第5話 近濃海(ちかつこいうみ) 後編

 小舟の上に乗っていたのは、背の高い女性ひとりだけだった。

 市女笠をかぶり、裾をつぼめたつぼ装束(旅装束)をしている。都とは様式の異なる紫の単衣に、青(深い緑色)の袿(うちぎ)を身に付けている。

 女性は舟の後ろ端に立って、ゆったりと櫓を漕いでいた。

 白い霧が流れて、ときおり女性の胸元や裾が見えなくなる。この世のものではないような、どこか神秘的、幻想的な印象だった。

 女性は突然飛び乗ってきた娃瑙に驚きもせず、にこりと微笑んだ。


「ふふ、こんにちは、西の都の方。そなたはたしか、昨日の夜、宿の湯で会うたな」

「あ、ど、どうも」


 あっ、そうか! この人、昨日、温泉宿の風呂場で会った……。


「あ、あのっ、ほんと、急に乗り込んですいません。わけあって身内に追われてまして」


 言いつくろいながら、女性の言葉が引っかかった。

 さっきこの人、『西の都』って言った?

 その表現は、都の人間は普通使わない。

 そう、普通は。

 ちらり、と女性に目を向けて、それとなく観察してみる。

 目深にかぶった市女笠と、そこから下りた垂れ衣で、顔はよく見えない。

 だが一瞬、垂れ衣が風にゆらめき、女性の髪の間から細くねじれた角が垣間見えた。


 あわわっ、こ、この人、まさか!

 不二の都の人っ?


「水を渡ってくるとは、よほど事情があるのじゃな。ふふ、あえて聞かないことにしようか。じゃが、こうして乗り合わせたのも何かの縁。よければ、少し話をしていかんか?」


 沙羅たちはまだ追ってくる気配はない。

 ……不二の都の人とお話するなんて、またとない機会。

 娃瑙は好奇心がふくらんできた。少し話す時間くらいならありそうだ。

 お話、してみたいとは思う。だが不安がないわけではない。

 夕顔が水から舟に上がってきた。女性はおや、と好奇心を孕んだ声を出した。


「なんだか変わった蛇じゃな。手足があるなんてかわいいのう。格好から貴族の姫とお見受けするが、このような蛇を扱っているところ、そなたは妖術を嗜むのか?」


 不二の都の人に会うのは初めてだ。普通に接しても大丈夫だろうか? 考えあぐねて、姫が口を開けたり閉じたりしていると、


「そんなに警戒しなくともよい。実を言うと妾もそうじゃ。妖術使いに偏見はない」


 と女性は話した。

 気にしている点がちょっと違うが、どうやら敵意はなさそうだ。

 いきなり舟に乗り込んだ失礼を責める様子もない。多分、おおらかな人なのだろう。悪い人には思えない。

 不二出身だからといって、こっちが勝手にびびっているだけだ。


「はい、主に蛇やとかげを使います。夜禮黎明という陰陽師から教えていただきました」

「おお、その名はよくこちらにも届いておる。そうか、そなたはあの夜禮黎明の弟子か。それで、この湖にはどういう用件で来られたのじゃ。ひょっとして巨大な魔物の件かの?」


 ぎくりとする。黎明の名はともかく、魔物の話まで不二の都に届いているのか。


「え、ええ。この『近濃湖』に魔物が出たということで、なんとかしろと宮中からお達しを受けて、それでここまで来たんです」


 ……もっとも、途中で別の目的ができたのだけど。

 例の赤い根付は今も指にからんでいる。


「あの、そういうあなたはどうして、ここにいらっしゃったのです?」

「この湖で現が割れたままほったらかしになっていると聞いたから、閉じに来たのじゃ。現との調和をとるのは、妾の『役目』でもあるからのう。おそらく魔物は割れた現の隙間からこちらへ這い出てきたのじゃろう」

「な、なるほど、現が割れたまま、ですか。それで魔物が出てきたと」


 あはは~っと苦笑いするしかなかった。

 さすがにここでホントのことは言えない。

 真実は闇に葬っちゃおう。


「まあ、実は、そんなのは建前で」


 不意につぶやくように、女性が低い声を出した。


「え?」

「本心を言うと、故郷から抜け出して遊びに来たかったのじゃ。それも一人で。わけあってあまり外へは出られない身でな。童の頃はよく西の都までやって来ては、祭を見物したり、同じ年頃のこどもと遊んだりしたものじゃが」


