第4話 厄災の前触れ

秋のナフベヤント山脈を進む一人の男は、外の世界と隔絶された山村郡を通り、オゲモール川を目指していた。

だが、男にとって、この季節にナフベヤント山脈に足を運ぶのは気の進む事ではなかった。

太古より自然とは畏怖の象徴だ。

ありとあらゆる野生生物、魔物、虫、獣人が

住処すみかとする山や森林は人の住まうところではない。

人間の住まうところはすなわち、文明が在るところである。

それは、都市であり、街であり、村であり、暖かい家である。

それ以外の場所を人は住処すみかとはしないし、旅の途中で野宿などをする事はあれど、屋根があるならばその下で、壁があるのならその中で、人は生きていこうとするものである。

そのため、山や森などの自然の中で暮らしていくなどと言う事はあり得ない。そんなのは自らの命を危険に晒す行為に他ならないからだ。

だが、世に例外は存在するもので、ナフベヤント山脈を含め、地上に存在する多くの山地には人が集落を築き、生活を送っているのである。

彼ら、山岳民さんがくみんを、人は畏敬の念を持って見るものであるが、この男にとっては彼ら山岳民はその成り立ちからして唾棄すべきものでしか無かった。

その上、秋という季節は山岳民にとって祝祭の季節であり、それが更に男の嫌悪感を増幅させる要因となっていた。

だが、男はそんな状況であっても山村に立ち寄る他はなかったのである。



山村の酒場は賑わっていた。

今日で収穫が終わり、明日は収穫祭だからである。

収穫祭となれば、朝は広場で、豊穣の女神に祈りを捧げ、料理を並べて夜までどんちゃん騒ぎ。夜になれば生け贄を捧げて火を囲み、思い人と酒を酌み交わすも良し、友と踊り明かすも良しの楽しい一日だ。

今日はその前夜であり、村人達の気分も高揚していた。

「おぉい!酒だ!酒、持ってこぉい!」

「乾杯!」

「うわぁ、うんめぇ~!」

「わははは!ガキめ!魔物一匹倒した事無いくせによ!」

「うるせぇやい!俺だってなぁ!いざって時が来たならこうやって……!」

酒杯をぶつけ合い、乾杯する者、豪勢な食事に舌鼓を打つ者、大口を叩く若者を揶揄する者など、大勢の者が酒場にはひしめき合っていた。

ジョッキを飲み干し、喉を鳴らしては、また酒を呑む。その様子から彼らが、どれだけ収穫祭を心待ちにしていたかが見てとれる。

ガガガリリンッ!

酒場の扉が乱暴に開けられて、提げられた鈴が激しく音を打ち鳴らす。

「ラム酒を一瓶」

入ってくるや否や、男はぶっきらぼうにそう言いながら、カウンター席に腰を降ろした。

茶色いローブを纏った男である。

酒場の主人は少しばかり驚きつつも、ラム酒の瓶を取りだし、グラスを男の前に置いた。

酒場に居た男達は、入ってきた茶色いローブの男を一瞬、見やったものの、すぐに目線を各々違う場所に移して、談笑を続けた。

だが、酒が入った状態で、明日が祝祭と来れば、気が昂り、目につく者にちょっかいをかける者が現れるのは世の常である。

この村もそんな世の中の一部であるのは覆しようの無い事実であった。

「おぉい!てめぇ、何しにここ来た?!収穫祭に来たのかぁ?」

「ラム酒なんか呑みやがってぇ!ふざけた野郎だぁ!成金かぁ?!」

二人の村人が男の元へやってきた。

二人は酒をあおりながら、一人は右から、もう一人は左から男の顔を覗き込み、じろじろと見つめてからこう言った。

「てめぇ、何だ?その、辛気臭しんきくさい顔はぁ?!」

「明日は祭りだぜ?こっちがせっかく楽しい気分だってのに、わざわざその腐りきった辛気くせぇ空気持ってきやがってぇ!舐めてんのか!」

酒気を帯びた息と、大きな罵声。

この二つは、ただでさえ苛立っている茶色いローブの男を怒らせるのに充分だった。

男は右の方から覗き込んでいた男に向き直り、その両眼を凝視する。

その瞬間、男は誰かに導かれるかのように、ぎこちなく身体を動かし、左右に身体を揺らしながら、元々座っていた椅子へと歩き始めた。

「お…おい!どうしたんだよ!」

左の方に居た男が訝しげに椅子に向かう男を見る。

「おい!大丈夫か?!な、何した?てめぇ、何したんだよ?!」

男は酒の勢いで茶色いローブを纏う男の襟首を掴む。

ローブを纏う男は特段、身体を動かす事無く、ただ締め付けられるままに、男を見つめていた。

「おい!何やってんだよ!」

「喧嘩か?」

「祝祭の前にやんなよ、そんな他所もんとよぉ…」

半ば呆れるような、冷やかすような声が上がる。だが、本気で止めようとする者は一人も居らず、席を立って、仲裁しようとする者は一人も出なかった。

「おい、止めとくれ!うちの大事な客にぃ!」

唯一、カウンターの向こうの酒場の主人がそう声を上げるが、男は聞く耳を持たなかった。

「てめぇ、何した?!呪いかけたのか!何だ?お前、呪術師か!おい!何とか言え!」

ローブの襟元を掴まれながら、男の唾と息がローブの男の顔面にかかる。

「………させろ…」

「あぁん?!何つった!」

ぼそりと、ローブの男が口を動かした。しかし、襟元を掴む男は聞き取れなかったようで、大声を出す。

バァァア!

