第4話 近濃海(ちかつこいうみ) 前編

 娃瑙姫はちょっとだけ後悔していた。

 媚子(びし)ともっと早く打ち解けていればよかった。

 幼馴染みの伊周の妻、媚子は丁寧な口調ながら熱血な性格の女子だった。

 です、ます、をはっきりと発音して言葉の上では距離を感じさせるのに、態度ではぐいぐい距離を縮めてくる。そして、その強引さがあまり不快でない。

 今日は夫の伊周に連れられてではなく、一人で遊びに来たというから会わざるを得なかった。以前に一度だけ会ってはいたが、そのときは二、三言葉を交わしただけだった。

 ほぼ一年ぶりに会った媚子はあまり変わっていなかった。

 にぱっと八重歯を見せて「おねえさま、おひさしゅうございます!」と挨拶をしてきた。

 身に付ける単衣は、表は淡紅(うすべに)、裏は黄のかさね色目、花山吹(はなやまぶき)。若さ溢れる女子の装いだ。

 手を振る代わりのつもりか、顔の真横に色鮮やかに染まる右手を挙げて、魚口(フィッシュマウス)を作ってぱくぱくさせる。

 彼女は娃瑙姫の一つ年下にあたる。娃瑙姫は十四才なので、彼女は現在数えで十三才ということになる。

 一年前に伊周と結婚したわけだから、その当時彼女は十二才であった。

 やや早婚だが、別に珍しいことではない。女性は大体十五、六才くらいには結婚して、二十才くらいまでに一人か二人の子を産む。この時代、それが普通であった。

 十四才の娃瑙姫は、年齢的に結婚まで待ったなしの状態に追い込まれている。親からは結婚の見えない圧力がかけられていた。

 結婚は恋愛結婚が多かった。護霊の三柱のような高家の者ならともかくとして、貴族と言っても政略結婚とか家同士の取り決めとか、そういう理不尽なものはあまりない。

 男性が恋心を抱いた相手に文を送り、受け入れられれば女性のもとに通い続け、そのあと結婚という手順になる。そして結婚しても同居することはほとんどない。

 多く、通い婚の形態だった。

 余談だが離婚もまた意外と多く、自然消滅という形の別れもあったようだ。宮中に仕える女房たちも、離婚経験者(と言うより結婚経験者?)が多かった。

 今、目の前で媚子は大きな瞳をきらきらさせて、娃瑙姫の眷属である蛇やとかげたちと遊んでいる。何も語らない彼らに、彼女は挨拶をし、身の上を話している。

 かと思えば急に方向転換し、娃瑙姫に伊周の昔話を聞いてくる。

 結婚して一年になるが、まだ夫について知らないことは多いらしい。あれこれと聞いては逆に夫婦生活のこぼれ話を聞かせてくれた。

 そんな嬉しそうに話す彼女を見ると、胸の中のわだかまりも解ける気がした。


 その媚子との会話のなかで、天爛の都から東に向かったところにある『近濃海(ちかつこいうみ)』と呼ばれる広大な湖の話が持ち上がった。

 たいていの湖が淡水であるのに対し、この湖はどういうことか海水湖である。

 またあまりにも大きいため、風が出ると海のように波が生じた。

 この『近濃海』には地方ですらとうの昔に絶滅した太古の超巨大な生物、首長竜や魚竜、翼竜たちが今もなお生態系を築いている。

 なんでも学識者によれば、その竜たちは今の蛇やとかげの遠い先祖に当たるとか。

 となれば娃瑙の興味と対象となりそうなものだが……しかし残念ながら、娃瑙姫の食指は動かない。

 なぜか。

 それは姫が、あくまで陸棲の爬虫類が好みだからだ。

 蛇やとかげ、亀もまた陸に棲むものを好んだ。一応、水棲の爬虫類も飼ってはいるのだが、やっぱり乾いた鱗が天日を照り返す輝きが一番素敵だと思うのだ。

 まあ、本当に変わった娘である。親の嘆きが聞こえてきそうであった。

 どうして媚子がその湖の話題を出したかと言えば、巨大な水棲怪獣が最近になって頻繁に目撃されるようになったからであった。

 どうも近所の住民からは異界の魔物だと噂されているらしい。これが元々住んでいた首長竜や魚竜を喰い荒らしているのだという。


 部屋で媚子と話をしていると、突然父親が屋敷にやって来て娃瑙を呼び出した。

 同じ部屋でぐるりと円になって、親子三人揃って座る。

 前述の通りの通い婚であったので、父と母と娘が同じ場所に揃うのは結構珍しい。


「娃瑙。宮中よりお前に依頼があった」

「またですか」


 以前の求愛の踊りの魔物の件も、宮中からの依頼だった(師匠を介してだったが)。


「『近濃海』は知っとるな。こどもの頃に連れて行ったことがあるじゃろ」

「そうでしたっけ」

「近くにいい温泉宿があって連れて行ったじゃないか。なんだ覚えておらんのか」

「はあ」


 とにかく宮中からの用件とはなんだろうかと、そればかりが気になった。


「うむ。実はな、あそこに見上げるほどに巨大な魔物が現れるのだそうだ」

「はい、さっき媚子からちょうどその話を聞きました」

「なら話が早い。異界から流れてきた魔物のようじゃが、どうやら誰かが外から持ち込んだものらしい」

「あら」


 物騒なことである。

 父の話では、最近政情が不安定で、色々と良からぬことを画策する輩がいるとのこと。

 そういう連中に力を貸す闇商人や妖術師がいて、魔物を『近濃海』に持ち込んだ可能性があるようだ。

 都のすぐそばに、巨大な異界の怪物を放つ。現世に住む者たちへの悪意をもって。

 あらためて考えてみれば、それはぞっとしない話だった。


「魔物はまだ湖に留まっているが、いつ都にまで川を遡って来んとも限らん。どうなるか分かったもんではない。というわけで娃瑙よ、行って見てきてくれんか。そしてできればお前の術で滅するなり、捕えるなりしてもらいたい。と、そういう依頼だ」

