灰になるべくして

ナナシマイ

「アヨグスの末裔。街を出るつもりなの?」

 そう呼びかけられ、ラャミは瓦礫だらけの地面から顔を上げた。

 視線の先には、内側から光るような白髪を緩く編んだ、美しい娘がひとり。その儚げな姿とは裏腹に、彼女のまとう濃密な水の気配を見れば、人間などたやすく壊してしまえる存在であろうことがわかる。

 ラャミはそっと息を吐いた。

(……とうとう、魔女までやってきましたか)

 今のラャミに、人ではない者とやりあう力はなかった。

 アヨグス家に恨みを持っていたり、噂を聞いてやってきたりした妖精や竜たちがみな、たった一人生き残ったラャミから魔法の要素を奪ったからだ。

「ここへ残っても、なにもありませんから」

「未練だけはあるようだけど」

 朝日を浴びてなお水を湛えたように透き通る瞳は、ラャミの手の中――瓦礫から拾い集めた遺品に向けられている。

「……当主として、すべきことをしているだけです」

 はたしてこの魔女はなにを奪いにきたのだろうか。

 魔術具だろうか。それとも魔術師として駒になる時間だろうか。なんにせよ、ラャミの身体にはもう魔女が好むような要素は残っていない。

 あるのは結界魔術の権威と言われたアヨグス家の知識とその産物。今のラャミは、偏った知識を持つだけの、ごくごく平凡な魔術師にすぎなかった。

「そう? 従えるべき者もいないのにたいへんだこと。わたくし、あなたが街を出るまでの話し相手になってあげてもいいわ」

「……対価はなんでしょう」

「ただの好意とは思ってはもらえないのね」

 ラャミは小さく首を振る。

 人ではない者の好意を素直に受け取るには、このひと晩で多くのものを奪われすぎた。

 今まで奪う側にいたアヨグス家は、奪われることに慣れていなかった。自分たちが奪われる側に回されるなど、これまで考えたこともなかったに違いない。たったひとりの花岩の妖精の手引きによって、いとも簡単に崩壊してしまうほどには。

 アヨグスの結界魔術に閉じ込められ調教されていた、竜や妖精の子らの脱走。

 アヨグス家に子を奪われ、しかし怒りを向けるには力の足りなかった親たちによる蜂起。

 真夜中の襲撃。歴史と権力を示していた邸宅は見る影もなく瓦礫と化し、アヨグスの血が少しでも混じっている者はみなここで殺された。

 真夜中。ラャミがアヨグス家当主となったその瞬間。

 国中に散らばった親戚一同が誰ひとり欠けることなく招集されることも、代替わりによって指揮系統が乱れるだろうことも、花岩の妖精は知っていた。

 アヨグス家を内外から崩したその妖精は、ラャミの伴侶だ。

 ラャミは、愛し愛されていたはずの夫に裏切られたのだ。

「対価、そうねえ……あなたのその、人間の要素を少しばかりいただこうかしら」

 魔女のほっそりとした手が、ラャミの黒髪に触れる。

(皮肉……なのでしょうね)

 昨日までは、魔法の要素をふんだんに含み、人間らしからぬ鮮やかさで揺らいでいた黒色も、今は褪せて朝日の眩さに埋もれるばかりだ。


       *


「ふふ、なかなか面白いものを見せてくれるのね、ラャミ?」

「……ぁ、つ」

 白滝の魔女ホルミュナと名乗った魔女は、話し相手という役割をどこまでも全うするつもりらしい。

 ラャミも魔女が自分を救うなどという期待はこれっぽっちも抱いていなかったが、明らかに声を出せる状態ではないとわかっていて話しかけてくるのはいかがなものか。文字通り割れかけた頭の痛み、しかし傷だけは塞がれたらしい額をさすりながら、ラャミはまたひとつ人ではない者の冷酷さを知る。

