けてしまいました。
まさに万事において世話を焼くことが生きがいで、思いがけなくもこれだけの人を婿として迎え入れることができたことで、これ以上のことはないと思っているのでしょう。
新年の参賀といっても、そんなにいろいろな所に行くわけではなくて、御門の所、春宮の
「今日はまたわざわざおいでなさって。」
「また一つ大人になられて、恐ろしいくらい美しさに磨きがかかってまして。」
と女房達の嬉しそうな声が聞こえてくるので、
このたびの御出産に関して、師走が終ってもその兆候がなく、今月こそはと
物の怪の病だと、世間がそういって騒いでいるのが
この世の無常を思うと、こんなにも儚く終ってしまうのかと、何もかもひっくるめて悲嘆にくれているうちに、二月の十日過ぎについに男の子が生まれたので、御門も三条の宮の人たちもそれまでの不安から一気に解放され、惜しげなくそれを喜びました。
「このまま生きていても」と自己嫌悪になるものの、
御門は早く我が子を見たくてしょうがありません。
「御門が早く見てみたくてそわそわしているというので、その前に確かめてからお見せしましょう。」
と
「それはちょっと難しい。」
と言って見せようとしないのにも理由があります。
というのも、本当にびっくりするほどこんなことがあるかというくらい
源氏は王命婦にたまたま会ったので、何とか
特に、赤ちゃんのことを異様に不安そうに尋ねるので、
「何でそんなに焦ってるんでしょうか。
もう少ししたら自然に見るときも来るでしょうに。」
と言いながらも何か考え込むあたり、いづれもただならぬ様子を察しているのでしょう。
傍目にも痛々しいので、正面きっても言えず、
「もう二度と直接会うことはできないのかよぉおおおおっ。」
と泣き出してしまう様子には胸が締め付けられます。
「何があって前世で結んだ約束が
今こんなにも引き裂かれるんだ
もう本当にわけがわかんないよ。」
と泣き叫びます。
王命婦も、
「見なくても見ても苦しむばかりです
これは誰もが迷う暗闇
悲しいけど心得ておかなくてはいけないことです。」
と小声で言いました。
これ以上何ともいいようがなく
命婦も人目を気にして何ごともないふうにお世話を続けるものの、随分冷たいなと思う時があってすっかり落ち込んで、まさかこんなことになるとはと思うのでした。
「兵部の卿ってそっちのしゅみだったの?」
「源氏が受けで、兵部が攻めかしら。」
「兵部の卿は攻めみたいね。」
「逆の方がよくない?」
「藤壺の兄弟だから、当然美形で、源氏の好み。」
「両攻め両受けでいいんじゃない?」
「若草危うし。取られちゃう。」
「無視されるトーコ。」
「こういう話で平和に盛り上がりたいね。」
「なんか現実を見ちゃうとリョーコが可愛く見える。」
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