第8話 焦天に見た夢

「ほら、これで拭くと良い」

ローブの中から布を持った手が現れ、こちらに差し出される。

「あっ、ありがとうございます……」

私は布を受けとると、入念に両手を拭いた。少しでも水気があれば衣装が濡れてしまう。そんな事は絶対に避けなければならない。

儀式は万全な状態で行われなければ、後世に関わる。

私がそんな事を思いながら、手を拭いていると、ローブを纏った男はこちらを凝視しながら、口を開いた。

「お前が生け贄か?」

私は反射的に顔を上げて、男の方を見る。

生け贄。確かに私は生け贄だ。今日、女神様に捧げられる供物だ。

だけど、その事は村の人達しか知らないはずだ。

こんなぶらりと立ちよったという風な人が知れる事じゃない。

「あの…何で知って…」

「白は山岳民だけでなく、世界共通で純粋、潔白、善、正義、正統などを意味する色だ。神が口にするものに邪なものや不純なものが混ざっていてはいけない。だから生け贄には白いものが選ばれる。そして、白くないものは白くする。今のお前のようにな」

男の返事に私は、ただただ圧倒されてしまった。そんな事を知ってるだなんて、凄い人だ。一体どんな人生を歩んできたと言うんだ?

私はそう思うと、男の全身を舐めるように見やる。

といっても、男の姿はローブに邪魔されて全体像を把握する事は叶わない。

男の頭からくるぶしまでを隠す長い茶色いローブは一体何で作られたものなのだろう。

雨露あまつゆを弾くには持って来いだろうが、あまりにも長すぎやしないだろうか。

それに、あの履き物は何だろう。布靴にしては何だが厚みがあるような………

私がそんな風に男のあちこちを見つめている間、私を見下ろす両眼は僅かな揺らぎも見せていなかった。

「お前は……生け贄になる事を望んでいるのか?」

男は私を見下ろしながらそう言った。

「え…」

「お前が望んで生け贄に志願したのかと聞いておるのだ。聞けば、今年は子山羊が産まれなかったそうではないか。お前はその代わりという訳だろう?」

代わり………確かにそうだ。

私は子山羊が産まれなかったから、生け贄になったのだ。

「え、えっと……自ら望んだ訳ではないですが、私は罪人の子ですから生け贄になる事で両親の罪も、私の罪も赦していただこうと思いまして」

「罪?何か盗みでも働いたのか?」

私の返答に、男はさらに疑問をぶつける。

そんなに引っ掛かる事でもあったのだろうか。

「いえ、私の家は地主様の土地を耕しておりました。しかし、父がお金を置いて居なくなり、母は私を連れて村を出ようとしましたが、捕まりました。そして、母は売られ、私は罪人の子として生け贄に捧げられる事となったのです」

私は淡々と事の経緯いきさつを話した。

私は、この事についてはもう諦めている。

父も、母も、そして自分も、もうこの世には居られないのだ。遅かれ、早かれ、あの世へ行くのだ。

(まぁ、上がるか落ちるかは分からないけど………)

私が話し終わると、男の眼が細くなったように感じた。

私はその眼を見た瞬間、身体が動かなくなるような感覚がした。

私は驚いて、全身から冷や汗が噴き出しながら腕を動かすと、思い通りに動かす事が出来た。

(何だ、良かったぁ~………でも、一体なんだったの……?)