その瞬間、何かがぜる音がして、男が吹き飛ばされた。

男が身体が壁に打ち付けられて、酒場中に響く音と振動がした。

壁に打ち付けられた男はそのまま頭をもたげ、ぴくりとも動かない。

「お、おい!大丈夫かよ…!」

「ひっ…でぇ……」

「な、何だ?あいつ…何した…?」

酒場に居た男達はそれぞれの反応を見せながら、吹き飛ばされた男を気遣う者、男のやられ方に同情する者、ローブの男に怯える者などに分かれた。

だが、皆、一様にローブの男を見て警戒しつつ、何者なのかを見極めようとしていた。

しかし、彼らがそれを見定める前に、ローブの男が口を開いた。

「私は…酒を呑みに来たんだ…決して、お前ら泥蔑賤民ヴェッヅレベーヅ何かと戯れるためにここに来た訳じゃねぇ…」

低く、憎悪の込められた言葉は酷く酒場の男達を動揺させた。

「ヴェッヅ……レベーヅ…?」

「何言ってんだ……?」

「母国語か……?」

男達は自分達が何を言われたのか分からなかった。もちろん、分かる訳がなかった。

大昔の、それも別の民族の言葉など現代の村民に分かるはずがない。

唯一分かる事は、この男と関わったら、自分もさっき仲間がやられたように、吹き飛ばされて、痛い目を見るという事であった。

酒場に居た男達は、それぞれがそれぞれ座っていた席に戻ると、先程までのお祭り気分はどこへやら、一気に暗い雰囲気のまま、ちびちびと酒に口をつけ、誰も笑い話や談笑何てしようとはしなかった。




ローブの男は席に戻ると、ラム酒を勢い良くあおった。

酒は呑まない方が良い。自分自身だって、そう思っていた。

だが、この陶酔に身を委ねなければ、この世の辛酸を浴びた己を癒せなかった。

いつだって、男は一人だった。一人になってきた。

注いだグラスの中で、明かりに照らされながら揺れるラム酒の水面は幻想的で、そこに身を投じてしまえば、懐かしいあの日々に帰れる気すらしてきていた。

そんなは妄想だというのは分かっている。それを己に知らしめるためにグラスを持ち上げ、口の中にラム酒を流し込む。

喉を熱いものが通り過ぎて、胸の辺りに火を灯す。まるで、心の中には明かりはあるのに、身体の外は暗闇にいるような感覚だった。

救いなんて来やしない。ただ、それだけが一寸先も見えない現実の暗闇の中で分かる事だった。

「……今年は……」

ローブの男の背中で一人の男がポツリと呟いた。

先程、ガキだと笑われていた若者である。

俯き、少し身体を震わせながら拳を握る若者に、周りの男達は驚きつつも、目線をを向ける。

「今年は…子山羊も産まれなかったし……あんな奴も来た……今年は……厄年なんじゃないか……?」

「や、止めろよ…」

同じテーブルに居た男が声をかけるが、若者は止まらなかった。

「厄年なんかじゃねぇ……もしかしたら…俺達…禁忌を犯したんじゃ……?」

「止めないか!」

「なぁ…!やっぱり、ガキ生け贄にすんの止めようよ……」

男は途切れ途切れになりながら言葉を続けた。

「おい!止めろよ!」

「供物は捧げるもんだ。子山羊も子供も大差ない」

「どっちにしろ、やらなきゃいけねぇ事なんだ」

酒場に居た男達が、口々にたしなめるような事を言う。

その中には髭を生やした老人も居た。つい先日、子供を供物にする事に賛成した村の顔役である。

「で、でも…子供は…宝だ…」

それでも、若者は食い下がった。

この若者に、山脈の常識はまだ完全に定着してはいなかった。子供を殺す事に抵抗があったのだ。

「ほぼ咎人の子供だろ。良い厄介払いだ」

「小作料を払わねぇで、逃げたりするから…」

「どうなるか何て分かってたはずだ。それに、いつまでも置いとく訳にはいかねぇだろ…」

「そもそも、契約違反だろうが……奴隷にされるところを、供物になれるんだからありがたく思えってんだよ…」

子供は対した労働力にはならない。厄介払いしたくとも、どこぞの商会に下働きさせるにも、山村に住まう者達にそんなつてがあるはずはなかった。

「分かったろう?仕方ないんだ…」

「でも…」

「でもじゃねぇ。大人になれ。供物が無きゃ、来年は飢え死にかもしんねぇんだからな…」

何度たしなめられようとも、若者は納得できないようだった。

だが、その若者よりも、納得がいっていない者が居た。

いや、納得がいく、いかないという次元の感情を彼は持っていなかった。

その心中に燃え上がるは憤怒の炎。自らのために誰かを犠牲にするその精神に対する怒りである。

もっとも、これはこの土地と縁も所縁も無い男だからこそ、こんな気持ちを持つ事が出来るのであった。

「……憎い…」

カウンターに居た酒場の主人が左に目を向けた。

茶色いローブに隠れて顔色は見えない。だが、憎悪と殺意がローブの下で蠢いている事が主人には見て取れた。

この男は怒っている。

じっと、目の前に目線をやりながら、右手に持つグラスを揺らす事無く、男は目を光らせた。

その様子を見て、主人は眉唾を飲み込んだ。

殺気のような、心臓をぎゅっと鷲掴みにされる感覚と共に、身体中から汗が吹き出て、下へ

したたり落ちる。

何かが起こる。主人は本能的にそう感じ取っていた。

明日、どうしようもない程の災厄が振りかかってくる。

主人の心臓は無意識に早鐘を打っていた。

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