第12話 夕顔4 二条院に戻る
藤式部
「えっ、犯人は誰かって?
それはこの続きのお楽しみ。
さあ、始まるよ。」
付近も荒涼としている上に、板葺き屋根の家に隣にお堂を立てて仏事を行なっている尼の家はとても悲しげでした。
燈明の灯りがほのかに透けて見えます。
板屋では女一人なく声だけがして、その外ではお坊さんが二、三人、雑談の合間の無言念仏をしてました。
たくさんあるお寺の初夜のお勤めも終り、しーんと静まり返ってます。
清水の方だけが灯りがたくさん灯り、人がたくさんいるようです。
この尼君の息子の大徳はよく通る声で経を読み上げると、涙も枯れ果てたかのようです。
中に入ると、右近は火を横にどけて屏風の向こうで臥せってました。
どんなに気落ちしていることかと思いました。
亡骸の方は恐い顔をしているわけでもなく、むしろ可愛らしくもあり、生前とほとんど変る所がありません。
手を取り、
「俺にもう一度だけ声を聞かせてくれ。
どんな前世の因縁か知らないが、ほんのちょっとの間でも心の限り愛してたと言うのに、こんな俺を捨ててこんなに悲しませるなんて、ひどすぎるよ。」
と声を限りに泣いて、いつ泣き止むとも知れません。
大徳たちも誰かは知らないけど、不思議なことだと思って皆涙をこぼしました。
右近に、
「さあ、二条院へ。」
と言っても、
「今まで幼い頃から片時も離れることなく親しんできた人と急にお別れとなって、一体どこに帰るというのですか。
どうしてこんなことになったのか、人に聞かれても何と言えばいいのでしょう。
悲しいというだけでなく、人にいろんなことを言われて騒がれると思うとどうしようもなく辛い。」
と言って泣きじゃくり、
「煙と一緒に後を追います。」
とまで言います。
「確かにその通りだけど、この世というものはそういうものだ。
別れというものが悲しくないはずはない。
死んだ者も残された者も、どのみちいつかは命には限りがある。
そう思って気持ちを静めて、俺に任せてくれ。」
と言って慰めてはみるものの、
「そういう俺自身も、息が止まりそうな気持ちなんだ。」
などと言うあたり、任せられるような様子ではありません。
惟光が、
「夜がもうすぐ明けてしまいます。
早く帰りましょう。」
と言うのを聞いて、何度も何度も振り返りながら、胸はさらに苦しく息ができないくらいです。
道は露の匂いに包まれ、さらに朝霧まで立ち込めて、どこか知らない所に迷い込んでしまったような気持ちになります。
生前そのままに横たわっていた姿、寝る時に掛けてやった自分の赤い夜着を着たままだったことなど、一体どんな気持ちであの一夜をともにしたのかと、道すがら考え事をしてました。
馬にもしっかりと乗ってられない状態でしたので、惟光が横で支えていたところ、加茂河原の堤のあたりで馬から滑り落ちて、どうしようもなく頭が混乱して、
「こんな旅路の空に放り出されてしまったみたいだな。
二条院には永久に帰れないような気がする。」
と言うので、惟光も動揺して、俺がもっとしっかりしていれば、何を言われようともこんな道中に引っ張り込むようなことはなかったと思うと、どうにも心が落ち着かず、川の水で手を洗い、清水の観音様にお祈りをしてもなすすべもなく思い悩みます。
源氏の君も不本意ながらすがる思いで心の内で仏様にお祈りして、その功徳があったのか二条院に帰り着きました。
こんな夜更けの外出はいかにも怪しげで、女房達は、
「みっともないったらありません。」
この頃いつもより落ち着きがなく、たびたびこっそり外出したりしてたけど、昨日は何やら思いつめたような様子だったし、どうしてあんなふうにふらふらほっつきまわってるのか、とぼやきあっていました。
実際、寝込んだままひどく痛々しく苦しがり、二、三日すると目に見えて衰弱してゆきました。
禁中にも報告し、悩みは尽きません。
ご祈祷に来た人たちは次から次へと皆それぞれに大声でわめきたてます。
陰陽師を呼んでは祭祓をさせ、密教僧を呼んでは修法をさせ、列挙すればきりがありません。
この世に類を見ない神々しい美男子だけに薄命なのではないのかと、下々のものの間でも大騒ぎです。
苦しんでいる間にも、あの右近を二条院に呼んで、近くの控え室を与えて世話をさせました。
惟光も動揺は隠せないけど何とか気持ちを静めて、右近のことをどうすることもできないなと思いつつも、支えになり、助力しながら側に控えました。