 街が動き出す時間を待って市場に出てきたラャミは、すぐ人々に囲まれた。アヨグス家の新しい当主を慕う思いからではない。むしろその逆である。

 魔術の実験体にされた者や、命には変えられまいと高額な結界を買わされた者、家族を人質にとられ諜報員の真似事をさせられた者。

 彼らはみな、アヨグスの悪事に耐えかねていたのだという。

 先の襲撃にて疲弊していたラャミの防御結界は脆く、人間の暴力をも通した。頬を張られ、腹を殴られ、手足を踏み潰され。しかし痛みに意識を飛ばしそうになると、どこからともなく現れた妖精に治癒の薬をかけられ、また復讐は再開される。

 痛みは蓄積されていくが、ラャミに許されるのは耐えることのみ。

「おいおい妖精さんよぉ、こんな奴生かしておく必要ねぇだろ。さんざん俺らを見下してきたんだぜ?」

 たしかにアヨグス家は裏社会にも通じ、汚い事業にも手を染めてきたが、それらを行ったのはラャミではない。先代当主であるラャミの母が指示し、彼女の部下である一族の者が行ったことだ。

(それでも、わたしがアヨグスの魔術師である以上、彼らの怒りはわたしへ向けられるべきなのでしょう)

 まだ、という言葉は免罪の理由になりえない。

 まだ力を振るっていなくとも、ラャミがそのための魔術を磨いてきた事実は変えられない。あの家の血を継いでいるという事実も、変えられないのだ。

「だからこそ生かしておくんだよ。簡単に壊してハイおしまい、なんてできるはずないからね」

 そして人間と比べてはるかに長い時を生きる者たちは、その血の繋がりを重要視する。彼らからすれば人間などすぐに死んでしまうのだから、一族の罪は子孫も償うべきという考えかたをするのは当然のこと。

「君たちも、この人間が僕らの獲物であることを忘れたらいけないよ?」

 妖精が、ラャミを囲む人間たちを見回してにこりと微笑めば、人々は萎縮する。

 笑顔の裏に潜む、人ならざる者らしい棘の気配。それに気づかぬ人間など、この世では生きていけない。


 ゆく先々で散々に罵られ暴力を振るわれながらも、ラャミはなんとか食べ物の調達に成功し、アヨグス家の敷地に戻ってきた。街なかで食事をとることなど、とうていできそうになかったのだ。

 腐りかけたパンを眉をひそめながら咀嚼し、欠片をホルミュナに差し出せば、「要らないわ」と首を振られる。

「それにしても――」魔女は続けた。「あなたは生きることを諦めないのね。疲れ切った人間はよく、私のもとへやってくるわよ」

 ラャミは薄く笑う。

「夫だった妖精に、自害できない呪いをかけられておりますので。ついでに、彼以外と繋がることのできない呪いも」

「あらあら」

 繋がりながら、少しずつ刻まれた呪い。

 それは夫の愛ゆえだと喜んでいたが、今ならば事実は違っていたとわかる。この制裁のためでしかなかったのだろう、と。

 確実にアヨグス家の血を絶ち、また自分を縛った人間に苦しみを与え続けるための。


 真夜中。

 魔術が揺らぐあわいの時。

 真夜中。ラャミがアヨグス家当主となったその瞬間。

 ラャミが生き延びられたのは、とくべつ魔術が優れていたからではない。「当主の娘」と「当主」という肩書きが切り替わる瞬間だったことで、襲撃の対象を指定する魔術から弾かれたからだ。

 その証拠に、同じく襲撃を逃れていたはずの先代当主たるラャミの母は、ラャミの伴侶によって直接殺されている。刺し違えて息絶えたふたりの家族を、ラャミは自分以外に息をする者のいなくなった廃墟の中で見つけた。

 そうまでしてアヨグス家を潰したかった花岩の妖精は、いったいなにを思いながらラャミと夫婦生活を送っていたのだろうか。彼のほんとうに帰るべき家は、家族は、どこにあったのだろうか。けっきょく、なにも語らぬまま彼は逝ってしまった。

 交わした言葉も、情も、簡単に思い出すことができる。

 しかしそれらは虚ろなものでしかなかったのだ。

 振り返る今はただ、傲慢な人間の浅ましさを見せつけられているかのようで。

(真に魔法を持つ者の色彩は、こんなにも鮮やかなもの……それを人間ごときが得ようとしたことこそが、間違いだったのでしょう)

