第7話 井戸端で

井戸に備え付けられている滑車には、おけが付けられたロープが付けられている。

これを使えば、井戸水を簡単に手に入れる事が出来るのだが、それは大人が使うという前提に立った話だ。

しかし、幼い子供にはそんな事は分からなかった白装束を汚すといけないという事に重点を置いた思考回路は、井戸水をむ事は出来ないと、危険信号を出す事はなかったのである。

ひとえに、経験不足から来る過信、慢心の類いと言えるだろうが、子供の澄みきった心にはそんな感情は見当たらなかった。

彼女はただ、言い付けを守ろうとしただけだったのだ。




外に出ると、冷たい外気から身を守ってくれる白装束が軽く風になびいて、布が波のように盛り上がっては消えていく。

夕焼けが照らされた山の木々が燃えるように輝き、最後の抵抗だとでも言わんばかりに、昼間の日差しと同じくらいの熱さを浴びせてくる。

収穫祭の日、太陽が完全に落ちればそれは闇の精霊や魔物の時間が訪れると言う。

彼らは私達人間をたぶらかし、堕落させようとしてくるのだそうで、供物を捧げる事で、女神様に今後も守ってもらえるようにするのだそうだ。

この辺の事は良くは知らない。これも全て聞きかじった話だ。

なにぶん、私は小作人の子だ。朝から晩まで休む暇も無く、働き通しの両親と顔を合わせる機会など夕食時ぐらいのもので、それが済むと二人とも早々に眠ってしまった。

子守唄も聞いた事の無い私が、女神様だとか、闇の精霊だとか、そんなものの事を知っているはずもない。

(この夕日も、見るのは最後なのか……)

私はそんな事を思いながら、井戸へと歩いていく。

井戸の石積みで出来た部分に、片方の桶が置いてあり、もう片方は井戸の中だ。

桶についているひもを引けば、井戸水の入った桶を引き上げる事が出来るという訳だ。

た(この井戸から水を汲むのも今日で、最初で最後なのか……)

いつも、お父さんか、お母さんかが汲んできた水を使って、食器を洗ったり、洗濯物を洗ったりしていた。

つい最近までずっとやっていた私の仕事。お父さんが畑仕事を、お母さんが地主様の屋敷でお給仕をしている時に一人で家を切り盛りしたあの日々。

(なんだが懐かしいな……つい、この間までやってたのに……)

何故だろう。何でこんな気持ちになるんだろう。

もう、この世界から旅立つというのに。気持ちの整理は付けたはずなのに…………

私は心をし殺して、滑車の紐を引く。

「…うっ……くっ………」

腕に力を込めて、精一杯紐を引いているのに、全く滑車は動かない。

私の力が弱すぎて、井戸水の入った桶が持ち上がらないのだ。

「うっ………ぐぅぅ……」

歯を食い縛り、身体を後ろに傾けて、どうにかこうにか、井戸水を汲もうとするが、滑車はびくともしない。

キュ…

ほんの少し滑車が動いた。

(おっ、行け…っ?!)

私が期待に胸を膨らませた途端、逆に、私の身体が持っていかれそうになって、石積みの部分に身体をもろにぶつけてしまった。

「いった……いったぁ~……」

つんのめって、最初にぶつかった胸の辺りから痛みが走る。

手で胸の辺りを抑えても、痛みが引いていかない。

なんだが、現実を叩きつけられた気分だ。

お前なんか必要ない。お前なんか要らない。だからせめて、生け贄になって、皆のために死んでくれ。

誰ともなしに、そんな事を言われた気がして、お腹の辺りが冷たくなる。

(あぁ、要らないんだ……私なんか……だから……死んで良いんだ。死んで、女神様に捧げられて……そうしたら、皆の事を女神様が守ってくれる………)

頭の中でそう思った瞬間、私はなんだが悲しかった。その気持ちが悲しいという気持ちなのかは分からない。

けれども、なんだが、怖いようで、苦しいようで、なんとも言えなくて………この気持ちは……何………?

「手伝ってやろうか?」

そんな事を思っていた時だった。

後ろから聞きなれない声がした。

振り返ると、そこには、茶色いローブを身に纏った男の人がいた。

「え…」

「井戸水…汲みたいんだろ?」

「あ……はい………」

男の人は近づくや否や、紐を引いて井戸水の入った桶を持ち上げると、石積みの部分に置く。

「ほら」

「あ……ありがとう…ございます…」

私はぎこちなく謝意を表すと、桶の中に手を入れて、手に付いた涙を落とした。

これで良し。後は何か拭くもの………

ここでやっと、気付いた。

濡れた手を拭くための布を用意していなかったのだ。それに、布があれば涙も拭いてしまえた。突発的な発想で、手を洗ったは良いものの、その後の事を何も考えていなかった。

(あああ……あぁ………)

ポタポタと垂れては落ちる水滴が、桶の水面に小さく波紋を作る。

その様子を見て、私は顔の血の気が引いていくのが分かった。

(考え無しだ。何も考えてなさすぎる。自分が何かをしたいなら、そのために何が必要かが分かっていない。分かっていないのに、それをやる。だからこうなるんだ)

自分自身に対する怒りと、なぜ気付かなかったのかという後悔、そして、この後始末をどうしようという焦りが、私の頭の中でぐるぐるとかき混ざっていく。

どうしたら良い?今必要なのは拭くもの……何か拭くもの……どこかにあったっけ……?

地主様の母屋の厨房に、確か手を拭くための布があったはずだ。

でも、どうやってそこまで行く?

ポタポタ水滴を落としながらの強行突破?手を前に突き出して、水滴を垂らすのは承知の上での抜き足差し足忍び足?

どうやっても水滴は落ちて、床が雨模様になってしまう。床が雨模様になったら、よしんば儀式用の白装束に水が垂れなくても、奥方に知られたら雷が落ちる。

奥方は怒る時、問答無用で思いっきり頬をひっぱたくのだ。避けたら絶対に怒られるし、当たったら口の中が切れて口一杯に血の味がするようになる。その味は幼い頃に好奇心から舐めたナイフの味に似ていた。

(うぅ………どうしよう……無理だよなぁ、どう考えたって………)

頭の中に浮かぶ考えと奥方に怒られる恐怖が渦巻いて、私は良い打開策が浮かばなかった。

どの考えの元に行動しても、最後は怒られてひっぱたかれる結末しか想像できない。

一体どうすれば…………

私はどうしようもなくなって、頭を抱えたくて、手が濡れている事を再認識して、また絶望した瞬間、声が投げ掛けられた。

「手を拭くものが無いのか?」

顔を上げると、茶色のローブの男がこちらを見下ろしていた。先程、ロープを引いて、桶を取ってくれた男である。

男は頭を傾ける事無く、ただ眼だけを向けているといった風で、こちらを見やる視線はどこか、蔑んでいるような、憎悪にも似た呆れような冷淡さをまとい、『取るに足らない者が己の短絡的思考のせいで困り果てている』といった様子で試すような、下に見るような意味合いが先程かけられた言葉には込められているような気がした。

桶を取るために手伝ってくれた時の一通行人然とした雰囲気は無い。村の誰とも違うその風格は、明らかに他とは一線を画していた。

私の目の前にいるのは、確かな“何者”かであった。

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