「ええ~……?」


 ちら、と母を見た。沈鬱な面持ちである。


「お父さまは、私がそういう仕事をするのをあまり快く思っていないのだと思っておりましたけれど」

「思っておるわい」


 吐き捨てるように父は言った。


「わ、わしだって、娘が妖術使いなどと呼ばれるのは嫌なのじゃ。だが仕様がないのじゃ。あの稀代の陰陽師、夜禮黎明殿が、さも自分の後継者のように吹聴するものだから。『あやかしで困ったら、少納言殿の姫君にお頼みしよう』などと言う者までおる始末。お前も悪いのじゃぞ。この前のこと、うまく失敗すればかえって楽だったものを」


 それを言われると、ぐぅの音も出ない。確かにそういう考え方はできなかった。


「もちろん護衛を付かせる。沙羅も連れて行け。かかったお金は宮中から出るし、足りなければ父が払おう。明日にでも立ってもらいたい」

「あした! って言うか、それも失敗したらいいんじゃないの?」

「いや、もうお前は名声を得つつある。それを自覚するのじゃ。こうなったらむしろ成功して欲しい。わしも力のある術士の親として期待されておる。だが危なければ帰ってきても良い。わしとて娘の命が大事だ。無理はさせないという条件で引き受けてきた。本気で取り組んで失敗したなら、誰にも文句は言わせん。わしが保証する」


 なんだか断れない雰囲気になってきた。

 母がこてっと藤のように頭(こうべ)を垂れて、悲しそうに呟いた。


「ああ、もうなんだってこんな変な子に育ったんでしょ。この子を産んだときはまさか妖術使いになるとは夢にも思いませなんだ」

「黎明殿のせいだ。あの方が娃瑙に変なことを、あんなことやこんなことを教えよるから」

「お父さま、誤解を招く言い方はやめてよ」

「黎明さまは関係ありません。もとはと言えば、この子が蛇やらとかげやらを好むからいけないんです。だから男の方も敬遠して通ってきてくださらない。もう、いつになったら結婚できるのですか」

「ま、ま、お母さま。それはいずれ、ね」

「いやいや、まったく母の言うとおりじゃぞ。黎明殿のことはともかく、お前の趣味は変わっておる。変わり過ぎておる。その昔、『虫愛づる姫』というのがおったそうじゃが、お前はそれを一気に抜いて何千里も彼方へぶっ飛んでおる。はあ~、『へびとかげの君』などと呼ばれるとは、なんとも嘆かわしい。そのうち蛇の化生と結婚するのではないかと心配になるわ」

「ウロコの生えた婿殿なんて母はいやですよ……って、なんで頬を赤らめているのです」

「あ、ああ。え? いやぁ、あははは」


 あははははは。

 娃瑙姫の乾いた笑い声に、両親の溜息が協奏した。



 この話は、意外な展開を見せた。

 なんとそばで成り行きを聞いていた媚子が、自分も同行させてくれと言ってきたのだ。


「お役に、立ちますっ! ぜひとも!」


 ずいっと、まだ幼さの残る顔を寄せて頼み込んできた。

 ちかい、ちかい。

 年の割に豊富な胸が、ばいんっと娃瑙に当たった。熱い眼差しに見つめられ、苦笑する。

 そう言われても、どうせ夫の伊周が許すはずがないのだ。

 ところがである。

 妻を迎えに来た伊周は信じられないことに、これを了承したのだ。


「あ、あんた、奥さんが可愛くないの?」

「もちろん可愛いさ。誰よりもな。だけどあまり旅行に連れて行ってやれなくてな。俺のほうも仕事あるし」

「危ないのよ、これ。分かってんの?」

「ああ、その点はお前を信頼してるから。そちらの侍女さんもな」


 沙羅がこくっと頷いた。

 伊周は完全なアウトドア派で、じっとしているよりも動いているのが好きな男だった。

 楽器や和歌より、剣を振るっているほうが性に合っているようだった。友人の家に押し入った強盗三人をたった一人で切り捨てたという武勇伝も持つ。

 男女の違いはあれど、同じく腕の立つ沙羅を認めていたのだ。


「媚子はいいの? ほんとの、ほんとに行きたいの? 旅ってつらいよ? 退屈だよ?」

「お姉さまといっしょなら退屈しません。つらいのも我慢できます」

「それにな、娃瑙。媚子を連れて行くと役に立つぞ」

「はいっ! 必ず!」


 極彩色に染まった右手で、ぱいーんと胸を叩いた。叩いた拍子に、単衣越しでも豊かな胸が揺れたのが分かる。

 現代で言う、ロリ巨乳である。

 この媚子という女性、白条通りは鯰路(なまずろ)に住む絵師に師事し、本格的に絵を習っていた。教養の一つで、ということである。

 その絵師がたまたま写実的な絵を得意としていたので、媚子もまた人物・生き物・花などを正確に描写することを覚えた。

 絵の描き方は墨の塊を布で持ち、紙や陶器といった媒体に勢いよく線を引く。そのあとに絵の具で色を塗るのだが、媚子の流派は指に直に絵の具を付けて塗るのである。

 そのほうが微妙な色合いをうまく表現できる、という考えらしい。

 絵の具は鉱石を砕いた粉末だったり、貝殻虫を潰して抽出した液体だったり、花や草を擦った汁に粘土を混ぜたものだったりする。これらは一度手につくと容易には落ちないのだった。媚子の色鮮やかに染まった右手の理由はここにある。

 娃瑙姫は、彼女もまた随分変な女子だと思う。

 だが世間的には芸術家肌の教養のある女性と考えられており、決して『へびとかげの君』とは同列ではなかった。不公平なことだと思った。

 媚子の師にあたる絵師は、公務として各地へ赴き、その地方にある様々な動植物を描いて都に送っている。それは貴重な資料として宮中の奥書庫に保管されていた。

 その絵師の流れを組む媚子は、つまり今度の『近濃海』探索において、絵の腕が役に立つと売り込んでいるのである。夫の伊周もそう言っている。


「もう、どうなっても知んないからね」

「大丈夫ですっ、お姉さま! 宮中の依頼、一緒に成功させましょうっ!」


 あ、あつい。むだに、あついわ。

 娃瑙はくらくらしてきた。

 ほんと、あつい女子だわ。いい子なんだけどさー。

 伊周は媚子を連れて帰る間際、娃瑙を呼び寄せて耳打ちしてきた。


「お父上から聞いてると思うけどな、『近濃海』に魔物を持ち込んだ奴がいるらしいぞ。都のそばに異界の怪物を放って何を考えているやら。もし本当なら重犯罪だ。何か手がかりがあれば必ず俺に知らせてくれ」


