第3話 羞天姫(しゅうてんひめ)

 梅が咲き始めた頃、娃瑙姫は朝から友人の屋敷へ遊びに出かけていた。梅が咲けば、次は桜である。花見の予定を立てるという名目で出向いた。

 と言うのは建前で、本当の目的は別にある。

 娃瑙姫にとって椿家の三女、羞天姫は無二の親友だった。

 彼女は娃瑙姫の妙ちくりんな趣味にも偏見を持つことなく、自然体で接してくれる。

 部屋に案内されると、いい香りが漂ってきた。

 羞天姫はいつも念入りに着物に香を焚き込んでいた。この時代のやんごとなき女性の嗜みである。もちろん娃瑙もやっている。

 しかし羞天の香への入り込み具合はハンパではなかった。

 ありとあらゆる香料を探し求め、高価な香炉を親にねだり、季節や天候に合わせて自分流の練り香レシピを作っていた。

 ちなみに今日は春の香り、梅香(ばいか)。やや白檀多め。

 御簾が上がり、羞天姫が顔を見せた。


「おひさー」

「いえ~い、おひさ~」


 持っている扇の先端をお互いぱしんと合わせ、次いで空いたほうの手でハイタッチ。

 二人だけのお決まりの挨拶。

 羞天は娃瑙とは同い年で、背は少し低い。

 甘くかすれた声(ハスキーボイス)が色っぽかった。表は萌黄(もえぎ)、裏は女郎花(おみなえし)の、目に明るい単衣を身に纏っている。

 彼女は倭の国広しと言えど、ちょっと他にはない見目の女性であった。

 新雪のように染みのない真っ白な肌に、青磁のような深い青色の瞳、何よりほかの女たちと異なるのは陽光を返して輝く金色の髪だ。

 それらはすべて、祖母ゆずりだと本人が語ってくれた。

 なんでも祖母は遠く海の向こう、北の国の生まれだったらしい。軽い観光目的で大陸から半島を通してこの倭に渡り、そのまま貴族の男に惚れ込んで嫁いでしまったのだとか。

 何となく、恋多き羞天姫の根源はこの辺にありそうだと娃瑙姫は思う。

 彼女はとにかく男たちにもてるのである。もう、呆れるくらいにもてるのであった。

 娃瑙姫は彼女の男性遍歴をあれやこれや聞かされたおかげで、自身には一度も男が通って来たことがないのに恋やら愛やらに詳しくなってしまうとい残念な事態に陥っていた。

 いわゆる耳年増というやつだ。

 私がもてないのは、きっと羞天ちゃんのせいね、などと思ってみたり。

 爬虫類と縁深くなっていることが男を敬遠させているとは、露ほども考えない。

 お決まりの挨拶を交わしたあと、羞天姫は娃瑙姫の体に巻き付いているものに視線を向けた。


「夕顔ちゃん、こんにちは。藤壺ちゃんも」


 羞天姫は長大な蛇にも臆することなく近づき、小さな赤ん坊のような手を握った。そのまま、ヨイヨイと上下に動かす。夕顔の表情は蛇だけに読み取れないが、羞天姫の態度にどう接していいか悩んでいるみたいに見えた。

 続いて彼女は、娃瑙姫が胸に抱く犬ほどの大きさもある翠色のとかげの頭を撫でた。

 いつぞやか、求愛の踊りをする魔物を退治した際にも抱いていたとかげだった。こちらが『藤壺』である。どちらも貴族の間で大流行の長編小説から取った名だった。

 藤壺の頭を撫でる、その羞天姫の白い指が艶めかしい。

 先述の通り、羞天姫はとにかく色が白い。沙羅の褐色の肌とは正反対である。その沙羅はと言うと、椿家の庭で一人稽古をしていて今この場にはいない。


「ね、今日はもう『ひとり』、連れてきたの。会ってくれる?」


 娃瑙は懐からとかげに似た小さな生き物を取り出した。


「じゃ、じゃーん」

「まあ、おっきなお目々」


 珍妙なとかげ? であった。飛び出すほどに大きな目に、ぐるっと巻いた尾はカタツムリの殻のよう。体色は背が緑で、腹側に赤や黄、青といった原色の斑紋がある。よく見ればその斑紋は、それ自体が生き物のように蠢いている。


