第2話 村落の酒場

ナフベヤント山脈の村落ではある一つの惨劇がそこに住まう人々の恐怖を掻き立てていた。

もうすぐ秋である。

収穫という恵みの時期を向かえたというのに、それに水を差すかのような事件は、滅多に情報が入ってこない、閉鎖された山あいの村落郡にまるで電撃のように伝わっていった。





「トライトのところのザッキャの奴、夫が賃代が払えなくて身売りするんだとよ」

「じゃあ、戻ってくんのか?」

「いや、それがどうにもそうはいかないらしい」

「どういうこった?女一人で生きてける訳ねぇだろ」

村の酒場ではそのような世間話がなされていた。

もっとも、こんな日の高いうちから酒が呑める者の中に地主への賃代や借金に追われる者が居るはずは無い。

彼らは自作農であり、収穫という繁忙期に入ってしまえば酒を呑んでいられるような時間はない。だからこそ、彼らは夜を待たずにこうして昼間から飲んだくれている訳である。

ガランッガランッ

酒場のドアにぶら下げられた鈴が、来客の到来を告げた。

「いらっしゃい」

カウンターに居た酒場の主人がそう声をかける。入ってきたのは茶色いローブに身を包んだ男で、カウンター席に座ると、懐から紙を取り出した。

「ラム酒を一杯。それと、聞きたい事がある」

主人はグラスを用意し、男の前に置くと、ラム酒の瓶のコルクを抜く。

こんな山村の酒場でラム酒何ていう高級品を口にするものは居ないだろう。

主人はラム酒を注ぎながら、男に尋ねた。

「聞きたい事ってのは?」

「ここらで姓を持ってる奴は居るかい?」

「いんや?ここいらじゃ、地主も平民でね」

男はグラスに口を付ける。

「ウヌラブ産か?」

「あぁ、古いもんでね…良く分かったな。あんた分かる人か?」

「いや、昔飲んだ事があるだけさ。そん時の味を覚えてただけだ」

主人は嬉しそうに口角を上げた。

酒の味が分かる人間が来るのが珍しいのだろう。こんな華やかさの無い山村では当たり前の話ではあるが、この主人も一度はこんな風に酒の味が分かる者に、酒を出したかったに違いない。

「もう一つ聞くが、今から言う姓に心当たりはねぇか?『ビゼーヨラ』…『ガクジッド』…『シェヤミーダ』…」

男は一つ姓を言う度に、主人の顔を見やった。

だが、主人は心当たりは無いようで知っている素振りは見せなかった。

「『マヌネチキ』…『イブレバンダス』…『ハイセルト』…」

「あっ…ハイセルトなら知ってる。バイン=グルッゼの都で見世物をやってる芸人一座がそんな名前だった。まぁ、旅人が話してるのを聞いただけだけどな」

主人は顎に手をやりながら、思い当たる節を口にする。

「それはいつの事だ?」

「いや、もう半年も前かなぁ…」

「そうか、ありがとよ…」

男は礼を言いながら、紙を懐に戻し、代わりに銀貨を取り出してカウンターに置いた。

「人探しかい?そんなに姓を聞いてどうするんだ?」

「さぁな、俺も依頼されただけだから良くは知らん」

主人の問いに答えると、男はラム酒の入ったグラスを飲み干した。

「ありがとよ、じゃあな」

「あぁ、また…」

男はグラスをカウンターに置くと、足早に酒場を去った。

もう用はない。そう言わんばかりに、空しくドアの鈴の音がひときわ大きく鳴った。



バイン=グルッゼか……

ナフベヤント山脈を越えた先にある王国で、中継貿易で栄えている国だ。

河川での人と物の行き来で物流を回しているため、都には市場が立ち並んでいると聞く。

(人が多いのなら、探すのがその分、面倒になるだろう。見世物をやってるとは言え、移動している可能性もある…)

どちらにせよ、行ってみて、足取りを追うしかないだろう。

尻尾さえ掴めばこっちのものだ。首を洗って待っていろ。

男は心中でそう罵りながら、山村を後にした。



山あいの村落を繋ぐ畦道(あぜみち)をずっと行けば、オゲモール川に着く。そこの渡し船に乗って、バイン=グルッゼの都まで行く。

道中でも情報収集をしたいものだが、後追いは生物(なまもの)だ。すぐに追い付かねば、情報は腐って、過去のものとなっていく。

酒場の主人は半年前に聞いた話しと言っていた。だとすれば、もう都には居ないかもしれない。

だが、覚えている者が必ず居るはずだ。

(だが、芸人一座とは……座長の名前が『ハイセルト』という事か…?)

芸人というものは平たく言えば成りたくて成るものではない。

奴隷商人や人攫いにあった者の中でも、特に身体付きが変だったり、芸が出来たりする者が叩き売りされるのが芸人一座というものだ。

その内情は、ほとんどが座長とそれに近しい者達による暴力支配が一般的で、見世物とされる者達は客から見えないところに鞭の跡が残っているものである。

(アジュルム人め…残忍さは世代を超えても顕在か…)

男にとって、憎悪を燃え滾らせるものはいくらあっても困らなかった。

歯を食い縛り、乱暴に地面を踏みつける男は、もう何万年も、そうやって生きてきたのだった。

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