 伊周は検非違使の大尉(たいじょう)を務めている。警察官僚といったところである。


「なあ娃瑙……気を付けろよ」

「うっさいわね、分かってるわよぉ。私の名にかけて、あんたの可愛い奥さんには傷一つ負わせないから安心して」

「そうじゃない。お前が、気を付けろと言ってる」

「え、あ……うん。ありがと……気を付ける」


 久々に近くで顔を見る。自然、どぎまぎしてくる。

 向こうはなんとも思ってないんだろうけど、こっちは吐く息すら気になるじゃないの。

 娃瑙姫の心中にはまるで気づかず、伊周は愛する若妻を連れて家路についた。



 翌日、辰月(たつき:太陽暦の五月)の七日。娃瑙姫一行は『近濃海』へと向けて出発した。

 春の終わる季節、夏に向けて陽の光が強くなる季節。新たな木々が芽吹き、花を咲かし始める頃のことであった。

 およそ三日の旅程を経て、総勢三十人にもなる娃瑙姫一行は目的地である愛海(あいみ)の国へ到着した。ここは都のある国とは隣合わせの国である。

 道中はほとんど船に乗って川を遡った。『近濃海』から流れる川はそのまま下流でほかの河川と合流する。

 天爛の都の南側には、網の目のように大小の川が流れて分岐・合流を果たしている。

 ここから新鮮な魚介類を手に入れることができ、生活に使う水を確保することができ、様々な形態の船を用いて交通手段にもできる。

 これらの川は、都の繁栄を陰で支えているのである。

 『近濃海』の大怪獣が川沿いに都まで侵攻してくるのではないかという危惧は、決して杞憂ではない。

 実際、水の妖魔が湖や沼、海から川を伝って都までやって来ることはこれまでに何度もあった。その度、検非違使や力士、武士、陰陽師たちの力を借りて撃退してきたのだ。

 川からそのまま湖に遡上することもできたが、食料を補給するため一旦、陸路に入った。

 歌枕(うたまくら)にもなっている有名な『哀町(あいまち)の関』を越え、『近濃海』の南端に近い集落に入る。ここを探索隊の駐屯地にする予定になっていた。

 ここからはもう、『近濃海』を一望できる。潮の香りが強かった。

 あまりにも広い湖面は、ずっと水平線まで続いていて対岸が見えない。風はほとんど吹いていないと言うのに、岸に小さな波が断続的に打ち寄せている。

 愛海の受領(ずりょう)がわざわざ出張ってきて、娃瑙姫たちを出迎えた。受領というのは各地を治める地方官のことで、知事みたいなものである。

 受領は湖を渡るための小舟を用意してくれたが、自分は関係ない、都の連中が勝手に決めたことだ、というくだりを何度も念押ししてきた。

 どうやら厄介事だと考えて、寄らず触らずを貫き通したいらしい。舟と宿を用意したのは受領としてぎりぎり妥協できる範囲だったのだ。

 相手は巨大な異界の怪物。下手に刺激したくはないのだろう。

 無理からぬこと、と思った。



 『近濃海』の近辺は太古の状態から人の手がほとんど着かず、原始の自然が保たれていた。

 姫が到着してまず目にしたのは、人の背丈を優に超える原生林だった。

 そこに住むのは太古の竜だけではない。まだ世に知られていない動植物が数多く蠢いていると言われている。

 同行させている大蛇、夕顔もまた、この近辺で生まれて阿恵山まで流れてきたと考えられていた。阿恵山の周辺では夕顔と同系統の『手足のある蛇』は目撃されたことすらない。

 おそらく、夕顔はかなり原始的な特徴を備えた蛇なのだろう。

 湖の南端からは大きめの橋が架けてある。これも歌枕になる『緒形(おがた)の橋』である。対岸までは架かってはおらず、途中で途切れている。途切れた場所が、船着き場である。ここで娃瑙たちは舟に乗り、本格的な探索に入ることとなった。

 一行は受領の用意した小舟に分散して乗り込んだ。波は穏やかなので多少揺れるだけで済む。お嬢さま育ちの媚子にも問題なかろう。

 娃瑙姫は舟に慣れているわけではないのだが、野山を駆け巡った幼少時を思い出して活き活きし始めた。

 全部で五艘の小舟が、編隊を組んで湖の上を滑っていった。

 先頭は討伐隊の精鋭のはずだったが、娃瑙姫が好奇心のために逸って抜かしてしまい、彼女の乗る船が一番になってしまっている。

 太古の竜たちは巨大で危険だが、出会ってもたぶん大丈夫だろうと娃瑙は考えていた。

 娃瑙の扱う『虫繰り』は基本、小さい生き物を対象とする。夕顔ほどの大蛇に効いたのは、ひとえに姫の無謀さと好奇心の賜物である。術の本質からすれば埒外であった。

 だがこの夕顔との契約が姫の自信に繋がった。竜と言えど蛇やとかげの仲間なら、術で対処できるはず。襲われても、命令して追い返すくらいはできるだろう。

 空を見上げるとコウモリか鳶に似た黒い影が飛び交っている。翼竜であった。

 かなり高いところを飛んでいるため雀くらいの大きさにしか見えないが、実際は牛よりも遙かに大きいと聞く。これらは『近濃海』に住む魚を採って食べるらしい。

 『近濃海』はただ平坦な水面が続く湖ではない。草木や樹木が生い茂る緑多い湖だ。

 湖の中からはシダやつくしの巨大版がにょきにょきと生え、その間隙を埋めるかのようにススキやガマに似た草が密生していた。それらの雑草類ですら長く高く伸び、先端の穂は大の大人が手を伸ばしても届かないほどだ。

 遠くを見れば、さらに天を突くような鋭い大樹が何本も見える。雲にかかる高さにこれ見よがしに真っ赤な大輪の花を咲かせていた。おそらく、ひとつひとつが人と同等の大きさなのだろう。何もかも、都付近で見るものとは規模が違う。