 向かい合った魔女の、流れ落ちる水のような輝きに魅入る。

 ――あなたは生きることを諦めないのね。

 さて、どうだろう。呪いがなければ、あるいは。陽の光を乱反射する、美しい滝の中で生命を終えることができるなら、それは幸せな最期に違いあるまい。

 ふわ、と初夏の風が吹いた。

 青びた香りは音もなく瓦礫の山を舐めていく。そうして立ちのぼるのは、呪いの薫り。

「あら……とても意地の悪い、妖精らしい呪いだわ」

「これは夫ではなく、別の妖精が昔に紡いだものですね」

 ラャミを疎ましく思いながらも、街の人間たちは彼女を追放しようとはしなかった。それは街なかで見せられた、妖精の牽制に怯えたという理由だけではない。

 アヨグスを狙うものが大半だとしても、外からの災いを退ける最後の砦はアヨグスの結界魔術であるということ。

 そして、この敷地に染み付いた呪いは、そう簡単に剥がれないということ。

 ラャミがここに留まるうちは、それらの矛先が街の者へ向かうことはないのだから。


 汗の滲むなか、腰をかがめ瓦礫を見続けていれば、とうぜん視界は霞んでくる。

 そうして身も心も煤だらけになった人間を、魔女は楽しげに眺めていた。

「可哀想に」

 ホルミュナの美しい声で呟かれた言葉には、情の一滴も含まれていない。そうでありながら、続けられるのは、ラャミを救おうとするかのような疑問。

「今わたくしがあなたを壊そうとしても、彼らは間に合うかしら?」

 びり、と風の角度が変わる。

 死の薫りだ――ラャミは遠い気持ちで思う。死を見せつけてきながら、死に至らせない薫り。

 今この瞬間も、ラャミを見張る者はいるのだ。

「ふふ、すごい執着だこと。私も、竜と妖精を同時に怒らせないよう気をつけることにしましょ――……あら? 遺品探しはもうやめたの?」

 先ほどから瓦礫を移動させているラャミが、遺品探しをしているのではないと気づいたホルミュナは、不審げにそう訊ねてきた。

 ラャミは作業の手を止めることなく答える。

「呪いというのは、美味しいのでしょうか。ホルミュナさんはご存知ですか?」

「……ラャミ、あなたまさか」

 魔法を扱う魔女は、魔術には疎いと聞いたことがある。

 それでも、呪いの核をいくつも術式のうえに並べ、盃を用意したとあらば、なんとなく目的は見えてくるというもの。

(……やっと、この忌まわしき家から解放されたのですから)

 伴侶にかけられた呪いによって、自害はできないらしい。

 ならば、このアヨグス家実家にかけられた呪いをすべて、自ら飲み干したとて、死ぬことはないだろう。

「や、やめなさい」

「魔女が、わたしごときを惜しむのですか? そんなはずないでしょうに」

「それはそうだけれど、この呪いの並びはなかなか惨いわよ?」

「ええ。夫の呪いがわたしを生かし、死よりも恐ろしい苦しみを与え続けるに違いありません。けれど、いつか……いつか必ず。運命の気まぐれに生かされたというならば、わたしは、意地汚く死んでやりましょう」

 我が家は灰も同然。

 すべてを失った自分に、これ以上などない。

 なにもない。なにもないのだ。もう、家にも、街にも、縛られる必要はない。

「灰は灰になるべくして、灰と化せ――」

 呪いが、どろりと蠢いた。

「……ああ、ホルミュナさんは人間の要素が欲しいとおっしゃいましたね。わたしはもう、街を出ますので」

 魔法の要素を蓄えるために伸ばしていた、今はただ人間らしく浅い黒色をした髪を、ラャミはぞんざいに切り払った。

 それから、盃に溜まった呪いをひといきに飲む。

「――っ」

 嗚咽は、誰のものか。

 深い深い闇の黒はなくなった。

 呪いに侵され、浅ましい煤の色に染まった魔術師が、陽炎の浮かぶ真昼の景色に影を落とす。

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灰になるべくして ナナシマイ @nanashimai

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