男の眼を見た瞬間、途端に私の身体が固まり、動かない感覚に襲われたのだ。

何か大きく途轍もない力によって、身体が押さえ付けられているような、そんな恐怖が瞬間的に私の心を満たしては溢れ、何も考えられなかった。

驚きと恐怖を顔に貼り付けながら、腕を動かし、手を握っては開く事を繰り返していた私に男は静かに言葉をかけた。

「お前は父と母を愛していたか?」

愛。それはまだ私には分からない感情だった。

けれども、私は考える間を必要としなかった。

「愛していました。いえ、今も愛しています」

私ははっきりと自身たっぷりにそう言った。

そこに、何も間違いや嘘偽りなどは無い。ただ、私は父と母を愛していた。それだけだ。

すると、男は少しだけ顔をしかめたようだった。といっても、ローブの影に隠れた顔の表情は分からない。

だが、ローブが隠す表情が闇の中でそんな風に動いてしわを作ったように思えたのだ。

「ではなぜお前は父母を罪人呼ばわりする。お前は父母を愛しているのだろう。なぜその罪が誤りであると思わぬのだ?」

早口で、男はそう言葉を浴びせた。

心なしかそこには怒気が含まれているようだった。

「しかし、耕せと命じられた土地を捨てて逃げたのです。誓約せいやくを違様に、罪人となってしまうのです」

「誓約だぁ?!誓約がなんだ?!お前の父母は日々を必死に生きていただろう!そうであるというのに、たかだか人と人の約束を違えたくらいで罪人とは何事だ!」

男は前のめりになって、私を睨み付ける。

まるで先程とは人が変わったように、感情を露にして、私に向かって叫ぶように言葉をぶつける。

「貴様の父と母はなぜ小作人に落ちた?!」

「えっ……飢饉が起きた時に先祖が自分の土地を地主様に売ったとか何とか…そのままその売った土地を耕す小作人になったそうで……」

「それは飢饉の際に富める者が、貧する者の財を奪う典型的な手口だ!」

「でも売ってしまったのは事実ですし……」

いかに暴れようが、わめこうが、過去を変える事は出来ない。

仕方がないと受け入れるしかないのだ。それに、こんな土壇場になって逃げ出す事が出来る訳がない。

父が消えた事を察して、母を待ち伏せする事を思い付くくらい地主様は頭が良いのだ。

私の逃亡を予期できないはずが無い。

どう足掻こうが、何をしようが、この山脈がひっくり返るような事が無い限り、私は今日生け贄になって死ぬ事は変わらないのだ。

「お前はそれで良いのか!」

絶望に頭をやられている私に、男は言った。

「お前はそれで良いのか!そんな風に全てを奪われて、父母との会えずにこんなところで死ぬのか?!それがお前の人生なのか?!」

男は喚きが私の思考を揺らす。

(どうしろって言うのよ……何も出来ないくせに偉そうに……)

自分と何の関わりも無い私を気遣ってくれるのもありがたくとも何ともない。

私は生け贄になって、少なくとも私と両親の罪を消してもらって、両親が死んだ後、天界で再会できるようにしたいだけなのだ。

それくらいの事しか私には出来ない。

それ以外、私に何が出来るというのだ。私は子供で力も弱ければ知識もない。

そんな存在がこの世のことわりに逆らえる訳がない。

「どうするもこうするも、私は生け贄になって、罪を消してもらうだけです。それ以外、私には何も出来ませんし、する気もありません」

私はきっぱりとそう言うと、男の横を通って地主様の家へと踵を返す。

その背中に男は言葉を投げ掛けた。

「生きたくはないのか?」

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ、ザッ………

私は思わず歩みを止めてしまった。

生きたい?生きたいかだって?

そんな事知らない。考えた事だって無い。だって、私は小作人の子だ。

朝から晩まで働く両親の代わりに家を切り盛りするのが私の使命だ。その両親が居なくなり、家も失った今、生きてどこへ行けと言うのだ。

「生きたいと望むなら……お前に微笑みもしない女神のために死にたくないなら……せいを叫べ。さすれば、救われる」

男はなおも続けてそう告げた。

背後から聞こえる男からの言葉は私にとって、全くの未知でしかなかった。

私は死を知らない。せいを知らない。

生きるとは何かなど、誰が教えてくれるというのだ。

死ぬというのは言葉の響きからして冷たい。その事を考えると、お腹の当たりがきゅっと締め付けられるような感覚に襲われ、夜の風に吹かれたかのように冷たくなる。

だから死と言うものはきっと、怖いのだろうと子供ながらに思う事しか出来ない。

(なら、反対にせいとは温かいもの………?)

温もり。それはベッドの中で父と母ががくれるもの。二人に挟まれて眠る時が、私にとって一番幸せな時だった。

(それがせいなの………?)

そう考えれば、死とは冷たい吹雪の中で一人で眠りにつくようなものだろうか。

そんなものは………嫌だ。

絶対に嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!…………

私の心の中の何かが弾けた。

急に呼吸は荒くなり、身体が熱くなる。額を汗が伝り、心臓の鼓動が早くなっているのが自分でも分かった。

(嫌だ!一人は嫌だ!死んだら、本当に迎えが来てくれるの?聖鳥が私を天界に連れていってくれるの?それとも、悪鬼に地獄に連れて行かれてしまうの?ねぇ!どうなるの!ねぇ!ねぇ!)

私は心の中で叫んだ。今まで考えもしなかった事が、疑問に思った事すらなかった事が溢れでできては止まらない。

(誰か本当の事を教えて。誰でも良いから本当の……本当の事を………)

私は咄嗟に後ろを振り返った。

あの男なら……あのローブを纏った男の人なら分かるはずだ。あの人は普通じゃない。きっと、何か他の人とは違う何かを………

そこまで考えた瞬間、私の思考回路の動きは止まった。

井戸の側にはもう、誰も居なかった。

冷たくも、温かくもない夕方の風がただそこに吹いていた。

(嘘だ……確かにあそこに居たのに……)

私はどうすれば良いんだろう。

逃げるべき?それとも、生け贄になって皆のために捧げられて、罪を消してもらって、天界に行ける事を信じるべき?

答えは出なかった。出るはずも無かった。

私は小作人の子で、罪人で、生け贄なのだから、頭が良いはずがない。

(私に………未来は無い……)

さっきまで身体を巡っていた熱が、今では嘘のように冷めていた。

もうこの時には、私は身体中から噴き出した汗が衣装にシミを作ってしまったかもしれないという不安に陥っていた。

私は男の見せた一時の夢から、もう覚めてしまったのだった。

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