第10話

顔を上げた少年は僕の目を真っ直ぐにじっと見つめていた。まるで吸い込まれるようなその瞳は決して睨んでいる訳では無いのに、逸らしたくても逸らせないほどの力強さで僕を捉えて離さない。何とも言いようの無い、恐怖すら感じる視線に僕の身体は震えが止まらなかった。


少年の顔は間違いなく『少年』だった頃の『僕』だった。



「…空が、見たくて、…どうしても、どうしても見たくて、…ここを逃げ出しました」


あれ程まで切望した少年の言葉に僕は碌な反応すら出来ず、ゆっくりと気道を塞がれるような感覚に陥った。混乱と息苦しさが渦巻く中、次第に思考が停止していき、机上に置かれた自身の手は氷のように冷えカタカタと震え続ける。僕はまるでその震えに抗うように強く拳を握ってみたが、冷たい手が更に冷たくなっただけだった。


「…ごめんなさい」


少年はゆっくりと頭を下げ謝罪をする。俯いたままの頃とは違う、強い意思を持ったその姿を見て、僕は少年にかけるべき言葉を必死に探した。だがどれだけ探しても見つからなくて、僕はただただ震える手を痛いほど握りしめる。冷たさを増す頼りない自分の手を恨みながら、僕は頭を下げ続ける少年をじっと見つめていた。



それから再び長い沈黙の時間が訪れる。少年が幼き頃の自分に酷似している衝撃に支配され、どんな言葉を紡げば良いのか分からず、頭の中が言いようの無い不安や疑問で混沌としていた。そしてその受け入れ難い現実は、僕の震えをどんどんと増大させていく。


「…大丈夫ですか?」


ローザは少年を見つめたまま怯えたように震える僕へそう声をかける。聞き慣れたその声色にふと我に帰り、反射的に視線を彼女へ移せば、いつもの凛とした雰囲気とは違う、どこか動揺したような弱々しい表情を浮かべていた。僕はそんなローザを見て、思わず彼女がアンドロイドであることを忘れてしまいそうになる。

思い返せば彼女は常に僕の傍らにいて、その存在は決して欠かすことの出来ない大きなものとなっていた。欠如し隠れた記憶の中、果たして彼女はいつから『今の僕』と一緒にいただろうか。仕事を始めた頃であったか。では、いつから僕はこの仕事を始めていたのか。


「…僕は…何も知らないんだな…」


考えたこともなかった自分の過去。いや、もしかしたら考えることから逃げていたのかもしれない。呆然としつつも徐々に脳が働き始めた僕の手は、段々と温度を取り戻し震えも治まってきた。視線の先には相変わらず頭を下げたまま言葉を待つ少年の姿がある。僕は彼を見つめながら、地下で見たクローン化実験の概要を思い浮かべた。


「(……特定の人物をクローン化し、各個体を複数の時間軸別アンドロイドに転生させることで不具合が生じるか否か、か…)」


朧げな点と点は残酷な線となり、僕を絶望へと追いやっていく。まさか自分があの馬鹿げた実験の被験者だったなんてな、と嘲笑しながら深く息を吐き真っ暗な天井を見上げた。視界を埋め尽くす見慣れた深い漆黒に、僕はずっと抱えていた煩わしさが吸い込まれていくような感覚に陥る。


そうか、そうしよう。

ずっと聞きたかったことを聞こう。

『少年』だった頃の『僕』に。



「…きみが、」


僕は少年へ視線を戻し長い沈黙を破った。やっとの思いで紡いだ言葉は妙に落ち付いていて、まるで静かな水面へゆっくりと小石を落としていくかのように、自分の声が暗闇へと広がっていく。


「…きみが…いや…、ぼくが…」


自由とは無縁の被験者である僕と、自由な世界にまだ手が届いていた少年の頃の僕。自分自身を羨むだなんて可笑しな話だと、思わずふっと笑みが溢れた。


僕は少年だった頃の僕に問うのだ。大人の僕がずっと焦がれていた世界を。



「…僕が、見た空は、どうだった?」


少年はその声に反応し、ゆっくりと顔を上げて僕をじっと見つめる。自分の意思を宿す力強いその瞳を、心の底から羨ましく思った。いつからであろうか、自分の言動が自分自身のものでなくなったのは。いつからであろうか、僕が僕であることを諦めたのは。


少年は僕を見つめながら、少し照れたように優しくにこりと微笑んだ。


「自由でした」


それはとても少年らしい、眩しい笑顔だった。

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