第9話
翌日、僕は普段と同じように暗く長い廊下を歩き仕事場へ向かっていた。昨日、突如として襲った自分の異変に酷く怯えながら、まるでいつも通りを一つ一つ確かめるかのように歩みを進める。心のどこかで渦巻く強い恐怖感は、うんざりしていたはずの変わらぬ日常を取り戻そうと必死だった。
「(…大丈夫、今日はきっといつも通りだ)」
僕はそう暗示をかけるように目を瞑り、目前に聳える重厚な扉の前で深く息を吐く。
繰り返す日常に嫌気が差し、気付いた頃にはまるで変化を求めるかのように外の世界へ想いを馳せていた。今日の天気は眩しいくらいの晴天だろうか、それとも一面を覆うほどの雨だろうか。空の色は清々しい群青だろうか、全てを隠すような漆黒だろうか。そして、外の人々はどんな出来事に嬉々とし、何があって悲哀するのだろうか。僕はそんなことを何度も想像しては、自らの抱く閉塞感を再認識していた。まるで、その不自由さを求めているかのように。
「…そう、ここは、窓の一つもないから分からないんだ」
そう静かに呟いてから僕は重々しい扉を開き、相も変わらず暗闇に支配された仕事場へと足を踏み入れる。奪われた視界の中、静寂に響き渡る自身の足音を耳にしながら歩みを進めれば、次第に現れる大袈裟なデスク。そしてそれに付随するように置かれた立派な造りのイスに腰掛ければ、まるで合図を受けたかのようにカツカツとローザの均一な足音が響き始める。いつも通りのその無機質な音色は、不可思議に歪んだ僕の日常を取り戻してくれるように聞こえた。
「(…大丈夫だ、なにも変わらない)」
しばらくすると普段通りソートを手にしたローザが現れ、上品な笑みを浮かべながら、たわいの無い話を始める。僕はそんな彼女に笑顔で相槌を打ちながらモニターを起動させ、今日の担当件数を確認した。いつもならうんざりするその画面が、今は何だか心地よい。
「……不変をこんなにも切望するとはね」
「如何されましたか?」
「あぁ、ごめん、ただの独り言だよ」
「それは珍しい」
「ははは、君にそう言われると何だか気恥ずかしいな」
「ふふ、では宜しければ話して下さいませんか?」
「先程の続きを?」
「ええ、幸い私は独り言の一部を聞いていますから」
「成る程、確かに話せば独り言では無くなるね」
「仰る通りです」
ローザはそう言って微笑むと、まるで僕の言葉を待つようにこちらへ視線を向ける。昨日の出来事を話すべきだろうかと考えるが、彼女の心配事を増やしてしまう結果になると思い却下した。
「わざわざ君に聞いてもらうような話では無いのだけれど」
「構いませんわ」
「そうかい?」
「ええ」
「なんと言うか…自分自身というものは、案外知らないことが多いというか…理解し難いものだなと思って」
「自分自身、ですか?」
「はは、突然変なことを言ってごめん」
ローザの困惑したような表情に、僕は少し後悔しながら忘れてくれと笑って誤魔化した。だが、ローザは真剣な眼差しでじっと僕を見つめる。まるで何かを見透かすようなその視線は、アンドロイドの彼女が持ち合わせている筈のない秘めたる感情のようなものを感じた。
「…ご安心下さい、私は知っていますよ」
「僕のことをかい?」
「ふふ、幼い頃からずっと見てきましたから」
「君が?」
「ええ」
「そう…残念ながら幼少期の記憶が無くてね」
「勿論、承知しておりますわ」
ローザはそう言って優しく微笑む。欠落した記憶の中にも彼女がいることは予想外であったが、僕はその事実を素直に嬉しく思った。
「ずっと傍にいてくれたんだね、ありがとう」
「いえ、私はただ約束を守っているだけです」
「約束?」
「ええ、幼い頃にした約束です」
「どんな約束なんだい?」
「ふふ、秘密です」
「それは残念」
ローザは僕の幼少期を思い返しながら、何処か楽しそうにこちらを見つめる。その眼差しが何だか温かくて、僕は小さく微笑みながらモニターへ視線を移した。表示された罪人達の情報に目を通せば、嫌気が差すような内容ばかりが視界の隅々までを埋め尽くす。僕はそんな文字の羅列に溜息を吐きながらも、最後に予定されている少年を思い浮かべつつローザへ視線を送った。