 娃瑙姫はそれらの光景を見て、奇妙な旧懐(ノスタルジー)を感じた。


「すごいけど、なんか懐かしい気持ちになる」


 舟に乗り込みながら娃瑙はぼそっと囁いた。媚子がそれを聞いて驚いている。


「前に来たことがあるからなのかしら。胸にぐっとくるのよね」


 潮の香りと、どこからか漂う花の匂いを胸一杯に吸い込んだ。

 ふと沙羅を見ると、彼女は舟の後ろで櫂を使い、漕いでいる。その顔もまた、昔を懐かしむ様子に見えた。


「沙羅って、そう言えば南の島の生まれだったよね」

「はい、姫さま」

「ひょっとして、ここと似てる?」

「まあ、そうですね。生えているものは違いますが、大きな木に、大きな花、潮の香り。わたしの故郷もこんな感じでした」


 実際は大分違うはずだが、言うとおり共通点は多いのだろう。珍しく沙羅は物思いに耽るようだった。

 媚子は娃瑙と同じ舟に乗って、せっせと何か絵を描いている。持ち込んだ紙に墨と絵の具を使い、もの凄い勢いで絵を仕上げていく。


「はあ、すごい。媚子が絵を描いているところ、はじめて見た」


 沙羅も感心した様子で眺めている。

 色を塗ったその上にまた色を足し、指で伸ばし、磨き、刷毛で拭き、最後に右下に自分の名を落款(サイン)した。


「完成ですっ、おねえさま!」


 紙をばさっと広げると、そこには不気味な魚の姿があった。


「まるで生きてるみたいな絵ね、さすがだわ。でもこんな魚どこで見たの?」

「あそこですっ!」


 媚子が青色に染まった人差し指を、びしっと湖面の遠くに向けた。

 目を凝らしても、娃瑙には何も見えない。


「姫さま。どうやら媚子さまがおっしゃられているのは、もっと向こうのようです」


 沙羅が舟の進行方向を媚子が指差したほうへ変えた。きいーこ、きいーこと櫂で漕ぐ。

 そして娃瑙は見た。

 水面の直下で、ぼろぼろになって死んで浮いている巨大魚を。


「ひぎゃっ」


 体つきはフナに似ていて、鳥のくちばしのような口吻が飛び出している。体の上半分は青、下半分は白。大きさはかなりでかい。娃瑙たちが乗っている小舟よりも大きい。

 尖った口吻の間から、乱ぐい歯がこぼれている。口吻の根元には、体に比べても大きすぎる目玉がある。死んで濁って、恨めしそうに虚ろを見ている。


「なんなの、これ」

「おねさまっ、これはこの湖に住む比良(ぴら)という魚竜です! たまに香裳川(かしょうがわ)でもあがります。なんでも食べちゃう恐いお魚で漁師さんにも嫌われてます!」

「そ、そう。はは……」

「それにしても媚子さま。よくこんな遠くの、しかも草の中に隠れた魚を見つけられましたね」

「媚子は目がいいのですっ!」


 沙羅はますます感心したようだった。なんだか彼女も随分と打ち解けてきた。


「うん?」


 そのときである。遠くから、ふわあ~っと風が流れてきた。

 なんか……、いやあ~な風ね、これ。

 同時に湖面に霧が出てくる。

 霧のなか舟を進めるのは危険だったが、噂の魔物の手がかりが少しでも欲しかったのでそのまま探索を続行することにした。

 全部で五艘の小舟が水を進む。櫂の音だけが大きく聞こえる。

 視界の端々に、巨大なものが映った。

 それらは大きな骨のようにも見えたし、ただの岩のようにも見えた。何かの生き物の骨だろうか、工芸師が造った骨組みのような連なりが半分だけ沈んでいる。

 水面から唐突に顔を出し、短い曲線を描いて再び水中に没して無意味な橋となっているものもある。その上に凶悪そうな面構えの鳥がとまって、じっと水中の魚の動向を伺っている。



 霧のなかに、一本の巨木の影が見えてきた。

 たわみながら、天に向けて背を伸ばしている。傾いた西日を浴び、長く曲がりくねった影を霧に落としていた。

 もう、日が暮れようとしている。霧もだいぶ濃い。

 そろそろ今日の探索をやめて帰ろうと娃瑙姫が提案しようとしたとき、沙羅がばんばんと肩を叩いてきた。

 媚子は真っ青になりながらも墨の塊を手に取って、絵を描く準備をしている。

 何事だろ?

 体に巻き付いた夕顔がせわしなく動き始めた。

 娃瑙姫は沙羅の指が示す方向、高い空へと首を向けた。

 沙羅が何を指しているのかよく分からなかったので、首が痛くなるほど上を向いた。

 そして見た。

 眼前にある巨大な樹が、実は恐ろしいほど大きな蛇の首であることを。

 「あっ」と叫んだつもりが声は出ていなかった。太股がふるふると震えだす。

 討伐隊の男たちは武器を抜くことを忘れ、ある者は腰を抜かし、またある者は悲鳴を上げていた。

 しかし巨大な蛇はまるでこちらのことなど気にする素振りもなく、泰然としている。


「姫さま、出番です。ささ、どうぞ」

「沙羅、だ、だめ、こんなの無理……」


 さっきまでの自信はどこへやら。これは、さすがの姫も恐い。ここまで大きい蛇がいるとは思わなかった。あれに比べたら、夕顔がこどものようだ。

 戸惑っていると、舟の底が何かにぶつかってがくんと揺れた。座礁したか、もしくは魚竜にでも当てられたと思ったが、それは間違いであった。


「姫さま……下をご覧下さい」


 沙羅が急に声のトーンを落とした。

 水がかなり濁って、色が暗くなっている。それが影であることに気づいたのは、ややあってのことだった。

 沙羅も、媚子も、ほかの討伐隊の者たちも、みんな押し黙っていた。

 さっきの比良など比べものにならない。首を右から左に回してようやく全体が掴めるほどの大きな魚影だった。

 と言うか、魚ではなかった。

 そもそも、目の前に立つ長い首を蛇だと思っていたこと自体が間違いであった。小山のように盛り上がった甲羅に、蛇のように長い首が生えていたのだ。舟がぶつかったのは、その甲羅である。