「きれいなとかげね、玉虫みたい。納言ちゃん、これどこで見つけてきたの?」


 『納言ちゃん』とは娃瑙姫の愛称であった。

 愛称とは言っても羞天姫以外は誰も呼ばない。親友限定である。由来はもちろん、娃瑙姫の別名、『桜少納言』から来ている。


「大陸から帰ってきた学者さんが連れてきたの。そのひとに頼んで譲ってもらったというわけ。えっと、なんだっけ? 向こうで呼ばれてる名前。カメなんとか」

「カメ? 亀? とかげに見えるんだけど」

「いや、そうじゃなくて、たしかカメレ……ま、いっか」

「このお目々って、後ろまで見えるのかな」

「うん、死角はないみたい。あとね、この子、ベロをびゅって口から伸ばして餌を取るの」

「まあ、えっちぃ」

「……なんでよ。それからね、この子もっとすごいことができるの」

「なになに?」

「周りの景色に溶け込んで消えるのっ! 鱗の斑紋で光を調節してね」

「きゃははっ、まったまた~。納言ちゃんてばあー」

「ほ、ほんとだってば、わたし試したもん!」


 他愛も無い会話が楽しい。気の置けない友人同士の、掛け替えのない時間。


「納言ちゃん、じゃ、そろそろ見ちゃう?」

「う、うん」


 前置きの雑談は終わり。いよいよ本番だ。娃瑙姫は生唾をごくりと飲み込んだ。



 今日の本当の目的は、羞天姫の手に入れた『とある書物』の鑑賞会である。

 紙がまだ貴重品であった頃である。しかも活版印刷技術など無かった時代、ありとあらゆる書物は紙に手写しであった。

 ゆえに、欲しい本を手に入れるのは至難の業だったのである。しかもそれが人気作品であれば尚更で、加えて……いかがわしいものであるのならさらに尚のことであった。

 『それ』を、羞天姫は別れた男から譲ってもらったらしい。


「おおおっ、そ、それが」

「うん、納言ちゃん。ふふふ」


 御簾の向こうへ入り、羞天姫が持ち出してきたのは一冊の薄い草子本。臙脂色に染めた木板に挟んで、年季を感じさせる紙の束が見えている。その右端が糊付けして綴じてある。


「こ、これが『蛍観音蕾開(ほたるかんのんつぼみびらき)』」


 それは、大陸から伝わる、十大古代小説の一つであった。

 十大古代小説はほとんどが怪奇譚や冒険譚であり、様々な英傑たちが妖怪・破落戸・悪徳政治家などを相手に大立ち回りを演ずる。

 大陸へ留学した文官や僧がこれらを翻訳し、倭へ持ち帰ってきたものが写筆されて世に出回っているのであった。

 この『蛍観音蕾開』が十大古代小説のなかでも異彩を放っているのは、恥も外聞もなく言い切ってしまうと官能小説の側面が強く出ているところだ。

 作中にはこれでもかと言うほど悪女が登場し、あっは~んでうっふ~んな手練手管の妙技を駆使し、男たちを破滅に追い込む。その描写は実に詳細で、切ない男たちが未来のための勉強に用いているくらいである。というか、直截に○○ネタにされている。

 ちなみに蛍も観音も蕾も、あることを指す隠語である。何をか言わんや。

 娃瑙姫と羞天姫は、この蛍観音……略して『蛍蕾』を是非とも読んでみたかった。

 ずっと、読みたいと思っていたのだ。

 女子とて興味があるのだ。誰にこれを非難する権利があろうっ!