源氏の君が多少病状の良い時は、右近を呼び寄せて、お使いをさせたりすれば、ほどなく二条院での生活にも馴染みました。
ふっくらとして色黒で美人とは言い難いけど、周囲の女房にも見劣りのしない若さがあります。
「不思議な前世の約束に引き寄せられているのか、俺ももうこの世にはいられないのだろう。
長年の仕えてきた人を失って、心細く思っているそのせめてもの慰めとして、このまま生き延びたなら、いろいろと親代わりになりたいと思ったのだがな。
もうすぐまたあの人と一緒にならなくてはならないのが残念だ。」
と人に聞かれないように言うと、力なく泣き、右近も主人を失った悲しみをここで言ってもしょうがないので、源氏の君まで失ったらどうしようもなく悲しいというようなことを申し上げました。
院に仕える人は足が地に着かないくらい途方にくれてます。
内裏からの使いの者は、雨脚よりも絶え間なく訪れます。
御門がたいそうご心配なさってるのを聞くと、すっかり恐縮して何とか強がって見せます。
左大臣も必死に方々駆けずり回り、毎日のように通ってきては、医療・祈祷などいろいろなことを施したおかげか、二十日あまりして、他の病気を併発することもなく回復したように見えました。
死穢のお籠りの明ける日もちょうどこの満月の夜で、すっかり御門に心配をかけてしまったのが心苦しくて、内裏の自分の宿直所の桐壺に顔を出したりします。
しばらくは、意に反して別の世界に蘇生してしまったかのような感じです。
九月二十日頃だったか、病気はすっかり良くなり、顔はすっかり痩せこけてしまったけど、かえってしっとりと落ち着いた色気を放ち、物思いに耽りがちで、声を上げて泣くばかりです。
それを見て咎める人もいて、「物の怪の病ではないのか」という人もいます。
右近を呼び寄せ、長閑な夕暮れにいろいろ雑談を交わし、
「やっぱ何か変なんだよな。
何で誰だかわからないように正体を隠していたんだろう。
本物のさすらいの
と言うと、
「そんなに最後まで隠し通そうとしていたわけではなかったんでしょう。
そのうち何でもないような名前を名乗ったと思います。
はじめから怪しげな身に覚えのないようなことだったので、正気のこととも思えないと言ってましたし、名前を隠しているのもその程度の気持ちだと言っては、どうせ気まぐれの暇潰しで来ているんだと鬱陶しく思ってるようでした。」
という返事でした。
「意図せずに根比べになってしまったな。
俺だって隠すつもりはなかったんだ。
ただ、こんな人目を避けて女のもとに通うなんて、慣れてないことだったからだ。
御門にはあれこれ説教されるし、いろいろとタブーの多い立場で、何でもないような冗談を言おうにもすぐにこまごまと問題にされたりして、いろいろうるさい環境にあって、たまたま夕顔の花を貰ったあの夕暮れ以来、妙に気にかかっていて、会いたい気持ちを抑えられなかったのも、こんな短く儚い約束をしようと思ったのも愛してしまったからで、それが今となっては辛くてしょうがない。
こんなにあっけなく終ってしまうとわかってたら、こんな心の底から愛しいと思うこともなかったのに。
なあ、もっと詳しく聞かせてくれ。
今となっては隠すこともないだろう。
初七日から四十九日までの七日ごとの仏事に仏画を奉納するにも、せめてそれが誰だったのか、心の中にだけでも留めておきたい。」
と聞けば、
「隠すことなんて何もありませんよ。
ただ、あの人が自分でずっと隠し通していたことを、亡くなったからといって勝手に喋っていいものかと思ってただけです。
両親は早く亡くなりました。
父親は三位中将と聞いてます。
娘のことをすごく可愛がって、良い婿をと思ってたのですが、自分の出世も思うように行かずに嘆いてるうちに若くして亡くなり、その後ちょっとしたきっかけでまだ少将だった頃の
そこもかなりひどい所で住んでられなくなって、山里にでも引っ越そうかと思っていた所、その方角が今年から天一神の
普通の人と違って心を固い殻で覆って、人に悩んでいる様子をみられるのも恥ずかしいと思ってか、人に接するにも心を開くこともなく、それはご覧になったとおりだと思います。」
と語り出し、
「そうだったのか。」
と納得し、ますます気の毒に思えてきます。
「幼い子供がいたがどこ行ったかわからなくなってしまったと
と尋ねますと、
「確かに。
一昨年の春に生まれた子がいました。
女の子で、とても可愛らしかったですよ。」
とのこと。
それを聞いて、
「一体どこにいるんだ?