 甲羅の横からは比良ほどもある大きさの平べったいヒレが六枚、伸びていた。

 亀のような甲羅に、六枚のヒレ、蛇のように長い首。こんな姿形の生き物など、現世(うつしよ)にいるはずがない。もちろん太古の竜でもない。

 今回の旅の目的である、水棲怪獣との遭遇の瞬間であった。

 娃瑙たちは一旦舟を遠ざけようと思ったが、沙羅が櫂を二、三度動かしたあと、諦めた様子で左右に首を振った。


「ど、どうしたの?」

「乗っかってます」


 舟が不安定にぐらついた。娃瑙と媚子が並んで舟の下を見ると、怪獣の甲羅の上にちょこんと舟が乗っている。たしかにこれでは漕いでも無駄だ。

 もともとの作戦では、魔物を見つけたら夕顔が毒牙を立て、毒がまわって動きがにぶった隙に討伐隊が矢を射かけて滅することになっていた。

 だがこれほど巨大な魔物だとは完全に想定外だった。正直、舐めていた。ここまで体が大きいとなると、夕顔の毒では少なすぎて効くとは思えない。

 娃瑙は腹を決めた。これはもう、だめもとで『虫繰り』を使ってみるしかない。

 異界の魔物ではあるが、ナリは蛇や亀を足したようなもの。ひょっとしたら、虫繰りが通用するかもしれない。

 とりあえず試す価値はある。娃瑙は内心の恐怖を必死で抑え、話しかけた。

 虫繰りの術は『小さきモノの声』と呼ばれる特殊な音声を用いて、原始的な感情言語を操る。これで昆虫や爬虫類など人の言葉を解さない生き物と心をつなぐのだ。テレパシーより一つ二つ下の感情伝達である。