「その別れた男のひと、口は固いの?」

「軽いのよん、残念ながら。でも弱みを握っておいたし、あたしたちがこれを読んだこと、誰にも言わないと思うわ」


 それなら、ひとまずは安心。

 へびとかげの君という二つ名に、さらにスケベな女と噂が立ってはさすがに娃瑙姫も進退極まる。親にも顔向けできない。

 それでも見たい読みたいと思うのが、また人間のサガであった。

 ちなみに羞天姫のほうは、多分ばらされても痛くも痒くもないだろう。彼女が恋のお勉強だと言えば、なんだかしっくりきてしまうのだ。世の中の人もきっと納得する。


「ささ、納言ちゃん。覚悟は、いい?」

「う、うん」


 な、なんか暑くなってきた。

 単衣(ひとえ)の表着(うはぎ)を一枚脱いだ。夕顔をその上に置いて休ませる。

 一回大きく深呼吸をする。

 うん、よし。よーし。

 藤壺を胸に掻き抱く。カメなんとかも肩に乗せておく。


「ねえ羞天ちゃん。羞天ちゃんはこれ、も、もう読んだんでしょ? ど、どうだった?」

「ううん、まだ読んでない。せっかくだから納言ちゃんと一緒に読みたいもの」


 ああ、なんて健気。

 あの生意気な侍女に、彼女の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。ホントにやってやりたい。煎じたお茶請けに蘇を付けてやってもいい。

 庭から少女のくしゃみが聞こえてきた。


「ん、お付きの侍女さん、大丈夫かな」

「へーき、へーき」

「じゃ、そろそろ、いっくよお」


 二人は手を添えて、ゆっくりと、書物の表紙を開いた。



「おおおおおっ、これが……」

「きゃ、なんて……だ・い・た・ん」


 羞天姫の部屋の奥、妖艶な香が立ち籠めるなか、二人の女子の嬌声が小さく響き合った。


「こ、これって、羞天ちゃんよりすごいことしてるんじゃない?」

「ええっ、あたし、こんなえっちじゃないよお」

「またまたぁ~」


 扇の先っちょで羞天の脇っ腹をちょいんと突いた。それに過剰に反応して、きゃははっと可愛くも艶めかしい声を出して羞天は腰を捻転させる。


「それにしても、この苑西(えんせい)っていう女、悪いわぁ~。誠実な旦那さんを、間男と共謀して砒素で殺すとか。これじゃ旦那さん、浮かばれないわよぉ」

「前の章に出てきた雲海(うんかい)っていう尼僧も、すっごお~っく艶っぽかったよね」


 和気藹々と紙(ページ)を繰る二人だったが、急にその指が止まった。


「あれ」

「れれれ?」


 いきなり白紙になっていた。次の紙にはきちんと文字が書かれてあったが、見開き一枚分だけなぜか白紙だった。


「どういうことなの」

「まさか写し落とし?」


 喋っている最中、娃瑙姫は開いた本の上に、螺旋を描くように切れ込みが走って行くのを見た。切れ込みが、徐々にひびとなり、硝子のように砕けていく。

 びきびきびきっ!


「あ、……しまった!」


 これは、現が割れる前兆! 異界との門が開く!

