第19話 末摘花2 秋の七弦琴
「写本の整理のはずだったが、思わぬところで、藁火がついちまったな。」
「そうですか?
私は想定内のことです。
式部の物語をあなたと新しい中宮様の新しい政治のシンボルに据えるなら、旧派の炙り出しは避けて通れません。
さて、燃えるのはどちらで、萌えるのはどちらか。」
「式部がここを乗り越えくれないことにはな。
挑発的に出るのもいいが、適度に抑えていかないと。」
八月の二十日を過ぎた頃、夜も遅くなるまで昇らない月を待つのもじれったく、星の光だけが澄み切っていて、松の梢を吹く風に音が心細く、常陸の親王の
絶好のチャンスと思って送った手紙を読んだようで、例によって人目を忍んでやってきました。
月がやっと昇ると、垣根がすっかり荒れ果てているのを気味悪そうに眺めいたものの、
「もちょっと、今風な感じがあるといいのにな。」
と
まったく人目にない所なので、安心して入れます。
今さらのように驚いたふりして、
「ああもう、ほんと痛いんだからぁ。
というわけで例の源氏の君が来ちゃいましたぁ。
いっつも手紙の返事がないって文句ばっかり言って、そんなうまくいくわけないって言っておいたのだけどぉ、自分で説明するからと言ってたんですよぉ。
どう言ったって帰らないよぉ。
ちょっとやそっとの軽い気持ちで来ているんじゃない所がやっかいで、何か物を隔てて、言ってることを聞いてあげてよぉ。」
と言えば、ひどく恥ずかしがって、
「私、人とどう話していいかわからないの。」
と奥の方へ膝を擦って移動してゆく様子が何ともぎこちない感じです。
「ほんと、いつまでも若いんだから心配しちゃうよぉ。
いい所のお嬢様も親が後ろについてしっかり守っててくれているうちは、天真爛漫に振舞うのも当然と言えば当然だけどね。
ここまで心細い状態になっても、世間との接触を嫌ってたんじゃぁ、どうしようもなくない?」
と諭します。
さすがにこの人の言うことにはなかなか逆らえないようで、
「聞くだけ、返事をしなくてもいいなら、格子を閉めて格子越しに。」
と言います。
「
別に押し入ってきて、いきなり何かしようなどというんじゃないしぃ。」
などと、うまく説得して、
ほとんど気乗りのしない感じでしたが、こういうわざわざ通ってくる男と何か話すときの心得なんかも、夢にも思わなかったので、命婦にこう言われると、そんなもんなのかなと思ってその通りにしました。
乳母のような年寄りは
若い女房など二、三人いましたが、世間でもてはやされているそのお姿を見てみたいと思って、何かいつもと違う不自然な振る舞いになっていました。
男はもって生まれた最高のルックスを、お忍びのために用意した粗末な装束で包み、その様子がいかにも渋く、いつもの源氏しか知らない人に見せてやりたいくらいですが、こんな殺風景な所で「何か気の毒ぅ」と
自分がいつも責められているような恨みつらみごとを言われ、ただでさえ病んでる人がさらに塞ぎこんでしまうのではないかと心配になります。
日頃ずっと思い続けてきたことを、なかなかうまいこと言葉にして延々と語るのですが、間近で聞けると思った返事は何一つありません。
「しかとかよ、ひでーな」と深く溜息をつきました。
「何十回君の無言に負けようと
まだ黙れとは言われていない
聞かなかったことにしてもいい。
嫌なら嫌と言ってくれないと、玉だすきの掛けっぱなしじゃ困る。」
と言います。
姫君の乳母の娘であるイソシコという侍従が、まだ若くてそう落ち着いてもいられず、はやる気持ちを抑えられず、見てられないとにじり寄って、
「鐘鳴らし授業終了、なんちゃって、
答えにくいのはお許しをあれ」
と、まだうら若い声で歌うものの、言葉に重みがないあたりが
「あきれて物も言えないな。
沈黙は雄弁に勝ると言うけれど
隠し事とはいただけないな」
あれこれと無駄とは知りつつ、冗談を交えながらも真面目に話しかけるのですが、何の反応もありません。
まったくこんなふうに態度が普通と違うのは、誰か他に好きな人がいるからなのかと思うと癪で、いきなり障子を押し開けて中に入りました。
「ありゃーーっ、こりゃまずい、油断してた。」
と恐くなり、見なかったことにして部屋に戻ってしまいました。
ただ、思いもよらない急な展開に、何とも乱暴なと思うだけです。
当の姫君はというと、ただ何が何だかわからず、恥かしくて自分が惨めだという以外に何もなく、源氏の君も、最初は何だか気の毒だが、箱入り娘で初めてだったのならしょうがないと、特に気にもしなかったものの、何かわからないがとてもいたたまれない様子でした。