 はじめはこの言葉なき言葉により対話を行う。そして徐々に心を通わせ、信頼を得る。契約する場合はそれからの交渉となる。

 とにかく、まずはなんでもいいから話してみようと娃瑙は考えた。

 『小さきモノの声』は風のそよぐ音や虫の鳴声に似ている。

 習得には喉だけでなく唇や食道の訓練が必要だが、娃瑙は習い始めの頃からけっこううまくできた。意外な才能であった。

 話しかけている間、魔物は高い場所からただ見下ろすだけだった。その目は遠すぎて見えない。このまま心が通わず、襲われてしまったらどうしようと焦りが芽生えた。

 しかししばらく話しているうち、段々と魔物と心がつながり始めたのが分かった。術の効果が出てきたようだ。

 娃瑙は意外にも、その魔物から嬉しさや懐かしさといった感情を感じ取った。


 あれ……? 私、この魔物、前に見たことがあるような……。


 両者の会話は、突然の闖入者によって打ち切られた。

 空から奇っ怪な鳴き声が降ってきた。怖気の走る声。

 翼竜であった。

 魔物はそれを目で捉えるや、長細い首をにゅい~んっと一気に伸ばし、翼竜に見事直撃。

 ばぐっと咥えて、魔物はそのまま水中へ消えていった。

 娃瑙たちの乗っていた舟が、水面に乱暴に着水させられる。

 見渡せば、いつの間にか水の中の影は見えなくなっていた。

 誰も声を発しない静寂のなか、時間が過ぎた。娃瑙が大声を出したのは大分経ってからのことだった。


「うわあああーっ! こ、こわかったあ!!」

「おねえさま、正直、媚子は軽く考えておりました」


 媚子は口を半開きにし、八重歯を見せてがたがた震えていた。


「わ、私も考えが甘かったわ。でも、だ、大丈夫よっ。万が一襲われても、こっちには沙羅ちゃんがいるんだから」

「姫さま、いくらなんでもあれは大き過ぎます。言っておきますが、あんなのに襲われたら、お守りできません。無理です」

「え、でも沙羅ちゃん、ほら、故郷の島ででっかい海竜を退治したって言ってたじゃない」

「それは大人たちに手伝ってもらってのことです。自分は最後に止めを刺させてもらっただけですから」


 舟をさらに進めて魔物を追うか否か、娃瑙姫は体裁上ちょっと悩んだ素振りを見せ、宿へ帰る決定をすみやかに下した。



 その日の夜、湖畔近くの宿で一行は夜を過ごした。

 とてつもない体験をしたせいで、討伐隊の面子は皆、テンションがおかしくなっている。

 結局、娃瑙姫の声は魔物の心を完全に開かせるには到らなかった。だが全く無効だったわけではない。少なくとも気持ちは伝わってきたのだ。

 次、会えばなんとかなるかも。そう思えた。

 しかしその対話をしていたわずかの間に、媚子が魔物の姿を完璧に描ききっていたのは驚嘆すべきであった。

 その絵に描かれたいくつかの特徴から、それは『青耀(じょうよう)』という魔物であると娃瑙姫は推定した。


「姫さま、ちょっとご相談が」

「なあに、沙羅ちゃん」

「あのときの風ですが、何か違和感を感じました。姫さまは如何です?」

「うん、あれね。私も変だと思った。最初は現が壊れる前兆かと思ったけど、違ったみたい。ただ……」

「ただ?」


 いらだちを隠そうともせず、侍女は話の続きを急かす。話すには、順番があると言うのに。


「ただね、あれは異界の波動を含む風だった。おそらく『近濃海』は半分異界に呑み込まれつつあるのよ。言うなれば、『半異界』ってところね」

「半異界ですか」


 半、異界。

 そう聞いて誰しもが真っ先に思い浮かべるのは、『不二(ふじ)の都』であった。

 『近濃海』よりも遥か東、この島国で最も険しい霊峰、火鵬(かほう)の山の麓に広がる鬱蒼とした大樹海がある。

 その大樹海の最深部に、天爛の都と勝るとも劣らない立派な都――『不二の都』が存在する。現を割ってやって来た、異界のものたちが数多く住む都である。

 二つの都はそもそもが相容れないために、交流はほとんどない。

 この不二のほかにも半異界は東国に何カ所も存在している。天爛の都から遠い東には、現と異界との境が曖昧になっている場所が数多く残っているのだ。

 だが、これほど都の近くに半異界が生じているのはおかしい。

 一体、『近濃海』に何が起こっているのであろうか。



 娃瑙姫たちは宿で簡単な食事を摂ったあと、風呂に入ることになった。

 嬉しいことに、温泉宿である。こどもの頃に家族と一緒に泊まったところと同じ宿だ。

 近濃海は湖とは言え海水湖なので、潮のせいで顔や髪がベタついている。体を洗えるのはとても有り難かった。

 いつもは屋敷仕えの侍女たちに長い髪を洗ってもらっていたが、今日いる侍女は例の南国少女だけである。


「沙羅、髪洗ってくれる?」

「かしこまりました」


 おっと……。意外とすんなり受けたわ。

 三年雇っているが、裸の付き合いはこれまでなかった。

 沙羅は一緒に風呂場に入り、娃瑙姫の長い髪を桶に入れて丁寧に洗ってくれた。

 合歓(ねむ)の木のシャンプーに、天竺の薬草アムラの粉を溶いたリンス。

 沙羅は愛おしむかの如く頬の近くまで主人の黒髪を持ち上げて、うっすらと横目で見ながら指で梳いていく。

 同じ女にちょっと性的な美(エロス)を感じてしまう娃瑙だった。

 なので、髪を洗い終えたときにこんなことを言い出してしまった。

「沙羅ちゃん、ありがとね。じゃあ、お礼に背中流してあげる」

「いえ、結構です。自分でやれます」

「遠慮しないで。姫命令よ」

「はぁ、姫命令ですか」


 娃瑙は沙羅の肌を見て惚れ惚れする。都では色の白いことが美人の条件とされ、七難隠すと言われるが、なかなかどうして。褐色の肌も健康的で美しい。

 なんか、褐色の宝石みたい。

 背骨のあたりを、つつーっと指でなぞった。


「ひぎゃっ」

「あ、ごめん」


 沙羅がびこーんとのけ反って、半睨みで振り返った。

 湯気のなか、銀の髪が目立って光る。


「なにをなさりやがるのですか」

「あはは、つい」

「おねえさまたち、楽しそうっ! 媚子も混ぜてくださいませ!」


 媚子の明るい大きな声が響いた。彼女も風呂場にやって来たようだ。

 娃瑙は媚子を振り返り、そして硬直(フリーズ)した。

 驚愕で目を瞠る。大きい、大きい、とは思っていたが、これほどとはっ!