 ばりん。

 割れた隙間に羞天姫が、そして娃瑙姫も落ちていった。咄嗟に上へ手を伸ばしても、何もつかむことはできない。

 落ちていくその視界の端に、夕顔が追ってくるのが見えたのだが、タッチの差で現のひびは閉じてしまった。

 「姫さまっ」と沙羅の焦った声も聞こえる。だがそれも薄れてじきに聞こえなくなった。



 二人が気が付いたとき、真っ白な世界にいた。

 どこを向いても白、地面も白、空も白、み~んな白。無慈悲なほどの白だった。

 人はほかに誰もいないようだった。木も虫も鳥もいない。風もない。

 ただ胸にはずっと抱いていた大きな翠のとかげ、藤壺がいる。ぎざぎざのある喉のヒダをぴらぴらさせて、娃瑙のことを心配そうに見上げていた。

 羞天はというと、白い地面にぺたっと座り込んで四つん這いになっていた。大きな碧眼をぱちくりさせ、色白の頬は少し紅潮している。桃みたいだと思った。

 そんな彼女の頭には、例のカメなんとかが隠れている。どうやらこの外世界の珍獣も二人と一緒に異界に取り込まれてしまったようだ。

 カメなんとかは、羞天のゆるやかに波立った金髪のなかに埋もれて、じっとしている。大きな丸い目玉を左右交互に動かして必死に情報を集めているようだ。

 体色が緑から黄色に変わっているのは保護色である。羞天の金髪に合わせて色を変えているのだ。


「ごめん、羞天ちゃん。もっと早く気づいていれば」

「納言ちゃん、これどうなってるの」

「本の中に放り込まれたみたい。あの白紙のところを開いたら取り込むように仕掛けられてたのね。妖術の罠だわ」

「ふ~ん」


 羞天は意外と動じていない。彼女は魔物とも妖術とも、もちろん異界とも関わりを持っていない。なのにこの状況に対して悠然としていた。


「まさか、彼がこれを? ふったあたしに対する意趣返し?」


 娃瑙姫は、ちょっとそれは考えにくいと思った。

 そうそう妖術使いがいるはずがない。たまたま逢瀬を重ねた男がそうだったとか、偶然にもほどがあるってもんだ。

 でも、だとしたら一体誰が? 何の目的で?

 写本されたときに術がかけられたのか、それとも誰かの手に渡ってからか。それもまた分からない。分からないだらけだが、しかし娃瑙は一つだけ推論が立った。

 これは、まさか、『女』が読んだから……?

 もともと持っていた男は、読んでも何ともなかったのではないだろうか。おそらく、単なる落丁本だと考えたのだろう。


「本の中に入るのって、あたし初めて! なんかわくわくする。ねえ、納言ちゃんっ、ちょっとお散歩してみようよ」


 無邪気に羞天姫が提案してきた。

 本の中に限らず迷ったら動かないのが定石だけど、ここは常識が通用するとは限らない。


「そうだね。歩こっか」



 歩く道すがら、娃瑙姫は羞天姫が頼もしく見えていた。

 妖術使いの『へびとかげの君』より前を歩き、傍目には羞天姫のほうが先導しているように見える。

 思えば夕顔と出会ってから約一年、どこへ行くにもいつも一緒にいた。小憎たらしいけど腕の立つ侍女も付かず離れずともにいた。

 それが今や、どちらも自分のそばにいない。

 娃瑙姫は急に寄る辺なさを感じてしまい、翠とかげの藤壺を抱きしめた。藤壺はそんな姫の心情までは読み取れない。不思議そうに首を動かしている。契約の階層はあまり高くなく、夕顔ほど娃瑙の心の機微は分からないのだ。

 羞天の小柄な背中が、ずんずんと先へ進んでいく。道も何もないというのに。

 歩を進めるごとに髪がたなびく。波打つ金髪が足まで届きそうだった。まるで恐いものなど何もないかのような歩みだった。

 何だか置いて行かれそうな気がして、娃瑙姫は焦りを感じ、羞天姫の袖を摘まんだ。羞天はちらと一度振り向くと、微笑を浮かべてまた前に向き直った。

 こういうとき、親友がそばにいるというのは嬉しい。安心できる。

 少し近づいて首の辺りに寄ると、彼女がつけている香が漂った。何もない無の世界では、知っている匂いはことさらほっとする。


「ねえ、納言ちゃん」

「ん?」

「こんなときになんだけど、納言ちゃんって、どんな男のひとが好みなの?」

「えっと、鱗が綺麗で、尻尾が立派なひとかな」

「な・ご・ん、ちゃぁ~ん?」

「ごめんごめん。いやえっと、べつに、どんなひとがいいとか、ごにょごにょ……」

「今度、男の方たちとお茶会するんだけど一緒にどう? 色んな家のお姫さまも来るよ。納言ちゃん、髪きれいだし、和歌も上手だし、きっともてると思うんだ」

「髪は、あなたには負けるわよ」

「あたしのは、珍しがられてるだけ」


 美しい髪は、できる限り長くて、黒く艶があるのが良いとされていた。

 娃瑙姫の髪は足元にまでかかるほど長く、灯の火を受ければ白銀の反射光を返す。枝毛・癖毛はなく、毎日櫛で丁寧に梳いているので墨が流れるようである。

 一般的に言って美しいとされる髪だったが、活発な彼女には重いだけだったりする。これのおかげでこどもの頃ほど自由に走り回れない。今も束ねて結って肩に乗せている。

 一方で羞天の髪は白と金の入り交じった色をしており、キラキラと輝くものの黒髪の光沢とは少し異なる。波打つように伸びる様子は、何か得たいの知れない植物の蔓のようでもある。所々に癖毛が跳ねて飛び出ているのも世間一般の美意識では減点ものであった。

