第8話

僕は動揺と同時に酷く痛む胸を必死に隠して、生気の感じられないその姿をガラス越しにじっと見つめる。そして気が付けば無意味と理解しながらも、透明な壁に映る弱々しく冷たそうなその白い肌にそっと触れていた。


「……やぁ」

「………」

「気分はどうだい?」

「………」

「急に来てしまって悪いね」


そう声をかけると、突然の訪問に驚いたのか少年は僅かに肩を揺らす。とは言え、顔を俯かせたままの姿勢を崩すことは無かった。


「寒くはないかい?」

「…………」

「僕は少し肌寒く感じるけれど…」

「………」

「では痛いところは?」

「…………」

「こんな所にずっといては、身体を痛めるだろう」

「…………」


そういくら声をかけようとも、たとえ何処かから苦しそうに呻く声が聞こえようとも、少年は俯いたまま微動だにしない。思い返せば初めて対面した時から、一方的に発している僕の言葉はただ少年の鼓膜を揺らすだけで、きっとその小さな心には届いていないのだろう。そんな印象が脳裏に強く残っていた。


「(………いや、きっとこれまでも)」


幾度となく対峙してきた罪人者達の心に、僕の言葉はどう聞こえていたのだろうか。その罪の過程にどれだけ壮絶な背景があろうとも、常に真実は正と邪に分けられ、その結果は揺るぎないものである。そうやって一切の温情を排除してきた僕の冷淡な言葉は、彼らにとってまるで凶器であっただろうか。


「(…恨まれるのは慣れている)」


罪人の鋭い瞳から、憎悪を凝縮した刺すような視線をこれまで幾度となく向けられてきた。それでも僕はこの先も、規則を遵守し白黒つけることこそが美学だと、その在り方が揺るぎない白であると信じ続けるのだろう。


「(僕が黒になることは、絶対にあってはならない)」


たとえ自身の意見がそうで無いとしても、その思考が規則から逸脱したものであれば、そんなものは不要な持論だと判断し、これまで幾度も自分を殺してきた。

そうやって機械的に仕事をこなす僕の声は、果たして罪人達にどれほど届いていたのだろうか。言葉は心に届いてやっと意味を持つ。ただ鼓膜を揺らすだけの言葉など、何の意味も成さない雑音だ。


「(……僕は…僕という人間は…)」


そう考えた途端、僕は今までの自分という存在が無意味であるような、そんな言いようのない強い虚無感に襲われる。そして次第に身体の中が空洞になり、脳内が真っ白に染められていくような、そんな感覚が広がっていった。

僕は水面のように揺れる視界の中、再度ガラスの向こうで項垂れる少年を見つめる。外界からの刺激を一切受け入れないような、まるで自分自身を透明な殻の中に閉じ込めているような、そんな小さな姿に胸を痛めた。


「………きみ…は、」


そう口を開いた途端、僕は少年へかける言葉が一切見つからなくなった。つい先程まで沢山の言葉を準備していたはずなのに、届けようと意識した瞬間、僕の中にはまるでガラクタのような言葉だけが無造作に転がっていた。


「(…僕は…一体…少年の何を知りたいのだろうか…)」


沈黙の中、少年を呼びかけた言葉だけが当ても無く宙に浮き、その続きが連結されるのを待っている。だが僕は合致するピースを一向に見つけられないまま、次第に思考が停止していく感覚に陥った。そして気付けば、表情を伺うことすら儘ならない少年から不思議と目が離せなくなっていく。まるでその小さな存在にゆっくりと吸い込まれ、自分自身が理性から乖離していくような、そんな奇妙な錯覚を覚えた。


「……きみ…は、」


僕は少年を見つめたまま、うわごとを発するかのようにポツリと言葉を溢す。潜在している精神に全てを支配されたまま、ただひたすらにこの身を委ねる術しか持ち合わせていなかった。



「…きみは、…空を見たことが…あるかい?」



そう静かに溢した僕の言葉は、俯いたままの少年をほんの少しだけ動かしたように感じた。その非常に小さくて大きな意味を持つ反応は、僕をはっと我に帰させる。


「あ…いや、すまないね…忘れてくれ」


それから再び訪れた沈黙の中、結局僕は少年にかける言葉が見つからず、言いようのない不安からとてつもなく逃げ出したくなって、そっとその場を後にした。

足早に来た道を戻り、次々とすれ違う看守達の声も聞こえないふりをして、ただひたすらに自室を目指す。


「(…なんだ…この騒つく心情は…)」


僕はまるで追われるようにエレベーターを乗り継ぎ、幾度となく訪れる暗い廊下を一心不乱に突き進む。やけに長く感じる道中に不安を募らせながらやっとの思いで自室に辿り着けば、途端に全身から力が抜け膝から崩れ落ちた。必死に震える手を握り締め自身の異変を押さえつければ、今度は次第に呼吸が苦しくなり、視界がどんどんと霞んでいく。そしてあっという間に震えが全身へと広がり、とうとう呼吸困難へと陥った僕は、まるで現実逃避するかのように瞳を強く瞑り何度も深呼吸した。すると徐々に全身の感覚が鈍くなり、ゆっくりと意識が遠のいていくのを感じる。視界が暗闇に染まる中、瞳の裏に映る少年が少しこちらを向いた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る