*
結局何一つ
うーーーんとうなり声を上げては、まだ暗いうちに帰ってゆきました。
源氏の方も誰にも知られぬようにさっさと帰っていきました。
二条院に戻るとすぐに寝込んで、「何でこう思うようにならないんだ」と思うばかりで、あの並大抵の身分ではない人のことが気の毒に思えました。
塞ぎこんでいると
「朝寝とは随分いい身分じゃないか。
さては何かあると見たな。」
と言うのでむくっと起き上がり、
「独り気楽に寝床でくつろいでいるところに何だ?内裏からか?」
と答えると、
「そうだ。
ちょっとした用事のついでだ。
朱雀院の紅葉狩りの件で、参加する演奏者や舞い手が今日発表されるので、この俺が内定したことを
すぐに帰らなくてはならないんだ。」
と急がしそうなので、
「だったら一緒に。」
ということで、お粥やおこわを食べて、二人一緒に内裏へと向い、二台の車を連ねましたが、一緒の車に乗って、
「にしても、眠そうだな。」
と何か言わせようとするものの、
「隠し事が多すぎるぞ。」
とぼやくのでした。
いろいろなことが決定される日なので、内裏で一日働きました。
例のところには、一応婚姻の儀式とするには三日続けて通わないまでも手紙くらいはと思ってるうちに夕方になりました。
雨も降り出すし、宮廷の窮屈な事情もあって、例のところへ行って雨宿りしようかと思うこともなかったのでしょう。
そこには、本来なら朝には来るはずの手紙を待ちわびて、
当の
「夕霧の晴れた景色を見ぬうちに
今夜の雨はただ鬱陶しい
雲の晴れ間に月が出るのを待っていると、気持ちばかりがせいてなりません。」
どうやら今日は来そうにない様子なので、仕えている人たちも胸の潰れる思いで、
「一応返事はしなくては。」
と急きたてるものの、ますます頭が混乱するばかりで、いっこうに歌の体をなさないので、
「もう夜が更けてしまいます。」
とあの侍従が手助けして、
「雨の中月待つ気持ち解りますか
同じ気持ちで見てないにせよ」
口々に責められながら、紫の紙に、といってもかなり昔のものですっかり灰色く変色してしまった紙に、さすがに力強い筆づかいで、行成以前の時代の
一体何を考えているんだ、とあれこれ想像をめぐらしても気が気でありません。
「こういうのを『くやしい』というのだろうか。
だからといって、どうしようもない。
気長にこれからもずっと世話をしていこう。」
と心に決めました。
そんな源氏の気持ちも知らず、あちらではどうしようもないくらい悲嘆にくれるばかりでした。
朱雀院の
なかなか暇もなくて、どうしてもと思う所にだけは密かに出かけていきましたが、あの姫君の方は、ほとんど眼中になく秋も暮れていきました。
期待したようなことは何もなく月日は過ぎてゆきました。
*
いよいよ行幸が目前に迫り、リハーサルの音がいよいようるさくなる頃、
「あれからどうしている?」
などと
「ここまで放ったらかしにされたんじゃぁ、見ている方も辛すぎるじゃないのよぉ。」
と今にも泣き出しそうです。
直接顔をあわせることなく話をさせてそれですむと思ってたのを滅茶苦茶にして、空気の読めないやつだと思ってるだろうなということくらいは理解できたようです。
「忙しい時期なのでどうしようもなかった。」
とぼやきながら、
「男心を理解してないようだったので、懲らしめてやろうと思ったんだが。」
と苦笑いする姿が子供っぽくて可愛らしいので、
この忙しい時期が過ぎると、時々は通うようになりました。
それでも、あの紫に縁のある人をさらってきて、その可愛がり方に熱のこもる頃には、六条通いも途絶えがちになり、ましてその荒れ果てた家には、気の毒だなとは思いながらも気が重くなるのはどうしようもないことです。
頑として引き篭もっているその姫君の正体を見たいという気持ちはありながらも時はだらだらと過ぎてゆき、ひょっとして思ったより美人なのかもしれないが、手探りでおぼろげにしかわからなかったので、何か今ひとつ納得できないことがあるのか、見たいと思っても部屋を明るくするのも気が引けます。
まだ相手も油断している宵の口に、密かに忍び込んで、格子の間から覗き見しました。
残念ながら
几帳はかなりボロボロになってはいるものの、長年にわたってそこにあるようで、押し開けたりして乱れた形跡もないのでどうしようもなく、ただ女房の四五人いるのが見えるだけです。