 しかしこの珍しい金髪が噂を呼んで、男たちの興味を惹いているのは事実である。

 羞天姫はそれを逆手にとって恋の道具として使っていた。割り切りがいいのだ。

 和歌に関しても同様で、自分は不得意だからと時々娃瑙姫に恋の歌を詠んでもらっていた。ラブレターの代筆、ということになる。親友をも恋の駆け引きに利用するのだってためらったりしない。

 もっとも、娃瑙姫はそれは嫌ではない。そんなふうに頼られるのが嬉しいと思うのだ。

 お互い、胸の内をさらけ出す間柄である。今さら良いも悪いもないのだった。それに羞天は天然で、たぶん悪意とかはない。


「お茶会のことは、考えさせて。まだ決められない」

「ほんとに考えてよ。きっとよ。ぜったいよ」

「う、うんうん」

「あ、それと今度また和歌作ってね。じつは~、ちょっと気になるひとがいるの」

「たまには自分で作ったら……」


 呆れながらも、自然と笑顔になった。くすっ。

 二人は白の砂漠を延々と歩き続ける。

 娃瑙は一回り背の低い羞天に齧り付いて離れない。取り縋っていた。

 こんなところ、あの侍女に見られたらさぞかし幻滅されるだろうな、と思う。本当なら娃瑙姫のほうが羞天を導き、守って、安心させてやらねばならないはずなのだ。



 何の前触れもなく、急に視界が開けてきた。真っ白な本の世界に、色が付き始めた。

 石畳の道が現れ、その両脇に丁寧に整えられた樹木が植えられている。

 道なりに進めば、小高い丘が見えてきた。その一面に色とりどりの花が咲き乱れている。


「あ、お猿さん」


 丘の上、岩が重なる場所に一匹の猿が座っていた。猿のくせに法衣を着てまるで仏僧である。

 娃瑙姫は首筋にびびっと妖気を感じた。胸に抱いた藤壺も縦線の瞳をすぼめ、警戒心を露わにしている。


「わーい、おさるさ~ん」

「羞天ちゃん、だめっ」


 たたたっと無防備に駆け寄る羞天姫を呼び止めて、娃瑙姫は神妙な顔つきをして偉そうにしている猿を睨みつけた。


「この異界の主はあんたでしょ」

「如何にも。ようこそ、欲求不満のもてない女子諸君」

「なっ」

「ほえっ?」


 鼻白んだのは娃瑙姫だけだった。

 猿が言っているのは、女子が『螢蕾』なんかを読んだことを踏まえてであろう。


「あたしは、べつにだけど~」


 羞天姫は自分は違うと言いたげである。


「さっさとここから出しなさいよ。わたし、妖怪変化の扱いには慣れてるのよ」

「ほっほっほっ」


 猿は鷹揚に笑った。娃瑙姫が発する殺気に気づいていないのか、まったく慌てる様子がない。娃瑙姫にはそれがまた癪である。


「あんたねえ、そんなお坊さんみたいな格好して、それで人間の真似してるつもり?」

「真似も何も。わしは長いこと人に化け、人のなかで暮らしてきた。人ならざる者でありながら仏門に帰依し、修行を行ってきた。わけあって名は明かせんが、これでも都ではそれなりの地位を得ておる」

