第13話 若紫1 北山の僧都(上)
寛弘二年(一〇〇五年)、春。
「源氏一代記の構想はどうやら当たったようだな。あちこちで女房達が写本を作ってて、その数は今や三十は下らない。」
「左様、ただ、雑な写本が多く、せっかくカットした部分が勝手に復活してたりもします。」
「そういうわけで、おおやけとしては、ここらで定本を作った方が良いと思う。今の時代で書の達人と言えば、そなたをおいて他にない。」
「そういうご用件で、今日はこの場にということですか。
まあ麿も噂には聞いてましたが、実際にこの場に来るのは初めてです。」
「あれ、寛弘おじさんじゃない?」
「寛弘おじ?」
「なんか男が増えて来てて草萌ゆる。」
「今日は新キャラが出るらしい。」
「空蝉、夕顔と旧作の繋ぎ合わせだったからね。」
「まだ、末摘花と玉鬘がまだよね。」
「玉鬘は大分後の方になるんじゃない?」
「あっ、式部さんだ。式部、式部、式部、式部‥‥」
藤式部
「さあ、今年も始めましょう。」
マラリアにかかったのでいろいろと加持祈祷をしたものの、効果もなく繰返し高熱になるので、ある人が言うには、
「北山のなんとか寺にすげー霊力のある修行僧がいてさあ、去年の夏も大流行したときに、多くの人が祈祷しても良くならなかったのにすぐに治ったという例がたくさんあるんだって。
こじらせては大変なことになるから急いで試した方がいいっすよ。」
ということで、呼びにやったところ、
「歳で腰が曲がって家の外にも出られないって。」
と言うので、
「しょうがないな。こっそり訪ねてみよう。」
と言って、ごく親しい四、五人引き連れて、まだ明け方の暗いうちに出発しました。
少々山深く入った所でした。
三月の下旬で京の桜の季節もすっかり終ってました。
山の方ではまだ桜の盛りで、奥へ行けば行くほど霞みのような花のたたずまいを奇麗だなと思ってみていると、
寺もなかなか風情があります。
峯の高い所の深い岩窟のなかに、その聖人が修行をしてました。
登って行き、誰とも知らせず、ひどく見るに耐えないほどみすぼらしい格好をしているものの、さすがにすぐにわかる顔立ちなので、
「これはこれは恐縮至極。
先日呼びに来られた方と見受けられる。
今は俗世を捨ててしまったゆえ、修法などのやり方も捨ててしまい忘れてしまったというのに、何ゆえこのような所にやってこられたのやら。」
と驚き慌てながらも、ふっと笑って
そこはやはりありがたい高僧でした。
しかるべき薬を作っては飲ませ、加持などを終えた頃には、既に日は高く登ってました。
少し外へ出てあたりを見渡せばそこは高い所で、見下ろせばあちこちに僧坊がはっきりと見て取れました。
「それにしても、このうねうねと曲がった坂の下の、他と同じような小柴垣なんだけど、やけに小奇麗に屋敷を囲い込んできちんと整えられているし、廊下を廻らして
、木立も何やら高貴な人のようだが、誰が住んでるんだ?」
と尋ねれば、お供していた人、
「あれは、
「さぞかし立派な人が住む所なんだろうな。
みすぼらしい格好をしすぎて失敗したな。
その僧都とやらに知られてしまうかもしれないのに。」
と源氏の君は言いました。
奇麗に着飾った女の童などがたくさん出てきて、
「あそこに女がいるな。」
「僧都はまさかこんなふうに女を囲ったりはしなよな。」
「どんな人が住んでるんだ?」
とお付きの者たちは口々に言います。
下に降りていって、垣根から覗く者もいて、
「わあ、奇麗な女がたくさん、若い人や小さな子もいるっすよ。」
という。
源氏の君は祈祷を受け続けて、日が高くなるにつけても一体どうなるのかと心配していると、
「とにかく深く考えず、気を紛らわすのが良かろう。」
と言うので、後ろの山に登って京の方を眺めます。
「はるか遠くまで霞みがかかっていて、三百六十度どの方向の木々も梢の先はほんのり霞みたなびき、まるで山水画のようだ。
こんな所に住んでいれば、何の悩みもないんだろうな。」
と言えば、
「こんなのは、大したことないっす。
もっと遠い国に行くといいっすよ。
海や山の景色などをご覧になれば、絵なんかも驚くほど上達しますよ。
富士山だとか何とか山だとか‥‥」
などと言う者もいます。
さらに、西国の風光明媚な海岸や磯の景色のことを付け加えて言う者もいて、いろいろと病気の苦しみを紛らわそうとします。
「近い所では、播磨や明石の浦がまじいいっすよ。
別に絶景というわけではないんだけど、ただ海を見渡すだけで、不思議と他にはない癒された気分になる所でしてね。