お膳にあるのは中国製の秘色青磁なのだけど、保存状態が悪く本来の風情も失われて痛々しい感じです。
女房達が退出してきて食事してます。
隅の仕切られたところにいかにも寒そうにしている女房がいて、白い衣もすっかり煤けてしまって、それに汚らしい
さすがに結った髪に櫛を無造作に挿した生え際のあたり、
まさか、人間の傍で身の回りの世話をしたりもするとは知りませんでした。
「ううう、今年の寒さはこたえますわ。
長生きするといろいろ惨めな目にあうとはいいますが、本当ですわね。」
と言って涙ぐむ者もいます。
「亡き宮様がいらした頃は、辛いなんて思ったことはありませんでしたわ。
こんな心細い状態になっても何とかやってけるものですわね。」
と言って、飛び立ちかねつ鳥にしあらねばとは言うものの、今にも鳥になって飛立って行くくらい震えてました。
いろいろと人には聞かせられないような愚痴をこぼしあってるのを聞くにつけても痛々しいばかりなので、その場を去り、たった今着いたかのように戸を叩きました。
「あらやだ」などと言って灯を火を元通り明るくし、格子を開けて源氏の君を中に入れました。
あの
そのためよけい今の宮廷文化から隔絶してしまい
そのうえ心配されてた雪があたり一面を埋め尽くして激しく降ってきました。
空の様子もただならず、風が吹き荒れて
あの怪異に襲われた時のことを思い出して、荒れ果てた感じもあの時とそれほど違わず、ちょうどこんな時間だったか、多少なりとも人がいるのが救いではあるものの、寒々としたちょっとしたことでもやたら目が冴えてしまいそうな夜の状態です。
面白くも悲しくも、手を変え品を変え風流を楽しめそうな屋敷なのに、完全に世間から隔絶されながら頑なに昔ながらの生活を守っていて、何一つきらめくものがないのが残念でありません。
やっとのことで夜が明けてきたようなので、格子を自分の手で上げて前庭の植え込みの雪を見ました。
誰かが歩いた形跡もなくどこまでも荒れ果てたままで、どうしようもなく寂しげで、このまま帰ってしまうのもなんなので、
「この美しい空を見てみなよ。
そうやっていつまでも心を閉ざしていたところで、どうしようもないだろう。」
と不満そうに言いました。
まだほの暗いけれど、雪の光にますます若く輝いて見える
「早く出てきなさいな。
しょうがないわね。
女は可愛らしくしてるのが一番ですよ。」
などと諭されれば、さすがに年寄り達の言うことに逆らおうなどという気も起きず、とりあえず身だしなみを整えて、膝で歩いて出てきました。
見ないように外の方を眺めてはいるものの、ついちらっちらっと見てしまいます。
「ひょっとして親密になってみれば本当はいい女だったり、なんてことが少しでもあれば嬉しいな。」
などと思うのも随分と勝手なものです。
まず、座高が高く胴長な姿が目に入り、悪い予感は的中です。
「やっぱり駄目か。」
さらに駄目押すように、
「これは異様だな。」
と思えるのが鼻でした。
一瞬目が釘づけになります。
「
と思いました。
驚くほど高く長く伸びていて、先の方が少し垂れて赤く色づいているのが、とても尋常ではありません。
顔色は雪も顔負けするくらい白く、額はぷくっとはれて、それでいて下膨れな顔はぎょっとするくらい長く伸びてます。
骨が見えるくらいげっそりと痩せ細り、肩の辺りなどは衣の上からでも痛々しいくらいです。
「何でこんなものを全部あからさまに見なくてはいけないんだよ。」
と思うものの、怖いもの見たさでついつい見てしまいます。
髪質やその長さは、よく知っている美しく可愛らしい女たちとそれほど変らず、袿うちぎの裾まで豊かに垂れ下がり、さらに三十センチくらい引きずってました。
着ているもののことをあれこれ言うのも何だか意地悪なような感じはするけど、昔の物語でも人の衣装のことは真っ先に言うものです。
薄紅の今様色の無残に色あせてしまったような単ひとえの上に本来の紫色の面影もない黒ずんだ袿を重ね、その上に最高級のロシアンセーブルの毛皮に香を焚き込めたものを着ていました。
古きよき時代の由緒あるお着物ではあっても、まだ若い女性が着るには似つかわしくなく、その仰々しさに
とはいえ、実際この毛皮がなかったら寒くてしょうがないんだろうなと思わせる顔色を見ると、見てる方が辛くなります。
しばらく物も言えず、自分まで姫君の無口がうつってしまったような気になったものの、何とか気まずい沈黙を回避しようとあれやこれは口にしてみたところ、ひどく恥ずかしがって袖で口元を隠す仕草も田舎者みたいで古臭くてわざとらしく、儀式官が大様に肩肘を張って歩いている様子を思い出し、かろうじて笑顔を作る様子も中途半端でよくわかりません。