「は? え? さ、猿が?」

「だが残念ながら、いくら修行を積んでも、終ぞ悟りを得るには至らなんだ」

「へ、へえ~。ざ、残念だったわね。とにかく、わたしたちを早く外に出して」


 藤壺が、姫の手から飛び降りて着地した。威嚇するように口を開け、ヤスリの形をした細かい歯牙を剥き出しにする。


「この子、噛む力けっこう強いのよ。トゲだらけの仙人掌(サボテン)を平気で食べるし、固い椰子の実も殻ごと噛み割るんだから。爪だって岩を削るくらい鋭いしね」

「ほっ、お嬢さん、脅しのつもりかの? そんなことしても無駄じゃよ。大体、そんな脅しを平気でするような乱暴な性格だから、その年でも恋人ができないのじゃ」

「なあっ!?」


 かっちーん。何か鐘の音のような金属音が脳内で響いた気がした。


「図星かの。ほっほっほっ」


 こんの、エテ公……。

 娃瑙姫の頭は沸騰寸前だった。なのに何故か涙が出てくる。睨みながらの半泣きである。


「お猿さんはこんなところで何してるの?」


 険悪な雰囲気に羞天が割って入ってきた。

 甘いハスキーボイスがうまいこと空気を和らげてくれる。娃瑙はまだ目がつり上がっているのを自覚していたが、それでもなんとか冷静さを取り戻した。


「おお、可愛いお嬢さん。お答えしましょう。わしが何故ここにおるかというと、おなごがまたこの異界に落ちたようなので、先回りして待っておったのじゃよ」

「あたしたちのこと、待ってたの?」


 猿は無言でうなずいた。


「わしは先ほど述べた通り、結局悟りを得られなんだ。畜生の身であれば仕方ないかもしれん。代わりと言ってはなんだが、書物や経文を写すことに専念した。少しでも徳を積もうと思うてな。本に仕掛けを施したのは、まあ、ほんのいたずら心じゃ」

「えっ、なに? あれ、あんたが写本したの?」

「左様」


 猿が坊主の格好して、せっせと写本する姿を想像してみた。思いのほか、可愛らしい。


「なんで本に仕掛けなんかしたのよ」

「いやらしい本を読み耽るおなごを、叱ってやろうかと。最近、俗世との関わりが増えて大変でな。ちょっとした息抜きじゃ」

「ただの鬱憤晴らしじゃないのっ! よーし行けっ、藤壺っ!」


 しゃーっ!!

 爬虫類独特の威嚇音が大気を震わせた。


「待って待って納言ちゃん、たんまたんま」


 もう少し遅ければ翠の影が勢いよく飛びかかっていたところだ。すんでのことで羞天姫が身を乗り出し、両手をぶんぶん振って止めた。


「だめだよ~。お猿さん、べつに悪いことしてるわけじゃないんだから」

「え~? う~ん、まあ、そうだけど……」


 言われてみればそうだが、微妙に納得いかない。

 娃瑙姫は目尻の涙を袖で拭った。三白眼で猿の坊主を睨みつけながら。


「あたしたちは、外に出られればそれでいいんだからさ。まずは話し合い。ねえ、お猿さん、どうしたら外に出してくれの?」


 猿は岩の上で胡座をかき直し、勿体つけて髭など撫でながら思案顔をして見せた。


「うむ、まずは男に飢えている理由をお話し願おうかな」

「飢えてない」


 娃瑙姫は藤壺の口を両手の指で大きく、引っぱってみせた。草食ながら獰猛さを感じさせる牙が整然と並んでいる。

 こんなことをして見せるのは、やっぱり脅しである。


「はて。あの書物はけっこうな内容であったと拙僧は記憶しておるのだが。女性(にょしょう)が殿方の◎×◎を○☆えて△●ぶるとか」

「ば、ばかっ。口に出して言うなぁっ!」

「伏せ字にしても、あんまり意味ないわあ」


 娃瑙は赤面して顔が熱くなったが、羞天はアッケラカンとしたものだ。


「ふむ。分かったぞい。そなた、つまり自分の心に素直ではないのだな。よいよい。もう責めはせぬ。おなごもまた、そういうことに興味を持つのは致し方ないとしよう。しかしじゃ、どこまでも突っ張っていては、欲望の捌け口がなくなるぞよ」


 説教じみた話に、若い娃瑙はいらいらしてきた。


「自分の心に素直って、どうすればいいってのよ。この変態猿坊主」

「好きな男に、その気持ち、打ち明けるのじゃ」


 ……なんだ?