人には里をわからせないようにして、この俺の所に引き取らせてくれ。
これといって残していったものがなく残念に思ってたところに、こんな素晴らしい形見があったなら、どんなに幸せなことか。」
と頼んでみます。
さらに、
「本当は
表向きも俺が妻としての約束を交わした人の子だし、頭の中将とも姻戚関係があるのだから、俺が育てることには何ら問題はないということを、育てている乳母などに別の理由をつけて連れて来てくれ。」
などと説得を試みます。
「それはきっとお喜びになることでしょう。
あの西京の乳母の所に置いておいたのでは心苦しいことでしょう。
ちゃんと育てられる人がいなくて、預けっぱなしなんです。」
との、快い返事です。
静かな夕暮れで空の景色はとても悲しげで、正面の
竹の植え込みの中に
「年はいくつだったんだい?
何かこの世の人でないかのような消えそうな感じに見えたし、それであまり長く生きられなかったのか。」
と言うと、
「数えで十九にはなってましたか。
あの人には亡くなったもう一人の乳母がおりまして、右近めはその残された子供でして、三位中将殿に可愛がられて、乳母が死んだあともそのまま屋敷においてくれて育てられた恩を思えば、どうやってこれからおめおめと生きてられましょうか。
こんなにもあの人が愛しいのが、悔しいくらいです。
何にしても自信なさそうにふるまってたあの人の性格ですが、それでも頼れる人と見て長年親しくさせていただき‥‥」
と答えます。
「そういう気弱そうな所が、女は可愛いんだ。
頭が良くて男に従おうとしない女は好きになれないね。
俺自身そんなに仕事人間ではないし真面目一辺倒な人間でもないし、女もただ優しくて、ちょっとドジな所があって人にすぐ騙されたりして、それでいて慎ましやかで、男の意向に従うところが可愛いんで、自分の意のままに育成して、始終一緒にいたい。」
などと言えば、
「そうした好みの人には、そう遠くない人だったと思うと、残念でなりません。」
と言って泣き出しました。
空が急に曇ってきて風も冷ややかになる折、ひどく悲しみに打ちひしがれたように考え込み、
「あの人の煙が雲になるのなら
暮れてく空も恋人のよう」
と一人つぶやくだけで、返歌はありません。
こんな時に右近は自分ではなく、あの人がいたならばと思い、胸がぎゅっと締め付けられるように悲しくなりました。
耳障りだった砧の音も、今では懐かしく思い出し、「八月九月まさに長夜」と白楽天の『夜砧を聞く』を朗読すると、横になりました。
*
あの
伊予の介と一緒に遠い任地に下るとなると、さすがに心細いので、本当に忘れてしまったのかと試そうと、手紙を書きます。
《ご病気との知らせを承り、心痛に耐えぬ所ですが、口に出してまではどうしても、
訪わぬのをなぜかも問わず時は過ぎ
一体どれほど悩んだことか
本当に益田の池る甲斐なしですね。》
今までなかったことに、この人も好きだったことを急に思い出します。
《我ぞます田のいけるかひなきだなんて、誰がわざわざ言うことですか。
空蝉の世がつらいのは知ってたが
今の言葉を生きる力に
空しいことですが。》
と手もわなわなと震えながら、乱れた文字で書くのも、また格別の書となります。
今も猶あの抜け殻を忘れてないのは困ったことだけど、笑っちゃうようなことでもあります。
こんなふうに一見全然憎しみなどないように文を交わしたりはするけど、実際に親しくなろうなどとは思うべくもなく、取るに足らない女と思われることなく終りにしたいというのが本音でした。
もう一人の女の方は、蔵人の少将が通ってるという話です。
「やべー、どう思ってるかなー」と少将の心中が気の毒に思えるし、それでもその人の様子が気になってしょうがないので、あの弟君に「死の淵から蘇ってなお思う心をわかってください」と伝言を託します。
《ほのかでも軒端の荻に結ぶ露
なければ何の口実もない》
背の高い荻だけに、いくら「密かに」と言っても、間違って少将に見られて自分だということがばれても、それでも罪を許してくれると思う心の驕りがいやらしいところです。
少将のいないときに手紙を見せると、今さら困ったことだと思いながらも、こんなふうに思い出してくれたことは満更でもなく、返歌はすぐに返さなくてはいけないからと言い訳しつつも返事の手紙を持たせます。
《ほのめかす風は冷たく荻の葉の
下半分は霜に凍てつく》
字が下手なのをごまかして変に格好つけて書いているあたり、品がありません。
夜の薄明かりで見た顔を思い出します。