あまりにも見るに耐えない哀れな姿に、すぐにでも立ち去りたい所です。
「頼りにできるような相手がいなくて君に目をつけたんで、他人行儀でなく夫婦らしく仲良くできればそれで良かったんだけどね。
ちっとも心を開いてくれないので辛いんだ。」
などと相手のせいにして、
「朝日差し軒のつららは溶けたけど
この身のつらさ固まったまま」
と言ってはみるものの、ただ「うふふ」と笑い出すだけで、歌を返してくる様子もないのがいたたまれず、その場を立ち去りました。
車を止めていた中門はすっかり歪んで今にも倒れそうで、夜だったからこそ目に付くはずのものもまったくわからなかったようなことはたくさんあって、本当にひどく荒れ果てて哀れで寂しく、松の雪だけがその常緑の暖かさを引き立たせていて、山奥の里にいるような気分で物悲しく、あの夜誰かが言ってた「寂しく荒れ果てた葎の茂るような門に」というのは、きっとこういう場所なのでしょうね。
そこに本当に心ときめかすような可愛らしい人を住まわせて、守ってやりたいと思ったのでしょう。
自分がこんなふうに通うのは、娘の世話を誰かに託したかった常陸の親王の霊の導きだったのではと思うのでした。
橘の木が雪に埋もれているのを、随身を呼んで掃かせました。
それをうらやましそうにしている松の木は自分で起き上がってさっとこぼれる雪も、有名な末の松山が越えようとする白波を打ち払っているかのように見え、そんなに深く付き合わなくても、波風立たぬくらいに一緒にいれればいいなと思いました。
車を出そうにも門がまだ閉まっているので、鍵を預かっている人を探し出したところ、よぼよぼの爺さんが出てきました。
その娘とも孫ともつかぬ年齢の女が付き添うのですが、衣は雪がくっついてそのため黒々と見え、いかにも寒そうにしながらよくわからない物に火を入れて、袖で包むようにして持ち歩いてました。
老人の力では門を開けられないので、寄ってきて一緒に開けようとするのですが、どうも要領を得ません。
源氏のお供の者も加わり開けました。
「老人の頭の雪は本人に
劣らず見てる方も涙か
♪幼い子供は着るものもなく、
年寄りは体を温めるものもなく、
寒さと悲しみどちらも同じ、
鼻の中に入るのが辛い。」
と白楽天の『秦中吟』の一節を俄かに口ずさみ、鼻を赤くして寒さに凍えているところを想像していると、ふと思い出すことがあって、思わずニヤッとします。
「頭の中将にあれを見せたら一体何に例えるかな。
あいつもいつも通ってるなら、すぐに見ちゃうだろうな。」
と何かやるせない気分です。
ごく普通の十人並みの女なら、このまま別れて終りにするようなところでも、あの姿をはっきり見てしまった以上、かえって気の毒で放ってもおけず、結構真面目に何度も通いました。
ロシアンセーブルではなく、絹や綾や綿などの年取った人たちの普通着るようなものなどを持ってったり、あのよぼよぼの爺さんのためにまで気を使って、上下そろえて持って行ったりしました。
こうした気遣いを受けることを恥だと思うこともなかったので、安心して例の人の後見として世話をしていこうと決意し、ことあるごとに気軽にこまごまとしたことをしてあげました。
「あの空蝉を抱いた夜に近くで見た容貌ははっきり言って不細工だったけど、機知に富んだ女性だったためにその影に隠れて、そんな残念な女ではなかったな。
駄目な女というのは、結局身分とは無関係なんだ。
家庭に波風立てることを好まず、そのことに嫉妬したりもしたが、結局敗北に終った。」
と何かにつけて思い出すのでした。
「容姿の問題ではない。」
「舶来趣味はマジダサいし。」
「今は亡き中宮様の時代には多かったわね。」
「中国崇拝で、舶来品で身を固めて、漢文の教養を鼻にかけて。」
「中国の文化を否定するつもりはないけど、それで日の本を見下すのは‥。」
「式部は漢籍の素養も半端ないけど、それをきちんと大和言葉で語ってくれる。」
「最初にこの物語を聞いた時に、時代は変わったと思った。」
「新しい中宮様の時代の到来。」
「前の中宮派の人たちも大変ですわね。」
「まあ、表向きはあくまでおおどかに、おほほほほって。」
「焦ってるのはあちらですから。」
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