 娃瑙姫はこの猿との対話が少しずつ、ずれてきているように思えた。

 羞天を横目で伺うと、頭の上に乗っかっている『カメなんとか』を金髪に搦めてくしゃくしゃと遊んでいる。

 なんだろう。羞天ちゃん、ほんとひとごとっぽい。それにさっきから妙に落ち着いている。

 猿はぽりぽりと爪で目の下を掻いた。片目だけ見開いて、娃瑙と羞天を見比べる。

 ほっほっと獣とも老人ともつかない笑い声を上げた。


「お嬢さんがた、好きな男はおらんのか。一人くらい、おるじゃろう」

「うるさい」


 反射的に、即答。

 一瞬、伊周の顔が頭をよぎったのが悔しくてたまらない。


「あたしは、今は、断然ねえ、朝臣(あそん)の公任(きんとう)さまっ。笙(しょう)がお上手で、教養もあって、なんでもお顔立ちも整ってるんだって!」


 きゃ~っと、羞天は黄色い声を一人であげていた。

 見た目(ルックス)が最後に来ているのは、異性の魅力はまず芸や教養が第一とされているからだ。見た目は二の次。女性も同様である。

 特に女性の場合、御簾から出ないのが常識。外から見えるのは長い髪だけであり、顔は男に見えない(だからこそ髪はもてる女の大事な要素だった)。

 顔を知らずに恋するご時世であったのである。

 それでもどういうわけか、美男美女は持て囃されたのだが。それはさておき。

 羞天姫はくるっと娃瑙姫のほうを向いた。


「納言ちゃんは?」

「い、いないって」


 娃瑙はへどもどした。脇に変な汗が出てくる。


 岩に座る猿と羞天姫は、互いに顔を見合わせた。


「本当はおるじゃろ。言ったら外に出してやろう」

「いいじゃん、教えてよ~」


 ん…………? これはどういう図だ。

 どうして親友と妖怪が結託して、自分の好きな男を聞き出そうとしている?


「ささ、言っちゃって」「言うがよいぞ、むふっ」


 にししし、と見合って笑い合っているではないか。

 娃瑙姫は黙って、一人と一匹の表情を注意深く観察した。洞察力を働かせ、辿りついたのは一つの結論だった。


「ま、まさか、あんたら」


 姫は呆れかえってしまった。そうか、いっぱい喰わされたのだ。


「はじめっから結託してたのねっ!?」

「あ、バレた」

「ほっほっほ」


 ぷちっ。今度こそ娃瑙姫は沸点に達した。


「があぁあぁ~っ!!」


 花咲き乱れる異界の園に、うら若い女妖術師の怒りが嵐となって吹き荒れた。


「きゃあー、あれー」


 羞天は悲鳴を上げたが、おどけて切迫感なし。彼女は白い両手を挙げて降参降参と、走って逃げた。

 娃瑙が猿坊主に指を突きつけて藤壺を差し向ければ、獣本来の俊敏さで花園を縦横無尽に飛び回る。動きのノロい藤壺では捕まえられそうにない。

 やっても無駄、と剛胆にも放言するだけある。これでは埒が明かない。

 何か手はないか。あの猿の動きを止めるような、いい手は。

 そう考えたとき、ふと娃瑙は懐にあるものが入っていることに気づいた。

 師から贈ってもらった瑠璃と琥珀。

 これは単なる御守りではない。ひらたく言ってしまえば一種の魔法アイテムである。

 火打ち石のように打ち鳴らせば、周囲一帯の妖怪変化はスタングレネードを喰らったかのように身動きが取れなくなる。

 貴重なうえ一回使い切りなのだが、このとき娃瑙は怒りと悔しさで冷静さを欠いていた。


 あったま来た! いいわよ、もうっ! 使ってやる!