「では、そろそろはじめようか」
「はい」
そう言うと彼女は足音を響かせながら暗闇へと消えて行った。これまで幾度も繰り返されたこの光景に、僕は心の内で安堵しつつ今日も淡々と案件を処理していく。怒鳴る者、号泣する者、無表情な者…様々な罪人達が己の主張を続けていたが、僕自身が導き出した結果を覆すことはなかった。そしてあっという間に最後の案件が訪れ、僕は真っ暗な天井を見上げる。
「(…次は…少年か…)」
ゆっくりと扉の開く音が響き、しばらくすると簡素なイスの元へローザと看守に連れられた少年が現れた。暗闇の中、スポットライトが当たるそのイスの前で、少年は相変わらず俯いている。微動だにしないその様子に僕がイスへ座るよう促すと、少年は静かに腰を下ろした。
「昨日は突然悪かったね」
「………」
「体調は問題無いかな」
「………」
相変わらず少年は俯き沈黙を続けた。ふと昨日見たコードだらけの姿が脳裏を過り僕は胸が痛くなる。何故あの地下空間に拘束されていたのだろうか。聞きたいことは山ほどあるというのに、きっと知り得ないのだろうという諦めにも似た感情が僕を支配していた。
「そろそろ君の名前を教えてくれるかい」
「………」
「では何か話せることはあるかな」
「………」
この様子では今日も口を開かないかと、僕はがっかりするような表情を浮かべてローザを見る。すると彼女も困ったようにそっと苦笑した。勿論こうなることは想定済みであるし、頑固な少年に頑固な自分だ、もともと長期戦は覚悟している。
「(…これは根比べだな)」
僕は深く息を吐き、背もたれに身を委ねながら目を瞑った。そしてこれ以上の問い掛けは無意味だと判断し、少しの沈黙を置いてから、佇む看守へ再び勾留指示を出そうと姿勢を正す。だがその時、突如として暗闇に小さく微かな声が響いた。
「………ま、…す」
僅かに鼓膜を揺らしたか細いその声は、間違いなく少年のものだった。終始俯いたままの少年が、その顔を少し上げ声を発したその事実に僕は堪らず鼓動が早くなる。表情までは伺えないものの、つむじばかりが見えていた少年の顔が少しライトに照らされていた。僕は逸る気持ちを抑えて、もう一度少年へ声をかける。
「すまない、もう一度良いかな」
僕は少年が垣間見せた譲歩に胸が熱くなっていた。もう一度なんて言ったら、少年は再び口を閉ざしてしまうかもしれない。でも僕は不意に現れたそのチャンスに懇願するしかなかった。
「………………」
「上手く聞き取れなくてね」
「………………」
僕の問いかけに少年は俯いたまま沈黙を続ける。その姿はどこか迷っているように見て取れたが、僕はただ真っ直ぐ見つめて、その沈黙が破られるのを待った。ローザも看守も困惑した表情を浮かべているが、僕にはそうすることしか出来ない。
「……………」
「……………」
沈黙は時に有益だと、何故だかそう感じた。少年は『沈黙』という何かを届けようとしているのではないかと。その想いで支配された途端、今まで意味のない時間だと感じていたものが、とてつもなく意味を成すものに見えた。
「……………」
「……………」
「……………」
「……………」
果たしてどれほどの時間が経過しただろうか。まるで心理戦をしているような僕と少年の沈黙が続く。普段であれば既に諦め退室を命じている所だが、少年が垣間見せた僅かな心境の変化に僕は引き下がれずにいた。
「…………」
「…………が……す」
「……ん?」
しばらくしてその長い沈黙を破ったのは、少年の微かな声だった。まるで囁くように放たれた言葉に、僕はすかさず反応して聞き返す。すると少年は俯いたままだった顔をゆっくりと上げながら再び口を開いた。
「…ぼくは、……空を、見たことが…あります」
少年の言葉が暗闇に響き渡り、僕は途端に息が止まりそうになった。
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