その播磨の国の前の国守は、仏道に入ったばかりなのですが、娘を大切に隠してる家があって、かなり痛かったっすね。
大臣の家の末裔で、出世しても良さそうだったんだけどね、世間の感覚とかなりずれていて、順応性がなく、近衛の中将の地位を捨てて、わざわざ国司にしてもらったんだけど、その国の人にもちょっとばかり馬鹿にされたら、
『こんなんで都に帰っても、面目が立たない。』
とか何とか言って出家しちゃったんだけど、そこそこの山奥にでも籠ればいいものを例の海辺に居坐って、何を考えてるかわからないようなんだよな。
実際は、播磨の国の中にもいくらでも隠棲できそうなところはあったんすけど、山深い里は気軽に尋ねていくわけにもいかず、若い妻子などわけわからなくなりそうというんで、出家はしても一方では妻子に気を遣って立てた住まいなんすよ。
やたらだだっ広い敷地にでーんと立ってるお屋敷は、腐っても元国司で相当貯えていたようで、余生を悠々と過ごすための準備もばっちりだったというわけっす。
来世へ向けた修行もしっかりやって、出家太りした人と言ってもいいのではないか。」
と言えば、源氏の君、
「でっ、その娘というのは?」
と尋ねます。
「悪くはないっすよ、見た目も性格も。
けど、代々国司となった者が、いろいろと趣向を凝らしたお膳立てをして、そうした意向を示しはすっけど、親父の方が一向に受け付けないんでね。
『俺だって国司だったのがこうして空しく野に埋もれてるというのに、たった一人の娘なんだぞ。
おまえに賭ける思いは特別なんだ。
もし俺が死んで立派な上流貴族との縁談が得られなくなり、俺の望まなかったような結婚をするくらいなら入水しろ。』
と日頃から遺言してたんだとさ。」
と聞くと、源氏の君も面白がってました。
周りにいた人たちも、
「そりゃ海龍王の妃にでもなるしかない聖女様だな。」
「プライドが高いのも困ったもんだな。」
と笑いました。
この話を切り出したのは播磨の守の息子で、今年になって蔵人から従五位に昇格したばかりです。
「おまえも結構エロいから、その入道の遺言を破ってやろうという気持ちもあるんだろうな。
それで覗きに行ったんだろっ。」
といって言い合いになります。
「まあ、そうは言っても田舎者なんだろ。
小さい頃からそんな所で育って、じじ臭い親にだけ従ってきたんだから。」
「母親の方の血筋はなかなかだよ。
それに、良い女房や童など、都の高貴な家で働いていた人間を、いろいろな伝手をたどって引き抜いてきて、破格な待遇をしているっていうし。」
「それでおまえのような情けない男の妻になったら、ただではすまないだろうな。」
などという者もいました。
源氏の君も、
「一体どういう意図で、海に沈めとまで深く思いつめているんだろう。
海の底の
などと言って、ただならない関心を持ったようです。
こうした話でも、普通の人と違って何か一風変わったものを好む性格なので、気にならないはずはないと思われますね。
*
「もう日も暮れようとしてますが、急な発熱が起こることもなくなったようですし、早く帰りましょう。」
と言っていると、
「物の怪の病といってな、それを併発しているように見えるので、今夜はまだ静かに加持祈祷を受けに来て、それから帰宅させると良い。」
と言います。
みんなも、
「それもそうだな。」
と言います。
源氏の君も、こういう旅寝は経験がないので、かえって喜んで、
「じゃあ、明け方に帰ろう。」
と言いました。
春で日も長く退屈なので、夕暮れの深い霞みに紛れて、昼間見たあの小柴垣のあたりに出かけていきました。
簾を少し上げて、花を捧げます。
中の柱に寄りかかって、
四十は過ぎているようですが、とても色白で上品で、痩せてはいても顔立ちはふっくらとしていて、強い眼差しに奇麗さっぱり尼削ぎに短くカットされた髪の毛も、かえって長く伸ばした俗形の髪型よりも新鮮に思えたか、見とれてしまってます。
奇麗ななりをした大人の女性が二人ばかりいて、さらには女の
髪の毛は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔を真っ赤にして手をこすりつけて立ってます。
「どうしたの?
お友達と喧嘩したんですか?」
と言って尼君が目を上げると、ちょっと似た所があるので親子なのだろうと思いました。
「雀の子を
伏せ
と言って悔しそうです。
大人の女性の中の一人は、
「あの子はちょっと無神経なところあるからね、またこんなことで苛められると思うといい気持ちはしませんね。
どこへ行っちゃったの?