 ふふふ、と女性は上品に口元を袖で隠して笑った。

 物腰や言葉遣いから不二の都の貴族かも知れないと思っていたが、なかなかどうして、行動的で恐い物知らずなお人のようである。

 自分とよく似ている気がする。なんだか気が合いそうだと思った。


「天爛の都、いらっしゃってはいかがですか。すぐそこですよ」

「いや、さすがに立場上、そこまでは足を伸ばせん」


 と言いつつ、女性の顔は未練そうに口を結んでいる。

 多分、本心では行きたいのだろう。

 娃瑙はそんな女性の様子を見て、シクっと胸が疼いた。

 なにか、忍ばせた想いのようなものを感じたのは気のせいだろうか。

 それは自分の気持ちに近いものかもしれなかった。


「話に聞く太古の湖を見て、温泉にも入って、旅先で会うた者とこうしておしゃべりもできた。とりあえず一人旅としては十分じゃ。あとは当初の目的を果たすだけ」


 ふと、女性は考え込む仕草を見せた。


「ふぅむ、どうじゃろう、妾とそなたの目的は同じようなもの。ここはひとつ協力せぬか」

「むしろこちらこそ、お願いします。開きっぱなしの割れ目を閉じる方法なんて、私には分かりませんから。それで私は何をしましょうか」

「現の割れ目は普通、自然に閉じる。それが開きっぱなしだということは、おそらく何者かの手によって固定されたのではないか、と妾は考えておる。ならば、割れ目を固定するために何か道具を仕込んでいるはず。それを見つけて、壊すなり外すなりして欲しい。上手くいけばそれだけで割れ目は閉じよう」

「閉じ……ますか?」

「どうじゃろう。開いていた時間にもよるが、難しいかもしれぬ。どうなるか分からぬゆえ、割れ目を閉じる術法の準備はしておこう」


 女性はそこでじっと、娃瑙を見つめた。


「妾のほうは、どうしたら良いかの?」


 切れ長の美しい目だった。

 黒く大きな瞳からは、気品と意志の強さ、そしてちょっとこどもっぽさを感じる。


「ええと、魔物自体はですね、私の術でおとなしくさせることができるんです。でも、そのあとどう扱うか悩んでいまして。できれば滅したくないんですが……」


 不二の都へ連れて行ってくれないかなあ、と期待するが、さすがにそれは無理な相談か。


「滅したくない、か。そなたはやさしいのう。ならば割れ目を閉じる前に連れていって、そこから異界へ帰せばよいのでは」

「いや、それがその魔物、とっても大きいのです。割れ目からも入るかどうか」

「では、こうしてはどうじゃ。自然に閉じる閉じないにかかわらず、妾が術で割れ目に干渉する。そして閉じる直前に一度大きく広げてみよう。その隙に帰すとよかろう」

「えっ、そんなこと、いいんですかっ? ありがとうございますっ、とても助かります!」


 そこまでしてもらえるとは。これであの子も無事に済む。あとは自分の始末だけ。

 大方の算段が付いた頃、湖面が波だってゆらぎ、黒い大きな影がぬっと現れた。

 ざばあっと飛沫をあげて首を伸ばしたそれは、あの巨大な魔物、『青耀』だった。

 自分を慕って追ってきたのだろう。見てくれは大きくて恐いが、健気でかわいらしいと思った。


「おおっ、これがその魔物か。そなたが術を用いて懐かせているのじゃな。すばらしい」

「この子だけ特別なんですよ」


 ……っと、待てよ、この子がここへ来たってことは、まさかっ。

 不安的中。

 遠くから沙羅の声が漂ってきた。

 次第にそれははっきりと、そして大きく近くなってくる。

 声のするほうを見やると沙羅が一人で小舟に乗り、猛烈に櫓を漕いでいた。ものすごい速度で近づいてくる。

 今にもここへ辿り着きそうだった。


「うわわっ。あ、あの、じゃ、じゃあ、私これで失礼しますっ」

「うむ、引き留めて悪かったな。話ができて楽しかったぞ。気づいていると思うが、現の割れ目は異界の風の吹いてくる方向、風上にある。よろしく頼むぞ、ではな」

「はい、よろしくお願いします!」

「ひーめーさーまぁ? やっと追いつきましたよ! ん、こちらはどなたさまで……ああっ!!」


 沙羅の小舟が追いつくやいなやの刹那、娃瑙の体はいきなり上空へすっ飛んだ。


「姫さまっ、なんのおつもりですかっ!」


 娃瑙は魔物に襟を噛ませて、一気に引っ張り上げてもらったのだ。


「ごめーん、沙羅ちゃーん、一人にさせてー」

「くそ、また逃げたっ! まったく、そうはいくかっ、でございますよぉー! ふふふっ」


 え?? ふふふって何っ? まだ追ってくる気!? 