「結局仲良くなることもなかったけど、向こう側に座ってたあの人は、俺とのことが知られたからといって急に嫌われて離縁されるなんてこともないだろう。
周りに頓着せずに自信満々にはっちゃけた感じだったな。」
と思い出すと、やはり憎めません。
こうして懲りることなく、これからも心の赴くままにスキャンダルをくり返して行ことでしょう。
*
例の人の四十九日、内密に比叡の法華堂で、簡略化せず、お布施として装束を施すことから始めて、しかるべき金銀もきちんと与えて、お経を上げさせました。
経典や仏像の装飾までおろそかにはしません。
惟光の兄の阿闍梨は大変尊い人で、二つとない見事な法要となりました。
源氏の学問の師匠で親しくしている
特に名前を出さず、愛しく思っていた人がお亡くなりになったその後を阿弥陀仏ににゆだねる由を、源氏自身が悲しげに綴って差し出せば、
「これで十分で何も書き加えることはありません。」
と文章博士は答えます。
「どのような方だったのでしょうか。
その人とわからなくても、これほどまでに悲しませるところを見るに、本当に運命の人だったのでしょう。」
と慰めます。
密かに整えさせた装束の袴を持ってこさせて、
「泣く泣くも今日は自分で結う紐を
生まれ変わって解く日もあるか」
四十九日までは、まだ魂が
頭の
あの五条の夕顔の家では、どこへ行ったのかと動揺が広がったものの、そのままどこを探していいかもわからず、右近も帰ってこないので、不可解な事件としてみんなで心配しあってました。
確実な情報ではないが、源氏の噂を聞いてそのせいじゃないかと囁きあい、惟光に問いただしてはみるものの、一切関係がないかのようにそっけなく言い放って、今までどおり女目当てで通ってくるので、完全に五里霧中で、きっと受領のさんざん遊び歩いてるどら息子か何かが頭の中将の怒りを恐れて、どこぞの領国に連れ去ったのではないかという話になってったようです。
この家の主人は西京の乳母の息子でした。
乳母には三人の子がいたのですが、右近は別の乳母の子だったため差別して消息を明らかにしないのだと、泣いて恋しがりました。
右近もまた、うるさく詰問されると思って戻ってこないし、源氏の君も今さら説明してもしょうがないと秘密にしているので、小さな娘がどうなったかも聞かされぬまま、全員行方不明ということでどうしようもなく時が過ぎて行きました。
源氏の君は、せめて夢にでも会いたいと思っていた所、この法事を行なった次の夜に見た夢に、ぼんやりとあの例の事件の起きた屋敷がそのままあって、そこに現われた女もあの時に見たのと同じだったので、空家に住む幽霊が俺に惚れてこんなことになったのだと結論するのも空恐ろしいことです。
伊予の
女房たちも一緒に行くということで、餞別も格別な心遣いを以てして贈りました。
それとは別に、個人的な餞別も特別に贈りまして、繊細で美しい櫛や扇もたくさん用意し、道祖神に捧げる幣などもわざとらしく添えて、例の
《逢えるまであなたの代わりにしていたら
すっかり袖が変色しました》
いろいろ言うべきこともあるけど面倒なので省略。
源氏の君からのお使いの者を帰したあと、弟君に小袿の返歌をのみ託しました。
《今は蝉も衣更えして夏服が
返ってきても泣くばかりです》
源氏の君は、いくら思っても妙に並外れた強情さで離れ離れになってしまったなと、しみじみと思いました。
今日から冬になる日にふさわしく、にわかに時雨れてきて、空模様もひどく悲しそうです。
それを眺めながら物思いに耽るうちに日が暮れて行くと、
「この前も今日も別れて道二つ
どちらへも行けず秋は終った」
それにしても、誰にも言えない隠し事は苦しいものだと思い知ったことでしょう。
このようにくだくだと語ってきたことは、隠れてこっそりやっているのにしてもさすがにお気の毒なことなので、皆漏らさずにおいたことだったのですが、大抵の場合、御門の皇子だからといって見る人も欠点に目をつぶって褒め讃えがちなので、いかにも話を作ってるみたいに受け取る人もいるので、あえて記したものです。
あまりに無遠慮に語ってしまった罪は免れません。
「伊予の介の女は軒端荻ってことでいいのかな。」
「荻というから、任地で潮風に吹かれて髪が脱色してたりして。」
「色白で脱色髪。」
「執着されなくて良かった。」
「執着されると殺される。」
「ヨシコ‥‥」
「よかった。誰にも執心されなくて。」
「それが一番。飼い殺される。」
「軒端荻、案外勝ち組だったりして。」
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