 左手に瑠璃を持ち、右手に握った琥珀を振り上げて打とうとしたそのとき。

 赤黒い紐のようなものがぎゅう~んと伸びてきて、二つの石を娃瑙の手から奪い取った。


「わーい。宝石、もーらい!」


 唖然とした。まさかである。

 羞天姫の頭からそれは伸びてきたのだ。正確には、娃瑙が連れてきたあの珍妙なデカ目のとかげ――「カメなんとか」の口からだ。


「ななな、なんで? どうしてそいつが羞天ちゃんの味方すんの? それ私の眷属なんだけど……?」


 羞天姫は手を頭の上に伸ばし、手探りで「カメなんとか」の口から瑠璃と琥珀をぽろっと取り出した。


「う~ん、なんでかな。この子もご主人さまにスッキリしてほしいんじゃないの」

「だ、か、ら、余計なお世話よ! そこの猿もっ!!」

「心に男がいるのじゃろ? それを認めよ。気持ちを相手に伝えよ。さもなくばずうっと後悔するぞよ」

「余計なお世話だって、何遍言わせんのよおっ!」


 藤壺の太く長い尾を片手で持ち、大きく振りかぶって投げた。

 羞天が猿坊主の肩に、ぽんと手を置いた。途端に一人と一匹の姿が空気に溶けて見えなくなる。

 げっ、これはあの『カメなんとか』の能力。

 哀れな藤壺は、娃瑙の怒りを乗せてむなしく宙を飛んでいった。

 辺りに、気配は感じない。自分以外誰もいなくなってしまったような錯覚に陥る。だが、まだ近くに彼女たちはいるはずだ。

 そばに咲く草花がざざざっと、何者かが通るように薙ぎ倒されていく。多分そこを歩いているのだ。信じられない光景だった。


「う、うそ。あのとかげの妖力、完全に使いこなしてる」


 見えない空間から彼女たちの声が届いてきた。


「さあさあ、言っちゃおうよ」「えっちなおなごよ、楽になるのじゃ」


 言~っちゃえ、言~っちゃえ。ほっほっほ。


 わなわなと震える娃瑙姫。こ、これは、悪ふざけにもほどがある……。


「夜禮黎明の弟子、『へびとかげの君』を」


 唇をきゅっと小さなへの字に結んで、またしても半泣きになりつつ力いっぱい叫んだ。


「なぁ~、めぇ~、るぅ~、なあああああああああ~っ!!」


 事が収拾されたのは、それから半時ほども経ってからのことだった。

 そのときには全員が不毛な鬼ごっこのために、汗だくになってぜいぜいと息を切らしていたのだった。

 現世へ戻ったあと、羞天姫はテヘ顔で謝った。あまり謝意は伝わらない。


「ごっめ~ん。あの、ほんと悪気はなかったのよ」


 目を見ようともしない娃瑙姫を必死で取りなそうとしている。

 娃瑙はそんな態度をとってはいたものの、本気で怒っているわけではない。

 聞けば、実のところ羞天姫は自分一人で先に『螢蕾』を読んでしまっていた。その際に異界に取り込まれ、あの猿の坊主に会っていたのだ。

 羞天姫は初めて見る妖怪に興奮し、猿のほうも妖怪相手に物怖じせず話す彼女に好意を持ち、長い時間おしゃべりをした。

 それがどういう経緯でそうなったのか知らないが、羞天の親友である娃瑙姫の話題になり、好きな男を内緒にしてずるいと羞天が言えば、猿はそれなら聞き出すのに力を貸すのもやぶさかではないとか言い出した。

 で、こうなった次第である。

 まあ、私のことを心配? してくれた上でのことだし。許したげよっかな。


「ありがと、納言ちゃん。こんどお詫びするね」

「でも羞天ちゃん、もう回りくどいことは、なしにしてよ」

「うん、肝に銘じとくわ。あ、あとそれから、ひとつお願いがあるの」

「え、なに」

「この子、気に入っちゃった。あたしにちょうだい?」

「ああ、そのカメなんとかね」


 今日、羞天姫が自在にこの目デカとかげの妖力を使うことができたのは、ひとえに間近に娃瑙姫がいたからに違いなかろう。

 でなければ妖術の修練を積んでいない羞天が扱える理由はない。間接的に娃瑙姫の力を拝借していたのだ。だから一人で飼ってもそれはただの珍しいとかげに過ぎない。

 そのことを伝えても、羞天姫は強く欲しがった。どうやらその異形を心底気に入ってしまったらしい。


「分かったわ。羞天ちゃんにあげる。大事にしてね」

「ありがと。納言ちゃん、大好きっ」


 青い瞳を全開にして、屈託のない笑顔を見せた。

 その場でカメなんとかは、羞天姫により『雲居(くもい)』と命名された。



 後日、件の書物は羞天姫の元彼のところへ送り返されることとなった。

 娃瑙姫独特の野太い字で、赤い墨を使い、表紙にでかでかと、

『おんなのこは見ちゃだめ!』

 と書かれて。

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