 娃瑙は魔物の頭に上り、言葉なき言葉とともに指をぱちんっと鳴らした。

 すると魔物は長い首を反り返らせて、斜めに甲羅へ垂らした。

 娃瑙は袴の裾を持って座り、太く長い首の滑り台を全速力で滑り降りる。甲羅に着地したあと、苔でぬめる上面を終端までひた走った。

 ここまではいい。けれどあの銀髪侍女はきっとまだ追ってくるだろう。

 ここから先どうやって逃げようか悩んでいると、ほのかに遠く、さきほどの首長竜たちの群れが見えた。

 多分だが、彼らにも虫繰りが効くはず。

 右手の親指と中指で指笛を吹いて、彼らを呼び寄せてみる。この指笛の音も『小さきモノの声』の一種である。

 古代の竜たちは娃瑙の呼びかけに応え、群れ全員でそばやって来た。

 語りかけるときちんと感情が返ってくる。

 両手でぐっとこぶしを握ってガッツポーズ。

 やった! これなら簡単な指示は聞いてくれるはず。

 娃瑙は彼らにその長い首を交互にして、水面ぎりぎりに横たわらせた。そしてホップステップ、と軽快にその上を跳んで逃げる。

 途中で振り返ると、沙羅が同じように渡ろうとしていたため、竜たちに命じて首を上げさせ、追跡を妨害した。

 しかし沙羅はばらけた竜の首を壁飛びの要領で跳ねて渡ってくる。

 げっ! なんて運動神経してんのよ。

 おあつらえ向きに空から翼竜たちの怪鳥音が聞こえてくる。丁度、上に群れが来ているようだ。

 これを利用しない手はない。

 しつこく追ってくる沙羅をまくために、最後尾の首長竜にぽーんっと上空へ跳ね上げてもらった。

 その勢いのまま、たまたまそこを飛んでいた気の毒な翼竜の足につかまる。

 くえっと悲鳴をあげた翼竜を術でなだめ、そのまま足にぶら下がりながら娃瑙は考えた。

 とにかく沙羅をまいたら、早いとこ根付をどっかに捨ててしまおう。

 文字が読めないように念入りに割って砕いてバラバラにして。

 後ろからひーめーさーまぁーと沙羅の追う声が縋ってくる。楽しげにも聞こえる。

 たぶん、いや絶対分かってる。私が嫌がってるのを分かってる。

 昨夜のお風呂の仕返し?

 そろそろ翼竜に掴まってる手もしびれてきたな、と思っていたら、頬に異界の風を感じた。はっとして前方を見ると、黒い染みが空に広がっている。

 現の割れ目が目前にまで迫っていた。

 娃瑙はその割れ目の周辺に、虫や魚のようなものが多く飛び交っているのを見た。

 異界の魑魅魍魎! まずい、あんなのが這い出てきてる。本当に早く閉じないと……。


「姫さまっ!」

「ひあっ」


 考え事をしている最中に背中に飛びつかれて、素っ頓狂な声を出してしまった。

 首ったまに沙羅の腕がきゅっと巻かれる。背に柔らかい二つの膨らみを感じる。振り向けば銀の睫毛に縁取られた瞳と目が合った。


「沙羅ちゃん! どうやってここまで!?」

「姫さまと同じようにです。首長竜の頭と翼竜を踏み台にして飛んできました。さあ、もう逃げられませんよ。察しはついております。お隠しになったもの、何か今回の事件に関わりがあるんですね?」

「うぐぐ……。ご、ごめんなさい」

「なぜあやまるのです? だけどそれはあとにしましょう。いやな風が吹いてくるあの黒い染み、ひょっとしてあれが元凶なのでは? さっき媚子さまが、黒い染みの周りに『杭』が浮いているとおっしゃっていました。姫さま、どういうことか分かりますか?」


 『杭』? 空に杭が浮いている?

 いや、まさか、空に杭が打ってある……っ?