 おっぱいの大きさが、頭と同じくらいではないか? 頭が三つあるみたいだ。

 胸が頭か、頭が胸か。そんな感じだ。

 伊周は彼女の教養や性格に惚れたのだとばかり思っていた。だがこれを見ると考えを改めなければならぬ。幼い顔に不釣り合いなブツだ。男殺しだと思う。

 あらためて、今度は沙羅を見る。肩越しに覗くと、これまたご立派なお供え物が二つ鎮座していた。

 どっひゃ~。

 娃瑙は自分だってそれほど胸は小さくない、いやむしろ体型(スタイル)は良いほうだと思っていた。だがこの二人にかかってはとても恥ずかしくてそんなこと言えない。

 羞天もそうだ。あの子も北の国の血を引くだけあって、体は小さくても出るところはきっちりと出ている。

 娃瑙は拗ねた気分になってしまった。まるで自分だけまだこどものままみたい。

 媚子が髪を自分で抱え、駆け寄ってきた。


「おねえさま、お背中、流させてください!」

「あ、媚子。風呂場で走るのはあぶないわよ」

「だいじょ、ひあっ」


 もともと風呂場の床板はぬるぬるしていたが、さらにあちこちに泡があるせいで滑りやすくなっていた。

 でーんっと尻餅をついて、そのままつるーっと慣性に従って媚子が突っ込んでくる。


「きゃあっ」

「うああっ」


 媚子の豊かな胸が娃瑙の背に当たり、弾力で弾かれて娃瑙は前へよろめいた。左右に媚子のすらっとした生足が宙に上がっているのが見える。

 想像するに、なんて格好なんだろうか。

 娃瑙は平衡(バランス)を崩し、沙羅にしがみついた。溺れる者は藁をも掴む。みたいな。

 お互い泡だらけでまたつるつる滑る。いっそう、娃瑙は慌てた。

 このままでは横倒しになってしまう。長い髪は濡れると異様に重く、転んだが最後容易に起き上がれなくなる。

 沙羅は不意を打たれて素っ頓狂な声を上げ、娃瑙の手を外しにかかった。


「姫さま、ひ、ひめさ、ま? こらっ、どこをつかんでやがるのですかっ。おはなしくださいませっ! だから、ほえっ?」


 沙羅が褐色の体を伸びたり縮んだりくねらせたりして抵抗を試みるが、力が入らない様子である。腕力では遙かに劣る娃瑙の拘束を振りほどけない。

 沙羅ちゃん、引き締まった体、素敵。

 胸や腹の筋肉の切れが、手に触れるだけで分かる。無駄な肉は一切付いていなかった。

 これが、戦う人間の、肉体……。


「はあ、私も」


 何か言おうとした娃瑙だったが、沙羅がとうとう尻を滑らせて倒れた。

 続けて娃瑙もずでんと倒れる。

 そのまま女三人合体したまま、泡にまみれた風呂場をするぅ~っと進み、壁の木板にぶつかってようやく勢いは止まった。

 三人横倒しになって、こんがらがった状態で泡の上をちゅるちゅるぅ~と滑る。

 媚子の足が娃瑙の脇腹に絡み、娃瑙の両手は沙羅のおっぱいをわしづかみにし、沙羅は娃瑙の足を腕で固定して体勢がずれないようにしてくれている。


「あははっ! おねえさま、楽しいですっ!」

「あほ姫、はやく離せです!!」

「あ~、もう。ふはっ、はははははっ」


 一体、自分たちは何を阿呆なことやってるんだろ。

 こんなところ、ほかの侍女たちには見せられないな、と思った。

 二人はきっと金で雇った家来とか幼馴染みの妻とかでなく、もうすでに自分にとって大切な友人たちなのだ。だからこんな阿呆なことして笑い合える。


「も、もうっ! ふざけんなです、姫さまっ。貸し切りじゃないんですよ、ほかのお客もいるんですからね!」

「ご、ごーめんごめん、あはは」


 沙羅の言葉にふと周りを見回すと、立ち籠める湯煙のなか、やや遠くに人影が見えた。

 あらら、ほんとに誰かいたわ。ちょっぴり恥ずかしい。

 その人影はやがて湯の音をさざめかせ、すぅーっと立ち上がると、おもむろに娃瑙たちのいるほうへ近づいて来た。

 はっきりと顔は見えないが、若い女性のようだ。均整の取れた美しい体型をしている。濡れた髪を束ねているのか、頭に幾重にも布を巻いている。

 娃瑙はすれ違いざま、会釈した。沙羅も媚子もそれに続く。あほな娘たちだと思われていることだろう。仮にも貴族とその侍女だというのは内緒にしとこう。

 女性はにこりと口元に微笑みを浮かべ、頭だけで軽くお辞儀を返して娃瑙たちのそばを通り過ぎ、浴場の扉から外へと出て行った。

 どことなく、物腰に気品を感じさせる女性だった。どういった人か少し気になったが、旅先で出会った人を無為に詮索するつもりはない。

 明日も魔物を追うことになる。湯でしっかり温まって、さっさと体を休めよう。

 風呂から上がったあと、旅の疲れと驚きの連続のために娃瑙は泥のように眠りについた。



 その夜、娃瑙姫は夢を見た。

 あんあん、と子供が泣く声がする。

 誰が泣いているのかと思いきや、それは自分だった。

 ごめん。ごめんね。

 師の夜禮黎明の言葉が、脳裏をよぎる。

 だめなんだよ、姫。それは本来、人とは暮らせないんだ。

 もとの住処には帰すのは、難しいかもなぁ。

 かわいそうだが、処分するのが世のため人のためだ。せめて苦しまないよう、常世へ送ってあげよう。

 夢のなかの自分はまだ小さくて、分別もないような童女だった。

 両手で抱えて離さないのは、蛇のような長い首が伸びた亀。ひれが六枚生えている。

 その甲羅の端にはとげがあり、赤い珊瑚でできた小さな根付が括り付けられていた。

 珊瑚の根付には、こどもらしいあどけない文字で『あのう』とかな文字が刻んである。

 何となく姫には覚えがあった。

 あれは、どこで手に入れたものだったっけ……?

 たしか、あやしげな商人からお小遣いで買ったはずだ。

 なんか変な商人だったなあ……。

 夢は続く。泣きながら幼い娃瑙は、その亀(?)を水へ放した。

 ここならバレないよ、早くお逃げ。

 その亀が水深くへ潜って見えなくなるまで、娃瑙はただじいっと見つめていたのだった。

 あれ、潮の香り?

 じゃあ、この水は海水?

 いや、違う、この場所は、この湖は……!



「わあぁあっ!?」

 娃瑙は布団を撥ねのけて、がばりっと上体を起こした。はあ~はあ~と走ったわけでもないのに息が荒い。

 なに、いまの夢。あれは、まさか? いやあ、そんなはず……。いやでも……たぶん、まちがいない……。

 夢から醒めた娃瑙姫は、急激に焦りを感じていた。じっとりと背中が汗ばむ。

 そうかあ、道理であの魔物から親近感を感じるはずだわ。

 私は以前、ここに来ていた。父に連れられて。温泉と観光のために。

 そしてそのときに、おそらく。

 お・そ・ら・く……!

 出掛ける前に伊周が言っていたことを思い出す。

 ――『近濃海』に魔物を持ち込んだ奴が――都のそばに異界の怪物を放って――もし本当なら重犯罪――手がかりがあれば俺に知らせて――。

 冷や汗と脂汗が交互に垂れてきた。

 これは、これはっっっ! なんとかしなくては!!



 翌日、再び舟に乗って湖を滑っていく。

 昨日『青耀』を見かけた場所に行ってみた。討伐隊たちは周囲の警戒を怠らず、絶えず四方を見渡している。

 風があった。昨日と同じ、異界の気配を含む風。

 夕顔も風の吹いてくる方向を向いている。蛇なのに思案顔に見えるのが面白い。


「おねえさま、この風、潮の香りがしませんね」


 うん?

 娃瑙姫は媚子の言葉に着想(ヒント)を得た。そうか、この風は本来、近濃海の大気ではないのではないか? ひょっとして、異界から直接吹いている? 