あんなに可愛くてやっとなついたというのに。
カラスに見つかっちゃいますよ。」
と言って立ち上がり、行ってしまいます。
長い髪ふわふわさせた落ち着いた感じの人です。
少納言の
尼君は、
「あらあら、まだまだ子供ね。
あきれて物も言えません。
私がこんな今日明日の命かもしれないというのに、何とも思わないで雀ばかり可愛がって。
と言い、
「こっちへ来なさい。」
と言われて、ぺたんと座ります。
頬っぺたはほんのりと、眉毛の辺りはぽっと赤らみ、何気なく髪をかきあげた時の髪の生え際、髪質はとても奇麗でした。
「大人になった姿が楽しみだな。」
と釘付けになりました。
これはきっと、今までずっと思い続けてきた
尼君は髪を撫でてやりながら、
「髪を
ほんとだらしなくて、情けないやら心配で心配で。
同じ歳の子でも、もっとしっかりしている人がいるというのに。
亡くなられた姫君は、十二の時にお父様がお亡くなりになったけど、もっとちゃんと分別を持ってましたよ。
もし今あなたが一人取り残されたらどうやって生きてくのですか?」
と言ってボロボロ泪をこぼすのを見るのも、何とも悲しいものです。
幼心にもさすがにその姿をじっと見ていたかと思うと、目を伏せてうなだれて、髪が顔の前にこぼれると、つやつやと輝いて見えます。
「育ってく場所も知れない若草を
残して露はどこに消えよう」
居合わせた女房、「まったくです」と泣き出して、
「初草の育った姿見ないうちに
どうして露が消えるなどとは」
と歌を交わしている所に僧都が奥からやってきて、
「ここは外から丸見えではないですか。
今日に限ってこんな軒先の方にいらして。
この山の上の方に住んでいる修験者の所に、源氏の中将がマラリアにかかっていて祈祷を受けに来ていると、たった今聞いたところです。
みすぼらしい格好でこっそりやって来てたので、わからなかったのですが、ここに来ていながらお見舞いにも行かず‥‥」
と言うと、
「それは良くないですわね。
こんな見苦しいところを人に見られては。」
と、簾を下ろしました。
「あの世間で騒がれている光源氏とやらを、こういう機会だからついでに見ておかなくては。
世俗を捨てた坊主の心情としても、この世の憂いをふっとばし、寿命も延びるというほどの人のお姿ならな。
どれどれ、挨拶にでも行ってこようか。」
そう言って立ち上がる音がしたので、源氏の君はすぐに帰りました。
「可愛い子を見ちゃったな。
これだから、あのエロい奴らはこうしていつもあちこちほっつき歩いて、思いがけない人に出会ったりするんだな。
たまに出かけるだけでも、こんな思いもよらぬものを見るのだからな。」
とすっかり浮かれた気分で、
「それにしても美しい幼女だ。
どんな人なんだろう。
といたく気に入ったようなご様子です。
*
部屋で横になっていると、僧都のお弟子さんが惟光のことを呼び出してます。
そう離れた所ではないので、源氏の君にもそのまま聞こえました。
「こちらに立ち寄られていることを、たった今人から聞いた所で、びっくりして参上した次第で。
それも
旅の宿泊所も、こちらの坊に設けて然るべきでした。
本当にお役に立てなくて。」
と申し訳なさそうに言うと、源氏の君も出てきて、
「去る十日余りほど前から、マラリアにかかり、度重なる発熱に耐えられず、人から教えられるままに急にこちらにやって来たのだが、このような有名な修験者でも効果がないとなると面目をつぶすことにもなりかねず、普通の祈祷師と違って迷惑をかけることにもなるので遠慮して、こうやって隠していただけだ。
今にも、そちらに。」
と言いました。
すぐに僧都もやってきました。
お坊さんとはいえ、気後れするくらいの高貴な人柄だと世間からも慕われている人だけに、こんなラフな格好で来たことがみっともなく思えました。
「同じ柴の庵ですが、少しは涼しい水の流れも見ることができますよ。」
とどうしてもと誘うので、さっき尼君やお付きの女房などに寿命が延びるなどと大げさなことを言ってたので、気が咎めるところもあるものの、あの可愛いお姿を見たくもあり、行くことにしました。
「美幼女登場。」
「これって、光源氏の新しい女?」
「危険な香り。」
「『根っから子供っぽくてふわふわした女は、細かくいろいろ教えてやって妻にできないかなんて男はついつい思う』って馬の
「言ってたっけ、よく覚えてるな。」
「場所は鞍馬?」
「あのう、横から失礼しますが、この『多かる野辺』は何なのでしょうか。」
「えっ、まさか。」
「やんごとなき‥‥。」
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