 あらためて、現の割れ目を観察してみる。するとどうであろう。

 たしかに、人の腕ほどの太い『杭』が空中に何本か刺さっているのが見えた。

 これって、まさかあの不二の都の人が言っていた、割れ目を固定している道具?

 これで異界の扉を開けっ放しにしている?

 って言うか、媚子すごい。目が良いとは言っていたが、湖面に浮かぶ舟からこんな高い場所の杭が見えたって言うの? どういう目をしてるんだろか。

 遠くから媚子の張り上げる声が届く。霧の中をはきはきした澄んだ声が貫く。


「おねーさまあ~。おほしさまです~っ。杭は五本ありますぅー!」


 おほしさま、五本。……星、五。

 ……五芒星のことか。それは陰陽道の代表的な陣だ。

 例の魔物、『青耀』の姿が真下に見えた。娃瑙は青耀に呼びかけて頭を上げさせ、翼竜の足から沙羅と一緒に飛び移った。

 そのまま最寄りの杭に近づけさせる。手が届くや、娃瑙は迷わずそれを引っこ抜いた。

 見る間に漆喰で壁の穴を埋めるようにして、現の隙間が少しだけ閉じた。


「沙羅、この杭、ぜんぶ抜くわよ」

「かしこまりました」


 沙羅が腰から二刀を抜いた。

 泳いで追ってきた夕顔が水から上がって、青耀の長い首を這い上がってきた。主を守るように、娃瑙の周りでとぐろを巻く。

 異界の割れ目から這い出た奇妙な雑魚たちがたかってきた。

 骨だけの魚や、翅の長い蟲たち。空をうざく飛び回り、娃瑙や沙羅に襲いかかってくる。

 沙羅は華麗に宙を舞い、二刀で弧を描いてこれを切り払った。娃瑙は夕顔に命じて魍魎たちに毒気を放つ。

 雑魚たち一体一体は脆弱な存在だが、如何せん数が多すぎる。

 娃瑙の眼前に、翼を持った金魚のような魍魎が猛烈な勢いで突っ込んできた。沙羅は離れたところにいるし、夕顔は反対側を向いている。避けきれないと覚悟すると、青耀の大きな口が開いてバックリと喰った。