 だとすれば、どこかに異界と現との裂け目があるはず。

 まだ近濃海は完全に異界に呑み込まれてはいない。裂け目を閉じさえすれば、もとの古代生物の楽園に戻るだろう。


「沙羅、この風、分かる? 風上に舟を進めて」

「了解です」


 一回片手でふぁさっと銀髪を掻き上げ、力強く櫂を動かした。

 随伴するほかの小舟とは段違いの速度で湖面を走る。異界の風味を帯びた風がどんどん強くなってくる。


「おねえさま、あそこ、ご覧下さいっ! なにか綺麗に光るものがあります」


 突如媚子が大声を張り上げた。もっとも、媚子の声はいつも大きいのだが。

 媚子が指すのは、うずたかく積み上げられた枯れ木や草の葉の塊。泥かなにかで隙間が埋められ、固められている。

 その頂に、綺麗な鱗の塊が何重にも積まれてあった。巨大草からの木漏れ日を受けてキラキラと光っている。

 それがなんであるか、娃瑙は瞬時に理解した。

 そこは魔物の巣。そしてあれは、魔物が脱皮したあとの抜け殻だ。

 それは大小、いくつもいくつもあった。この場所で何度となく脱皮を繰り返し、巨大化していったのだろう。

 媚子が紙を広げて、墨の塊で絵を描き始めた。

 沙羅がゆっくりと小高く盛り上がる巣に舟を近づける。

 娃瑙姫が上ってみると、足元で枯れ枝がきしんだ。もとは大きな樹の枝であったのだろう。枯れてはいても、軽い女子一人乗ったところで問題なさそうだ。

 娃瑙は単衣の表着を脱ぎ捨てて軽装になり、巣をぐんぐんと登っていった。



 頂上には無数の抜け殻があった。

 真新しいものが多い。ごく短期間で何度も脱皮している。だが、下には古い抜け殻がへしゃげて折り重なっていた。時の流れで風化して半分以上崩れている。

 甲羅の抜け殻も混ざっていた。あまり知られていないが、甲羅もまた脱皮するのである。剥がれ落ちたタイルのような、硬い板状の抜け殻であった。

 娃瑙はそれらを見て昨晩の夢を思い出した。胸騒ぎがして巣の下のほうをほじくり返す。

 だ、だいじょうぶ、あ、あるわけないわ。ずっとずっと前のことだし、あるわけないわよ、でも一応念のため………………あっ。

 ……あった。

 見つけてしまった。

 一際古い甲羅の欠片が重なっているところに、泥と草で汚れた赤い珊瑚の根付が紛れていた。薄汚れてはいたが、山と積まれた抜け殻のなか、それはぽつんと朱を落としたかのように目立っていた。

 おそるおそる指でつまむ。汚れを袖でこすり、目を凝らす。血の気が引いた。

 そこには読みにくいながらも、はっきりと、

 『あのう』

 という、かな文字が刻んであったのだ。

 んぎゃあっ。やっぱりいぃ。

 こどもの頃の自分の阿呆ぉー! なんだって名前を刻んだのよおっ。

 娃瑙姫は反射的にそれを懐にぱっと隠した。



 下が騒がしくなった。

 うん? と目を向けると、巨大な蛇のような首が水面から伸びてこちらを見ている。

 いつの間にか、例の魔物が討伐隊の舟のど真ん前に現れていた。男たちが刀を抜き、弓を構えるも、残念ながら巨大すぎる相手にはあまりにも頼りなく感じる。

 しかし娃瑙は動じない。魔物がさらに首を伸ばして、巣の上に立つ娃瑙に顔を近づけてきた。自分の体よりも大きな蛇の頭と対峙する。

 昨日この魔物が自分の前に現れたのは、ひょっとして久しぶりに会う飼い主を覚えていたからではないだろうか。

 虫繰りを行っている際に伝わってきた感情も、それを肯定するものだった。

 娃瑙がおずおずと手で魔物の鼻先に触れると、かしづくように頭を下ろし、目を閉じた。



 巣の丘を降りて出迎えたのは、沙羅と討伐隊の男たちの尊敬の眼差しだった。


「さすが、姫さま。あのような巨大な魔物をも手懐けるなんて」

「いやいや、あはは。まあ、私にかかればこんなもん……。おとととっ、うわっ」


 舟に飛び乗ろうとしたとき、巣の枝に足がとられて、ぽろっと珊瑚の根付を舟の上に落としてしまった。

 かららら……と船底の板を回りながら転がる赤い根付。

 果たして、沙羅は、媚子は、ほかの男たちは見ただろうか。

 はっきりと刻印された自分を示す刻印を。

 船底に接吻(キス)する勢いで根付に飛びつき、急いで背中の後ろに隠した。

 沙羅は不審さを露わにした。


「今、何を隠したのですか? 姫さま」

「へ、いやいや。なんでもないわよ」


 沙羅の目が、妖しく煌めいた。

 やばっ。

 じりじりと、娃瑙は後退していく。後ろ手には、証拠付きの赤い珊瑚の根付。

 沙羅が一足飛びに距離を詰めたのと、娃瑙が舟から跳んで逃げたのはほぼ同時だった。


「姫さまっ?」


 再び魔物の巣へ引き返し、うず高い巣の頂上へ一気に駆け上る。そのままくるりと反転して沙羅たちのほうへ向き直ると、仁王立ちして大きく胸を張った。


「み、皆の衆、ご苦労っ! 大義であった! 私はまだこの湖で調べることがあ~る! それはとっても私的なことゆえ、一人にさせて欲しいったらしょうがない! 太陽が西から昇っても追いかけてきてはならぬぞ!」


 沙羅の目が座った。つぎに口元が緩んで笑った。意地悪そうに。

 あの侍女は、刀の腕が立つだけでなく、洞察力も優れているのか。なんとなく、主人が隠していることを察したようだ。


「いえいえ、沙羅は姫さまにどこまでも付いてゆきます」

「いやいや、ほんと、だいじょうぶだから。すぐ戻るから」


 くるりと反転して転げ落ちるように巣を駆け下りる。

 反対側の水際まで来たところで一旦止まり、大蛇の夕顔を水へ放った。


「とうっ」


 水に浮いた夕顔の太く長い体に、華麗に飛び乗る。


「よしっ、夕顔、進めぇーっ!」


 波乗りよろしく、娃瑙は夕顔の体に立ち乗りして湖面をすぅーっと滑り出した。


「あっ! 姫さまっ、どこ行きやがるですっ!?」


 夕顔は飛沫を上げて、水面をうねりながら走っていく。一気に沙羅たちを引き離す。

 そして沙羅の叫ぶ声が遠くなり、やがて聞こえなくなった。



 だいぶ距離が離れたところで、念のため振り向いてみた。誰の姿も見えない。今のところ、沙羅たちが追いつく危険はなさそうだった。

 ほっとしたのも束の間だった。

 前方に視線を戻すと娃瑙の視界に突如、竜の群れが映った。もともとこの湖に生息する首長竜たちだ。


「うきゃあっ!?」


 ゆったりと水から伸びる草を食んでおとなしそうに見えるが、青耀ほどではないにしてもかなりでかい。それにざっと見渡しただけでも相当の数がいる。

 びっくりして思わず避けようとして、夕顔に無理な方向転換を命じた。

 ざざぁーっ! と水面に激しい波紋を残して横へと避ける。

 うわ、わわわっ。娃瑙はバランスを崩しかけ、両手を横に伸ばしてぱたぱた振った。

 お、落ちるのはまずい。落ちたら、巨大魚に襲われちゃうっ。いや、それ以前に自分は泳げないのだ。

 焦っていると、進む先に一艘の小舟が見えてきた。

 ちょうどいい!


「わっ、あっ! すっ、すいませーん! ちょっと乗せてくださーい!」


 波を滑る勢いのまま、娃瑙はその小舟へぴょんっと飛び乗った。

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