 ようやく追いついた討伐隊からも矢が飛んできた。魍魎たちが矢に貫かれて次々と水へ落ちていく。

 魍魎の攻撃をかいくぐり、娃瑙は青耀に指示を出して杭が打ってある場所へ誘導していった。

 一本、また一本、さらにもう一本。

 杭は立て続けに娃瑙たちの手によって抜かれていく。

 もはや空に打たれた杭は、あと一本を残すのみ。

 異界の隙間は格段に狭まって陽炎のようにゆらめいていた。

 最後の一本は、娃瑙自身が引き抜いた。

 太く無骨な杭には、梵字に似た文字が刻み込まれている。心なしそれ自体からも妖力を感じる。これはあとで伊周と師匠に見せることにしよう。

 これで杭は全部ひっこ抜いた。

 しかし現の割れ目は閉じなかった。

 割れ目は狭いながらも『近濃海』の上空にとどまり続け、それどころか、墨が流れ落ちるように黒い染みがゆっくりと湖面まで垂れ始めた。

 やっぱり、あの人が心配した通りだ……。長いまま、開きすぎていたんだ。ここはもう、本物の半異界になりつつある……。

 茫然とする姫に、不自然なそよ風が耳に吹きつけてきた。その風に乗って気品のある美しい声が伝わってくる。

 あの女性の声だった。


『ありがとう、西の都の方。もう割れ目を固定するものはないようじゃ。おかげで問題なく閉じることができる』


 声を乗せた不思議なそよ風は、遠く離れた場所から飛んで来ている。白く雲のように流れゆく湖上の霧、その向こうに娃瑙は小舟に乗った市女笠の女性を見た。


『安心せい、ここは元に戻る。では約束どおり、閉じる前に一度大きく広げるぞ』


 そうだ、まだ終わってない。青耀を異界へ帰さなければ。

 まあ、でも、まずはその前に、自分には説明責任があるんだよね……。



「姫さま、さて、お話して頂きましょうか」


 青耀の頭から甲羅への超高度着地を決め、沙羅は主人に詰問してきた。

 媚子は腕が残像を見せるほどの速度で魑魅魍魎たちの姿を描いている。

 討伐隊の男たちは残りの魍魎らを射落としていた。


「さあ、姫さま」


 娃瑙は渋々、赤い珊瑚の根付を出して見せ、自分の立てた推測を語った。

 こどもの頃に自分は、親にも内緒で『何者か』から爬虫類を買った。それが異界の魔物の幼生だと知って大いに慌てて、事もあろうにこっそり捨てたのだ。

 たまたま家族で旅行に来ていた、この『近濃海』に。

 その後、捨てた魔物の幼生は『近濃海』で成長したのだろう。

 しかしたった数年で大きくなり過ぎだ。巣にも真新しい抜け殻が大量に残っていた。

 あれは短期間で急激な成長を遂げた証拠と言える。

 これはおそらく、異界からの風が影響を与えたのだろう。魔物にとって故郷である異界の風を受け、一気に成体にまで成長したのだ。

 そして嬉しいことに、魔物は娃瑙のことを覚えていてくれた。

 娃瑙は蛇のような長い首を下ろした青耀の、その固く鱗で被われた頭を撫でた。


「ありがとうね。捨てた私のこと、恨みもせずに。あのときはごめんね」


 娃瑙は青耀のひれに手を当てて、広がった異界の扉へと進ませた。彼のほうも娃瑙の意図を理解しているようだった。

 人が別れを惜しむかのように、その長い蛇に似た首を何度も何度も振り返りながら、青耀は異界の隙間へと泳ぎ進み、やがて姿を消した。

 これでもうあの子と会うことはない。娃瑙は感慨に浸り、ほろりと涙をこぼした。


「おかえり。もとの世界へ。こちらへは二度と来ちゃだめだよ」

「姫さまが持ち込んだんでしょうに」

「それは言わないで」


 宮中へは体よく誤魔化して、魔物を異界へ追い払ったということにしておこうかな。

 青耀が入っていったのを見計らうかのように、現と異界の割れ目が薄らいでいった。

 湖に垂れ込む黒い染みがかき消えていく。それは黒い羽虫の群れが逃げる様子に似ていた。

 娃瑙は自分たちとは少し離れた場所に、市女笠をかぶった女性がいるのを見た。

 女性はなにやら両手で紐を結んだりほどいたりするような動作を繰り返している。そしてそのそばには、さっき会ったときにはいなかった三人の侍女らしき者たちがいた。


「姫さま、あの女性はいったい何者でしょうか。すれ違ったとき、特に害意を感じなかったので気にとめませんでしたが。それに、逃げるあほ姫を追いかけるのに夢中だったもので」

「あほ姫とはなによ。あれはね、私と同じような仕事をしている人よ。ちょっとだけお話ししたの。割れ目を閉じる方法を知ってるから、力を合わせましょうって」


 あれが不二の都の人だということ、みんなには内緒にしとこう。

 市女笠の女性とほか三人の姿は徐々に遠ざかり、乗る舟ごと湖面の霧に吸われていった。


 ――そう言えば、お名前、聞けなかった。私も名乗ってない。


 なんか妙に親近感を覚える人だった。またお会いできるといいな。



 後日、都に戻ってから娃瑙は夜禮黎明に会いに藍の裏へ向かった。五芒星の形に刺さっていた杭を見せるためである。


「ああ、これはまさしく陰陽道の道具だな」

「やっぱり。でも、どうしてあの湖を狙ったんでしょうか」

「ふうむ。こうは考えられぬか? 何者かが『近濃海』に魔物の幼生がいるのに気づいた。だから、そこに異界の扉を開いた。魔物がいるところに現の割れ目があっても不思議ではあるまい? そして巨大に育った魔物の噂は都に届き、大きな騒ぎとなる。異界の扉を開いたものは、都に住む者たちに恐怖と不安を与えたかったのかもな」

「なんでまたそんな」

「政治の世界と同様、わしら陰陽師にも色々あるのよ。この杭を打った奴には心当たりがある。今はまだ見逃しといてやるが、いずれとっちめてやらんといかんな」


 こうして広大な海水湖、『近濃海』の魔物に関する事件はひとまず解決を見た。

 だがしかし、発端の部分はまったく解決していなかったのである。



 ところで、この旅で媚子が描いた絵は魚竜や首長竜、巨木、巨大花、そして『青耀』に異界の魑魅魍魎とすさまじい量に及び、芸術的な面と貴重な資料であることが高く評価されて宮中に蔵書されることになった。

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